人間関係のこと

 やっぱりこのブログを閉めるかどうかは考え直すかもしれません。
 決まったらまた告知(?)しますね。
 これまでよりブログを書く頻度は落ちると思うけど、やっぱり書き続けてはいきたいかもしれません。
 以後、本文です。

 

 最近また人間関係について考えていて、気づいたことがあります。

 わたしは、「好きに生きたい、でも、そうすると近しい人を振り回してしまう、だからわたしはひとりでいたほうがいいのかも」と、昨今そんな結論に到っていたのですが、これもまた、自分を罰する考えでした。

 わたしはまだ、「あなたのしたことで私は傷ついた」と、近しい相手から言われる覚悟が足りていませんでした。
 そのことが起きたとき、どうすべきか(=どうしたいのか、そしてそれをしても良いと許可できるか)が、まだ自分の中で固まっていなかったのです。

 こう言い切ってしまうと薄情ですが、人間は、相手の悪意で、ではなく、自分のそれまでの傷に関連したことで傷つくものです。
 つまり、傷ついた、というのは、自分が傷ついた、のであって、相手に傷つけられた、というのは(まずは自分が傷ついていることを自覚する為にそう思うフェイズも必要ですが、そこからはいずれ抜け出さなければ)、自分から力を奪う考えです。
 傷つきは、自分次第で気づきに変えることができます。
 傷ついたからこそ動く物事、気付ける物事があるから、人と関われば傷つくことが避けられないのです。
 だからわたしは、わたしと関わったことで相手が傷ついても、それをケアすることはしません。
 わたしの領分ではないからです。
 そもそも、他人なので、できること自体がありません。

 

 こうしてブログを書いて、自分を開いていく前、わたしはずっとこう思っていました。

「わたしは無力だ。なのにわたしを傷つけてくる人はたくさんいて、それに対してわたしは何もできない」
 と。

 でも、今ならわかります。
 わたしはちっとも無力ではないし、傷つきは気づきの種だったということが。

 それに、わたしがいくら人を傷つけないように勝手に我慢をしていても、人がわたしを傷つけなくなることはありません。
 だってそれは、わたしが何かに気づくために起こっていることだから。

 だから、すべて自分次第って、受け入れて生きて行こうって思っています。

 だから、わたしは、自分が誰かを傷つけることすら恐れません。

 傷つけるのが怖くて、芸術家ができるものですか。
 自己表現ができるものですか。
 芸術家で在れるものですか。

(あ、犯罪と、ポリティカル・コレクトネスに反することだけは絶対にしたくないですが)

 

 我慢は、人生の敵です。

 自分が自分として生を受けた意味を阻害するものです。

 積もり積もった我慢の暴発は災厄を引き起こしますが、(でも、溜まっているならいったん暴発させるほかないし、それをそこまで厭う必要も無いと思います)
 誰かが本音を言うことで誰かが傷ついたとしても、それはその誰かに気づきの種を播くことです。

 

 だから、わたしはこれからも、あるいは、これまで自分にさせてあげられなかったものはどんどんさせてあげたいのですが、
 好きな人には好きって言って、
 言いたいことを言って、
 やりたいようにやって、
 休みたいときに休んで、
 自分への制限をどんどん外して、
 自分のままで生きていきたいし、
 昨日よりも今日、今日よりも明日、もっと自分のままになれるようになりたいです。

 そんなわたしとお喋りしたいって言ってくれる人がいたら、そのとき、ぜひその人とお喋りがしたいです。

 

 わたしは、わたしです。

 誰と関わったとしても、わたしは、わたしで在りたいのです。

 だってそれが、わたしがわたしとして生まれてきた意味だと思うし、

 わたしがわたしとして、その相手と関わる意味だと思うからです。

 

マクルーハン『メディアの法則』講読メモ4

マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン『メディアの法則』NTT出版 2002年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

第一章(p.23〜)

p.24~26

 諸感覚がともにダンスするとき、変身ートランスフォメーションーが経験の共通感覚モード
 変身=メタモルフォーゼではない。トランスフォメーション。変容、変態、変形。姿形がかわること、というよりも「移り変わる」こと。何かになってしまう(完了系)ことよりも、状態が移りゆく(連続する流れの中)こと
 視覚が他の感覚に対して優位なとき、万物は静止する

