元気と焦り

元気がまた自分の中に充填されてくると、私は俄かに焦り出す。
「これからどうなるの」とか、「どんな人間になるの」とか。
その度に、それだけ、生物学的にのみ生きることなんてできず、どうしたって社会的であるしかない人間には、「素晴らしい他の誰か」「名前のついた理想的な存在」になろうとする動きが内面化されてしまっているんだと痛感する。

自分を語る言葉は増えれば増えるだけ選択肢が広がって良い。けれど、言葉に縛られる必要はない。
大切なのは、自分が自分であるとまず誰より自分自身に説明し、そのあとに人にも自分がしたい範囲で説明できることであって、「その言葉らしいわたし」になる必要など全くないのである。

だから私は、「なりたいわたし」も「今のわたし」も、言葉で縛ることはしたくない。

そうは言っても、突然水に投げ込まれたら自然ともがいてしまうように、心に元気が溜まってくるとつい、意識が外に向く。無闇に動こうとしてしまう。

……うぬぬ。負けぬ、焦らぬ、戦わぬ。
引かぬ、媚びぬ、省みぬ!

という感じで、緩さを忘れずにこれからも暮らしていきたいです。

被支配

結局自分は支配されていて、自由なんかじゃないと思ってしまう。
たぶん、支配されている状態にとどまっているのは自分がそう決めているから、なんだと思うけど。

だってそのために戦うのってしんどいじゃない。もう嫌だよ。小学生の頃からずっとだよ。
小4から不登校しながら見ていた風景の方が、その後中高だましだまし通っていた自分よりずっと自分らしかったと思う。大学は自分で選んで自分の好きなところに行ったからまた毛色が別だけど。

けどなんかもうダメかもしれん。見ないようにしてきたが積み重なったものが多すぎる。たぶん無事に大学は卒業できない。どこかで一旦どうにかしないとこのまんまで社会に出て生きてはいけない、マジで死ぬ。

何もかも怖いもん。

いつも必ず誰かに許してほしくて仕方ない。わたしマゾヒストじゃないはずなんだけどな。
奪われたくないから守られたくもない。一人でいい。どころかわたしがいなくてもいい。「彼ら」が私の中にいて、彼らがいた証を残そうなんていう使命がなければとっくに死んでる。

結局、自分の痛みに鈍感かつ人を傷つけられる奴が強くて、勝手に傷つく奴が弱くて、強い奴は弱い奴から搾取していくんだろうとか、ついそういうわかりやすいモデルで世界を見てしまうけど、それだって歪み切った認知だってこともわかってるつもり。
わかっててもどうしようもないんだけどね。

はー、金欲しい。
経済的に一人で歩けるようになればこの被支配感も消えるんだろうか。
とりあえず誰にも見つからないように生きたいわ。

自分で自分を許すったって、情動ってものは身体の底から湧いてくるのであって頭で考えて自分を責めてる訳じゃないのでどうしたらいいんですか。

感じ切るってなにそれ辛い。
一歩も動けない奴だ。
でもそれが一番自然だと思う。心にも鎮痛剤をかけたらもう何が何だか分からなくなりそうだし。

めそめそしてる自分は嫌いじゃない。
ただそれにかこつけて奪おうとしてくる奴らが近づくのが嫌なだけだ。

もうずっと曲と文を書くだけの存在になりたい。
人間としての自分とかいらないわ。

L-tone Lunaさんの新作。

私の敬愛する音楽ユニット(?)L-toneの岸本悠太さんのチャンネルに新曲(アレンジだけど新しいトラックであることに変わりはない)が10月に来ていた。
今日気づいて狂喜したので共有。

えっ、まじ嬉しすぎる……
Lunaさんが生きててよかった……
しばらく音沙汰無かったのでこのまま失踪しちゃったらどうしよかと……

以下、L-toneをダイマしますがうろ覚えな箇所もありますので鵜呑みにはされないようにお願いします……(予防線)。


L-toneとは:編曲・Lunaさんと詞曲・toneさんによるユニット。私が惚れたポイントは衒学的でキレキレの気持ちいい歌詞と巧みな音楽性。音作りも展開も私好み。とりあえず聴いて。聴いたら語りましょう。
おすすめは「名」「6-7-5-1」「N × ?」「morning shift」

はぁ〜〜〜〜幸せ。

これからもいっぱい彼の音楽を聴きたいので無理はされないでほしいけど定期的に浮上してほしいなあ。

過去を掘る

創作をしていると、それも頭で考えて自分の上に何か積んでいく方式ではなくて、自分の中にすでに溜められたものをすくい取る形で創作をしていると、順調な時は畑を耕すみたいにふかふかな感触とその中で芽吹くだろう種の成長を想うのを楽しみながら書くことができるけれど、時々ゴツっと手ごたえにぶつかることがある。

