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マーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオーレ 門林岳史 訳 加藤賢策 デザイン監修 『メディアはマッサージである』 河出書房新社 2015年 
……の、講読メモです。

 水色の部分は本に書いてあった内容ではなく、わたしの感想や推測です。
 灰色の部分はわたしの注です。

 この記事はコメントを許可していますので、わたしが間違ったことを書いてしまっていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合、コメントをいただけると大変嬉しいです。

目次
 アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 電気技術 脳の神経回路の延長
(オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 環境について
 プロ・アマ
 

アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 書物、絵画…美術

 断片化、すなわち専門化と分離、分類 目の中立的世界 
 目標・職業とは断片化・専門化されたもの

 環境すべてを視覚的、空間的見地から見る習慣
 均質で、連続していて、かつ連結しているような時間と空間に関連づけて知覚する習慣
  ↑なんじゃこれは
  「この環境は、AとBとCとDとE(すべて均質)が、このような連続と連結を描いていることによって成立している時間と空間である」みたいな見方?
 額縁の中のものに一切干渉せずに見る、という態度
 美術=文化を図像に翻訳したもの→空間近くのあり方がかたちになったもの
 ルネサンス以後、西洋人は環境を目で見えるものとの関わりにおいて知覚してきた
 空間測定の形式的な単位でできた平面状に透視図法を用いて投影したもの=芸術家にとっての「空間」
 固定された観点からあらゆる現象に目を向けようとする根深い習慣

 印刷術により、流れ作業による大量生産で均質なものを流布させられる
「個人的に読む」ことができるようになる
 人に考えを吹き込むこと(inspire) 密かに企みを分かち合うこと(conspire) が可能になった
 個人主義という新たな信仰 私的観点 が可能になる
 他人との関わりから距離を持つ能力

 公衆を生み出した
 それぞれの私的な観点を携えて歩き回る人々
 断片化された視界たち

 直線の世界
 専門化は、その直線を部分ごとに=部門ごとに分けていくこと
 直線=連続体であること=合理性
 事実や概念を一続きにして連結することに、合理性や事実の論拠を求める
  ↑アカデミックライティングってまさにこういうものだよね。
  ↑電気技術が当たり前になった現代では、統計やデータの提示をこの代わりにしてしまう(良いのか悪いのか。「悪い」と思うのはオールドファッションなのか?)ことが増えた?
 文学的プロットによる社会 物語の筋_ストーリー・ライン

 もっとも意識的な経験はほとんど視覚性を持たない ことを視覚的人間(西洋文化における合理的な人間)は忘れている
 この文言はめちゃくちゃわたしの言いたいことを言うために使えそうだけど、「意識的な経験」とは何か? が言えないとふわふわしちゃう そこんとこどうなんですかマクルーハンさん
 視覚性とは「固定されたパースペクティブから見る、均質で連結した世界として知覚されるあり方」のこと?

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ

 電気的コミュニケーションの時代においては遅すぎる

 ソクラテスによれば「真理の見せかけ」
 人を忘れっぽくさせるもの
 確かに、現代では「ネットで全部調べられるのだから、テストと称し人を閉じ込めて記憶している知識を問うことに何の意味があるのか?」という問いも飽きるぐらい提示されるが、それに近い転換がこの時代も起きていたのかも。
「書物に全部書いてあるのだから、人が経験を積んで自分(の身体と心)で覚えていくことに何の意味があるのか?」となっていたのかも。
 事実、もうここはわたしの価値観や人生論の話になるが、人々は自分が人生の中で経験して得たことよりも、何かすごそうな人が言っていることやすごそうな本に書いてあったことの方を信じて生きてしまいがちな社会になってるよね。

 理論と実践、想像と執行することを切り離す→もともとこの区別はあったものだと思い込まれる

 聴覚的なリズム、抑揚、休止をタイポグラフィで表そうとする
(例:フォント、字組み、書式……)

 著作権を作り出した

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー

電気技術 脳の神経回路の延長
 テレビ、コンピューター、インターネット(WWW)……

 結合、相互関与 断片化されたものが再びまとまっていく 区別できない 
 流れていくもの、統合されたもの、融合したもの
 われわれ全員に、みんな同時に干渉してくる 距離を取ることも枠にはめることもできない
 相互依存→グローバルヴィレッジ
 関与し合って満たしたいという年中続く欲求
 役割 全面的関与

 共時的 即時的 すべてが同時に生起する 作用と反作用が同時
 環境と経験が相互作用しながら共存
 時間と空間は一つのもの という感覚
「時間」は止まり、「空間」は消え去った
 多次元的な空間感覚
 神話と深層の世界
 