 子音、音素、表音文字であるアルファベット(それまでの、意味のある文字とは違う)という抽象概念 それまでは音と意味は繋がっていた
 知覚内容ーパーセプトー(経験の基礎)と概念ーコンセプトーが、アルファベットの発明によって切り離される

p.26~29

 視覚的空間の地の抑圧--文字(アルファベット)は透明な文字
 知覚内容(パーセプト)を持たない概念(図) ということは知覚内容は「地」?
 視覚は、図を地の上に孤立させる 視覚だけが持つ特徴
 意識(図)と無意識(地)の分離
 内的経験(想像上の、抽象的な)と外的経験(ことばによる=音や文字)の分離

 ミメーシスは、文字以前の人々にとって表現の形式であるだけでなく、「すべての人々の学習のプロセス」
 相手と「一体化」することで、相手を知る(=変身)
 プラトン「ミメーシスによって、人々は本人の人格や現実の状況を失い、知覚したい対象そのものになって詩の舞台の一部となってしまう」「ミメーシスとは部族を結束させる口誦の絆」センチメンタルな共感の力?
 ハヴロック「彼ら自身がアキレウスとなり、詩を記憶する並外れた能力を得た代わりに客観性を犠牲にした」「プラトンは、経験を記憶する代わりにそれを検証し、再配列するよう求め、ただ語るのではなく、自分の語ることについてよく考えるように求める。人々は経験と一体化するのではなく、経験から自分を切り離して、それを再興し、分析し、評価するような『主観』に自らなるべきと言う」自分(主観)=図、経験=地 

p.29~31

「視覚的な言葉」=図と地が分かれた言葉 概念だけを伝える透明な言葉
 読む=レコードの再生
 孤立したただ一つの感覚ー視覚を通じて、発話(スピーチ)の音は再生される
 どんな発話の音でもアルファベット(=音素をあらわす文字)に置き換えることができる力

 空間は球形で多感覚的かつ多次元的であるという聴覚的な古い「常識」

 視覚空間の特徴 1静止 時の抑圧をともなう感受性の分離によって可能になる
 一方が他方を「表している」だけで、知覚内容と概念が相互に影響しあっている(動的な関係)わけではない

p.31~32

 抽象的な幾何学空間 「存在」についての形而上学的関心
 弁証学と幾何学が、視覚の抽象空間を開いた
 それ以前は誰もがプロテウスだった
 ミメーシスは、制作過程から具体的な擦り合わせになり、「しあげ」の手段の一つに過ぎなくなった?
 存在についての古くからの経験は視覚空間として新しい条件下で回復された

p/32~33

 ロジックとは、前提もしくは前提の連言の中に結論が包含されていることの隠喩
 前提から結論を引き出してくるために行われる発話
「連結命題」
 こうして推論はすべて視覚的空間の特性を利用しているー静的、幾何学的、連結的

p.34

 聴覚空間ーアインシュタイン的空間
「視覚空間は眼が他の感覚から抽象され引き離された時に、眼によって想像され知覚される空間である」 他の諸感覚との相互作用から視覚が抽象化された人工的空間
 アルファベットがその起源 「表音アルファベットを持たない他のどんな文化にも抽象化は生じない」 え、じゃあ日本語は? 日本語に表音アルファベットはないです、音素ではなく音節を表記する仮名しかないです ナショナリズムにならないようにしたい
 視覚空間は地のない図を想定するが、自然にはそんなものはないし、それどころか図なんてものはない。ただ多様で非連続的な、動的環境のモザイクがあるだけ

p.35~36

 視覚空間を用いる者にとって、自然は、抽象化という手段を用いれば多様性と非連続性(お互いがつながるための論理的・必然的な理由などないこと)の排除が可能な図の集合として映る。
 理性的な空間は、静止を作り出すために「ハコ」を作り、そこにある空間を閉じ込めることで生じる。
 視覚の図は、光速という地を持っている。相対性理論はそれを突き付けたため、視覚空間の君臨を揺るがすセンセーショナルなものになった。
 グーテンベルグの印刷術は、視覚空間を大いに拡大した。

p.36~37

 ジョン・ロック『人間知性論』
 宇宙は地のない図、視覚空間の特徴と同じ 宇宙は「純粋空間」
 空間がただの「ハコ」であって、内容物によって変更されない静的なものであること、そして分離できない連続体であるということ

p.37~39

 均質さ、無限性、連続性ー無限可分性
「空間の中に物が2つあり、その2つの間に何もない(無がある)なら、その2つの物体は必ず触れなければならない」純粋空間 運動させられた物体は妨害がなければ運動し続ける空間
 ロックの時間についての概念 視覚空間の特徴
「時間一般と持続は場所と広がりに同じ」「無限から境界標で仕切られ、残りと区別されたもの」「持続と時間の無限(抑圧された地)の中で有限な実在(図)の相互の位置を指標するために使われる」