その手ごたえの正体は過去に解決できないままそこに置いておくしかなかったわだかまりで、人はそれをインナーチャイルドと呼んだりカルマと呼んだりするのかもしれない。

そういうものを否が応でも見つけてしまうことは、私にとって悪いことか否か。
自己判断では否である。

確かにその過去の残骸とも呼べるものを目にして蹲ることもあるけれど、創作をやめようとは思わない。
掘って、耕して、見つけて、掘り起こすのを繰り返すのは、それこそが人生なんじゃないかって思うから。

要するに物を作ることは私にとって生きた心地を取り戻すことなのだ。
地に足つける、とも言う。
なくてはならないものだ。

心は、普通のかすり傷みたいに、瘡蓋ができたら何もせずにそっとしておけば傷が治るというものではない。というより、何もしないでいたら庇うことやその傷への刺激を取り除くことができないので、そっとしておくことはできない。
結局逃げ続けても向き合わなければ繰り返す。
実際私は繰り返してきて、もうそろそろうんざりしているし。

だから物を作ることで、私は確かに前に進めているという実感を得ているのだろう。概念的な、人生における前進がたとえ幻想でも、形になる成果物は実際手にできている。

時折辛いことを掘り起こして、今日みたいにその余波でぐらついても、それも受け止めると決めたのだ。

ゆっくり、自分に寄り添って、長い息で続けていこう。
明日も。

なんて取り留めもないことけれど、ここに吐き出しておく。

取り出す

自分の外の世界の面白さに反応して物を作る人が、私の周りには多かったので、自分もそうするべきだと思っていた。

けれども私にとってそれは、身体ではなく、生み出す器官からではなく、頭で物を作ることだったので、自然なことではなく、いずれ限界の来ることだった。

何より、そうして物を作っていると、自分が今どこにいるのか、何をして、何を感じて、どれだけ消耗しているのか、自分で理解することができない身体になってしまうから、とりあえずやめてみようと思った。

今は自分の肚の底から浮かび上がってくるものを作っている。

いつか底が尽きる日が来るのかもしれないけれど、その日はその日で楽しみでもある。

花を買った話

推し(花)が可愛くて好きすぎてつらい。

ローズ - "ラプソディ"
ミニバラ - "タージマハル"
ダリア - "桜貝"
スプレーローズ - "ファンシーローラ"

ピンクのバラの花言葉
「しとやか」「上品」「感銘」「感謝」「幸福」
ダリアの花言葉
「華麗」「優雅」「気品」「移り気」「不安定」

なんとなく「蜂巣」の登場人物をイメージして選んでいます。”ラプソディ”が蓮、”タージマハル”が京、”桜貝”が浅香です。

昔から花が好きだったのですが、なかなか自分で自分に買い与えてあげることができなくて、
今日は思い切りました。
花を蓮や京や浅香だと思って、心を込めて手入れしたいです。

生花には、造花にも写真にもプリザーブドフラワーにも出せない美しさがやはり宿っていますよね。
花のある生活、とても幸せです。

消えたがり ?

好きだったブログが2箇所とも無くなってしまうらしい。

行けるところまで行き着いた人間は、更なる遠くに行こうとして消えたがるのだろうか。いや、それは「消える」ではないんだろうけど、今の私にはそれが「消える」ではないのなら何なのか、どう言い表すのがふさわしいことなのか分からない。

私にも分かる時が来るんだろうか。

私を書いて私に出会う

私は、ここまで私として生きてきた過程で花開かなかった能力や感性やそのほか「私」に成り得た目を、フィクションの世界を借りて育て直しているのだと思う。

男だった自分、役者だった自分、戦える自分、そんな風に。

書くことで私は私でない私に出会う。

私が書く人々は、私であって全く私ではない。

I’m the house.

自分が書きたいものを書くために彼らをコントロールしようと思っていた頃は、
何もまともに書けなかった。

今、自分が見たいものを見るために彼らに連れて行ってもらっている。

それが私に取っては良い感じ。

自分が書きたいものを書くには、私が私でいなければいけなかったけれど、私が私でいるのはだいぶ辛いことだった。

今、「わたし」は彼らが住む家そのものだ。

そういう私でいるのは辛くない。

だから私は書けるし、見えていなかったもの、見たかったものを見ることができる。

それで良いのだと思う。

要求

必要なのは自分の要求を満たすことであって、自分に要求しないことだ。

自分に要求すると疲れ切ってしまうから。