 情報が即時的かつ連続的に私たちの中に流れ込んでくる かつめまぐるしく移り変わる
 データ分類からパターン認識へ 

 テレビとは触覚を持つ。もはや単に視覚的なものではない 視聴者を内包する(テレビの中の世界に取り込んでしまう)内包性を持つ。
 大衆を生み出した
 大衆文化という 環境=自然な直接経験、能動的な力
「自然な直接経験」と、「(最も)意識的な経験」は近い意味? どうなんだろう
 全面的な電気ドラマ

 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの
 CM 物語形式のための時間がない 省略的な編集、突然のズーム、フラッシュ・カット

 考えの即時のコピー
 自己表現→チームワークという中世以前への回帰
 これは残念ながらソーシャルメディアの台頭やネオリベラリズム的自己の在り方が必要とされるようになったことにより変わってしまった。「良かった頃のインターネット」では、インターネットは集合知=チームワークの世界だったけど、今は「みんなが芸術家のように振る舞うことを強いられている」社会。個性が重視されるなんて言葉では足りず、個性がなければならない社会。
 ……わたしは多分個性を持っちゃった側の人間だから、これから生きやすくなっていくんだろうけど。まあでもぶっちゃけ個性なんてみんなにもあるはずなんだけどね。「突き抜けるか同調しろ」っていう状態だからしんどいだけで。

 テレビは印刷技術の頽廃した形ではない
 今や映画も音楽もテレビコンテンツも、演劇やコンサートすらも、自分の好きなところに持っていけて、好きな時に触れるのを始め、好きな時にやめられる小説のようなものになっている気がする。……だから私的観点という概念は今でも健在……なのか……?
 いやでも、絶えず干渉してくる存在っていうのはやっぱあるか。SNS。そうするとやっぱ私的観点は昔ほど堅いものではないだろう。その輪郭は融解している気がする。
 近い「私的観点(のようなもの)」を持ったクラスタに個人が所属し、そのクラスタの干渉を常に受ける(だから個の輪郭が融和する)という感じか?

 そん中でも融和しなかった人が「個性」を持てるのかもしれない

 冷たい戦争
 情報処理装置としての環境 プロパガンダ
 対話が始まるとプロパガンダは終わる
 プログラマーではなくメディアに話しかけるべき
 メディアと「対話する」つまりメディアのメッセージに向き合うと、プロパガンダは終わる? イデオロギーに気づくとイデオロギーはうまく作用しなくなる的な?

 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている

オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 電話、蓄音器、レコード、マイク・アンプ・スピーカー、ラジオ、CD、テレビ、ライブビューイング、YouTube、音楽配信サービス、リモート演奏会……

 耳の魔術的世界 神秘

「かつて聴くことは信じることであった ヒアリング・ワズ・ビリーヴィング」 
 メイクビリーブという言葉の意味がまだあんまり分かってない。この一説と関係が深そうだから調べておく。

 境界も方向も水平線もない世界 精神の闇 感情の世界 
 原初的直感によって、恐怖によって生きていた
 うまく言えないけど、「現在しかない」という感じなのではないか。
 叙事詩で過去の話を聴くときも、「過去の話を聴いている今」「過去の話をうたっている今」しかない。
 書物のように、「振り返る」ことはできない。

 話し言葉がその社会のチャート図

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ
(あえて同じことをここにも書いておく)
 逆に言うと、話し言葉の時代は(今の概念で)「思考」と呼べるものはなかったと言える。あったとしても今とは違った様式だっただろう。
「感情の世界に生きていた」と言うのだから、マクルーハン的には話し言葉は「合理的」な「思考」ではなく「感情」「神秘」を伝えるもの、と言いたいのかも。まあそうなんじゃないだろうか。

 そして、話し言葉はかたちを持たなかった、という「逆」も言える。これは私の研究的に重要そう。

 書物は私的に読めるけど、おしゃべりは相手がいないとできない。個人主義も話し言葉の時代には当然なかった。
 でも今は音の聴取も個人主義になれる。イヤホンやスマートフォンのおかげっちゃおかげだが、遡れば鉱石ラジオやトランジスタラジオもそう。ウォークマンは言わずもがな。

 聴覚的で、水平線もなく、嗅覚的な世界ーアルファベット以前の未開民族
 ここにはすごいプリミティヴィズムがあってあんまやだなあ。未開民族なんてきな臭いワード持ってこないで、聴覚芸術の世界って言うべきじゃないのかそこは。

 見えているものだけでなく、知っているもの全てをそこに詰め込む 描写したいものを全て説明できたと感じるまで 多次元的空間感覚
 これが聴覚芸術で起こることはあまりない。あったら面白いと思う。やっぱり目の世界の「見たまま」を引きずるのか、「実際に聞こえるように」聞かせる、つまり耳の再現をすることに徹しているように感じるし、特に注意を向けたい音しか鳴らさないのも、聴くべき音だけを拾うという耳の機能の再現?
 しかし叙事詩の世界なら、そもそもすべてお話の世界のことだからラジオドラマのように再現すべき「耳」はそこには存在しない。結果、語りの中に時間も空間もすべて詰め込まれている? ねむい