p.39~40

 広がり=空間についての長さの観念は、どちらの方向へも向けられ、形と幅と厚さを作る
 持続=時間は無限に伸びる一直線の長さで、重複も変動も形も許さない
「自然の表面に被せられた仮面」(ターベイン)
 幾何学モデルというメタファー 神聖なもの ピュタゴラス、ユークリッド、デカルト、ニュートン 抽象、演繹
 幾何学モデルは、視覚空間の特性、地の抑圧と図の分離の上に築かれている
 そして「延長」が第二の特徴 今や物質世界は全てそのように観られている

p.41~44

 幾何学モデルに最後に「運動・活動」が取り入れられ、幾何学モデルは機械モデルと一体になり、幾何学は物理学になる
「いったん精神が自然の中に吸収されてしまうと、精神は自然界の性質を帯びることになる」
「個々の部分が他の部分と正確に共働する機会として宇宙秩序が登場すると、精神もまたその ” 自然 ” の一部となる」
 視覚空間と紙の同一視 神がこの世界に働きかけているという中世後期のイメージ、「光学」から引出された心象を回復する
 遠近法、光学、恩寵
 光の自然界に対する関係は、抽象空間の幾何学に対する関係に等しい つまり、自然界においては光が神、幾何学においては抽象空間が神? 広大さと永遠

 
p.44~45

 崇高なものや巨大なものに対する賛美から、混乱と無秩序の壮大さへ、壮大なものへの価値観が反転(ただし「ロマン」を感じるという点は共通) 例:アルプス山脈
「ロマン」は、ある事物から想起された概念がその事物として再現されること(例:ゴシックロマン)
「ロマンティック」は、主観的な印象と「それ自体」(廃墟や荒地や詩など)の内容を分けて考えることができるようになったからこそ生まれた

 文字以前の人々が経験する聴覚空間は空間認識の自然な様式 いかなる技術の副作用でもなかったから ことばを「技術」とせず、所与のもの、「人間」の条件とするならばだけど--ああでも、ことばじゃなくても音ではあるのか……
 ユークリッド以前の空間感受性 電気技術の副作用としてこの感受性が再登場してきた

p.46

「ある法則に従って起きることは原因を必要としない」コリングヴッド

p.46~47

 視覚空間=ユークリッド空間
 アルファベットの普及によってもたらされた知覚の変化は、包括的な聴・触覚の感覚の統合を追いやった

p.47~

 聴覚空間はその性質上視覚空間とは対照
 聴覚空間は他の感覚によって常に貫かれ、非連続的(カオス)、非均質的、共鳴的で動的 内部で図と地が常に互いに生成変化し合う動体
 アリストテレスは、新しい意識の形式を使いながら、口誦文化の観念を維持・刷新していたハイブリッド
「無限定」はユークリッド空間ではなく、始まりも終わりも、囲いも境界もない(=端もなく、仕切りもない)球形の空虚 そして空虚は、それを包み込む外側の空気から内部に吸い込まれる浸透的なもの

 形相やゲシュタルトを与えるものは元素(部分)というよりも、むしろその元素間の間(関係)
 空の機能は、もの同士を離れさせ、それらが内部で移動する場を提供すること
 聴覚空間は、事物がそれぞれ独自の空間を作り出し互いに相手に変容と抑圧を迫るような球体構造を持っている
 他の感覚を潜在意識の中に追いやるような視覚の圧力がなければ、諸感覚の相互依存関係は一定 つまり、それだけ視覚優位な世界になっていたということ!? 
「諸感覚がともにダンスする」とはそういうことか。「聴覚」空間と言ってはいるが、実際は触覚・嗅覚、そして味覚や視覚ですらも「聴覚的に」包含する空間のことだと思う。「聴覚的に」というのはつまり、同時的で、カオスで、耳を塞ぐことも音を分けることもできないということ(まあ人間の脳みそは感覚を分けてはいると思うけど、それだって図と地は恣意的に選べるということだから、聴覚空間=自然 の中に 理性=視覚的世界観 を持ち込む人間、という構造なのでは。それでミメーシスは、対象が経験したであろう聴覚空間全てを疑似的に経験することなのでは)
キーワード:吟遊詩人、ミメーシス、アリストテレス

 

てまひまかける勇気を持ちたい。

 自分を磨くには心の余裕が重要。性急に磨こうとしたら傷がついてしまうから。

 それと同じで、物を作るのにだって、魂を込めようと思ったら時間がかかるのは当然。

 時間どころか、人生の一部を封じるから、わたしの作品はお守りになるわけで。

 お守りってさ、あれは持ち運べる神様だよね? 持ち運べるご神体、あのーーー電話の子機みたいなものだとわたしは思ってるのよ。

 それを作るんだから、時間と共に自分の魂を込めることが必要なのなんて当たり前。

 まして、わたしは細かいところまで気になるし完璧なものを作りたいしこれでいいのかってことを時間をかけて考え抜きたいタイプなんだから、乙女座バリバリなんだから、納得いくものが出来上がるまでに時間がかかるなんて当たり前で。

 でもね、自分で生きていきたい--いや、綺麗な言い方をするのはやめよう。端的に言ってお金が欲しいと思ってたら、どうしても焦ってしまって。てまひまをかける心の余裕が消失してしまうのよ。

 そんなのってダッサイよな。全っっ然優雅じゃない。

 優雅に生きてえ。

 だから今日、思いっきりてまひまかけるぞって気概で作曲したら、すごく楽しかった。

 捗るかどうかなんて考える必要ない。楽しければよいのだ。

にんげんであるまえに、いのち。

 最近平仮名を使うことが多くなった。

 マクルーハンはアルファベットは完全に抽象的な「音素」という概念を記すための記号、そこから音を復元するためだけの、それ自体は意味を持たぬ記号としての初めての文字だ、みたいなことを言っていたけど、それと関係があるのだろうか。
 日本語のことを考えると、ひらがなもカタカナも漢字から生まれているから、実はアルファベットのような「音素を表すためだけの抽象的な形」かと言われると微妙なのよね。

 わたしが自分の一人称を「私」ではなく「わたし」と書くのも、わ、た、し、っていう音の響きを読んだ人の頭の中に響かせたいからで、最近ひらがなをつかうことが多くなったのもそれと同じ理由。音の響きを読んだ人にきかせたいから。
 まあそもそも日本語は子音と母音が分かれない言葉で、ひらがなやカタカナはその子音と母音が分かれない音節(音素ではなく)を表した文字だから、やっぱアルファベットとは違うんだと思う。
 ……読み返してみたらマクルーハンも「音節文字には知覚内容(=この場合は音のことだと思う)と概念(意味)が残されている。例えばpa(パ)は父親(father, papa)を意味するように」って言ってたわ。ひらがなやカタカナは音節文字だから、うん、ゴリゴリに関係あったわ!

 いや、ここまでの話は全部余談なんだけど。

 ここから本題、タイトルの話ね。

 

 わたしたちは、「人間」……つまり、社会的な、職業や役割りを帯びた存在である以前に、いのち、だよね。

 わたしの中にはどうも、そういう世界観があるみたいでさ、我ながらそれって素敵じゃね? って思ったから、ブログに残しておこうと思った。

 わたしは占いが好きで、12星座の性格や宿命の話だったり、四柱推命の命式(あんまり詳しくないけど、十二運星とかワクワクする!)の話だったり、タロットカードの特に大アルカナの話とかが好きなんだけど。

 それはなんだろ、すごく現実的で物質な話を超えた、「生き方」みたいな、魂の色みたいなものを感じさせてくれるからなんだ。

 これは型にはめるってことじゃなくてね、なんだろ、やっぱり元型みたいなものを感じるから。
 誰の中にもある、乙女座的な部分、建禄的な部分、女帝的な部分、みたいな。
(12星座って、あまり知られてないけど、普通に星占いで言われる「あなたは何座!」みたいなのは太陽星座の話であって、本当はどの星座の成分も一人一人の中や周りにあるんだよね)

 一般的に「進路」なんて言われて、職業しか想定されてないみたいな「将来の夢」なんかの枠なんて取っ払った、生き方の話。
 むきだしのいのちの話。
 それが、わたしは、知りたい。

 この常識というよくわからない血の通っていない機構で動く時計仕掛けの世界の中で「うまくやっていく」方法なんてさ、児戯に等しいんだよ。ちっともいのちじゃない。時計仕掛けは舞台だけで結構。
 世の中はもっと有機的で、神秘と奇跡に溢れてる。そう思う。

 だからさ、本当に、どんな風に生きたっていいんだよ。
 ……これはまだ、わたしがしっかりとは信じきれてないから、自分に向かって言ってあげている感じになっているけど。

 立派じゃなくたって、引きこもりだってニートだって、良い。

 いのちが輝いていれば。

 心臓さえあれば、きっとどこまでも生きていける。

 