 原初的な感情、部族的な感情
 聴覚的空間に帰ってきた

 耳は特定の「観点」をひいきしない われわれは音に包まれている 音はわれわれの周りに継ぎ目のない織物を形作っている
「継ぎ目のない」という点が「環境」についての言及に似ている。音=環境=取り巻くもの=アンビエント、という感じ。

 一切焦点を合わせることなく、あらゆる方向からの音を聴く
 耳にはまぶたがない
 同時的な諸関係の世界

 ホメロスの『イリアス』が百科事典 精神的・倫理的・社会的生活のための教訓
 詩的・演劇的慣用表現 説得の技(修辞法) 狙った通りの心理的反応 ←抽象的・思弁的な推論に対する障害(forプラトン)
 真理を同調して記憶、想起
 霊魂と精神の集合的産物
 リズム・韻律・音楽
 心理や感覚に働きかけて「(心や身体で)わからせる」のが吟遊詩人の歌だった
 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている(マクルーハンの時代)

 話し言葉の隠喩的モード
 多くの意味を単一の点に集めるプリズム
 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの にも近い?
 より多くのことを示唆するため、「正確さ」を犠牲に
 因果関係が織りなす複雑な集合を一気に察知するモード=神話
 わたしが執着している解釈の自由度も、ここにある気がする!

 聴衆を身に纏うこと、環境を身に纏うこと、時代全てを身に纏うこと=神話
 ビートルズの例え 英語を見に纏うことで音楽的効果をもたらすことができるようになった
 ↑なんじゃこれは
「環境」を己から遠ざける視覚的な世界観ではなく、むしろ纏ってしまうこと?
 遠くのものとして分析し分類しそれを連結させ直線的に語るのではなく、
「環境」を積極的に受け入れ、その中で感じられるもの(=環境)を複合的なものとして単一の点に集めて表現をすること?
「マクルーハンの読み方」みたいな文献を読むのもあり。ただし膨大になってしまいそうだけど……
 まさか「最も意識的な経験」って、「環境」のことなのか?
 若者は、この宇宙を見に纏うための公式を求めている(宇宙から距離を置いて観察するのではなく)
 三人称ではなく一人称

 話し言葉による概念だけで理解するのは困難とされる 非可視的だから
「話し言葉による概念」が残っている世界=キャッチコピー、格言・名言、パンチライン、聴覚的な詩
 意味は多義的で、耳に残る(=心に残る)言葉、言い回し わたしはそういう文体を好んでいるな 例:「再会を必ず」(あさのあつこ『NO.6』より)、「僕には絶望する権利がある」(伝・フランツ・カフカ)、「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に美しい」(時雨沢恵一『キノの旅』より) それぞれ省略だったり逆説だったり対句(対照法?)だったり、詩的な修辞法が使われている

 ケージは、音は音、音楽は環境を見に纏うこととして、音について人々が持っている/あるいは持とうとしている観念をすて(それは環境から身を引いて観察する視覚的見方だから)ようとした。
 同時多発するメッセージ 口承言語による音楽の洪水 対位法的言葉 フィネガンズ・ウェイク

 耳が目には見えないものを掴むなら、記号化できないものも解読できよう
 聴覚芸術なら、トラウマのような記号化できない「体験自体」を作り出せる?
 マクルーハンへの批判も読まなきゃやばいなこれ、今やるなら

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー
 とすると、やっぱりラジオドラマの音って視覚的なのでは……???

環境について

 われわれの感覚閥すべてに、日々の学習が発見のプロセスとなるようなシステム、知識、制御=芸術 を広げていく必要がある

 環境とは受動的な包紙ではなく、不可視の能動的プロセス
 芸術家が作るそれへの対抗的状況は、環境に直接注意を向ける手段をわれわれに与え、容易には知覚し得ない環境の詳細な様相を解明することができるようにするものである

 古い環境と新しい環境の相互作用

 19c→20c
 単一のモデル→複数のモデル
 発明の技法→判断の保留

 バックミラー越しに現在を見ている
「自分から遠ざかりつつ過去」を見ながら、われわれは未来に向かって進んでいる。

 新しい環境が要求している仕事を古い道具でこなそうとする失敗
〈死の舞踏〉「不条理演劇」

 メディアは、環境に変更を加えることで、そのメディアに固有の感覚比率を人々のうちに生み出す。生活に変更を加え、形作っている。

 人間が作り出したメディアという環境が、逆に人間の役割を定義する

プロ・アマ

 プロ
 環境的 全面化した環境パターンの中に個人を埋没させる 環境を疑わない
 分類し、専門的になる

 アマ
 直感、精神の独立性・独想性
 個人による全面的な察知能力、社会の基本原則を批判的に察知する能力

2021.6.8 書き始め
2021.6.9 追記1
2021.6.10 追記2