 すごく抽象的になったけど、抽象的ってことは、わたしが告げたいことは、ブログだろうが歌だろうが、きっとそこに集約されるのかもしれない。

 せめてわたしの世界に触れている間は、そう感じてもらえたら、いいな。

 

 そのためには、まず誰よりもわたしが、そのゾーンにいつでもいけるようでいないとね。笑

バカのふりなんかしたくない。

 この記事はわたしの気持ちを吐き出して「こういうことを確かに思ってるよ」「思ってたよ」っていうアーカイヴを作るために書くので、客観性は一旦度外視します。わたしの歪んだ世界観が赤裸々に描かれることになるのかも。でもそれがわたしには必要なので、わたしの独断と偏見であることをご了承の上お読みください。
 治安悪くなりますわ。ごめんあそばせ。
 さて、注意書き終わり。

 

 バカの方が、モテる。

 これは恋愛的な意味じゃなくて、なんだろ、結局人は御し難い人を求めてるじゃん。言うことを聞いてくれる人、面倒を起こさない人、都合の良い人を。

 でも、わたしは絶対にそういう人間にはなれないんだ。

 なぜなら、聡いから。
 気づいてしまうから。

 そして気づいてしまったら、その違和感を「そっとしておく」なんてことができないから。

 そうやって自分の倫理観や感覚を曲げるようなことをするのに、とんでもない苦痛と屈辱を感じるのね。

 これはもう小学生の時からそう。
 先生の言うことに従って、先生の言うことが正しいってことにした方が丸く治るし得だってこともわかってるけど、納得できないことがあるのにそれを納得できないって言わないで、納得したフリして、相手にもわたしは納得したんだって思われて物事が進んでいくのが、気持ち悪くて、醜悪で、耐えられない。
 だから学校でも、その課題をやること自体は良くても、その課題をやったことによって今の学校の体制に流されるような行動を意味しそうだったから、算数の課題の前で手が止まって、先生に「全くこの子は」みたいな顔で見下ろされたのをありありと思い出せる。
 そして先生が「全くこの子は」みたいな顔をすると、他の子もその態度を学習するんだよね。だから「あんな風にならないようにしよう」「何やってんだろあの子?」みたいになる。
 それだって屈辱だったよ。でも、それでも、納得したフリなんて嫌だった。
 間違っていることを間違っているって言えないのは嫌だった。

 だからさ、昨日のこの記事で↓

 何もできなくてもいいのかも、って思いには至ったけど、
「バカでもいい」には全然納得できなくてさ。

 だってわたし、バカじゃないんだもん。

 これは周りがバカだって言いたいわけじゃないんだけど、わたしは脳ミソの発達の仕方が人とちょっと違っててさ、言ってしまうとそれもあって、最近はそんなことないけど子ども時代はマジで同級生と話が合わなくて、誰も味方になってもらえねえよなこれってずっと思ってたのよね。
 誰にも共感してもらえなくて当たり前だったわけ。

 でも、「わたしは頭がいいからだ、おまえらはバカだから」みたいな発想にもならなくてさ(そんな感じになっても余計孤独になるだけじゃんか)(あと、驕るな、自分を特別だと思うな、みたいなことを親に言われたから)。周りに合わせよう、その方法を学ぼう、周りとうまく話せるようになろう、ってずっとやってきたんだよね。
 でもすっごく窮屈だったよ。

 なんか、誤解してる人いるみたいだけど、頭が良い人って、頭の良さをつまみひねって制御することなんて別にできないのよ。
 大は小を兼ねてないの。
 身長高い人が身長低い人の服を着られないのと同じ。

 だからずっとバカのふりしてきてて、それが窮屈だったの。ものすごく窮屈だった。

 だから今、昨日みたいに流石に疲れて読めないこともあるけど、
 難しい文章読んで、ちょっと苦労するけど「あれ!? あ、これってこういうこと!? スゲー!!!」って、パズルのピースがはまるみたいに読み解けた瞬間の快楽(マジで快楽物質出てると思う)と、学んだ内容を使えるかもしれないっていそいそメモを取る「STUDY」がたまらなく楽しくてさ。
 努力じゃなくて楽しくやってんの。たまに「努力」にしちゃうこともあるかもだけど、基本的に楽しいの、勉強すんのが。
 勉強するのが、っていうか、もっと厳密に細かく言うと(何かを好きでも、好きな部分は局所的、っていうのって、こういう物事を深く考えたり刺激をめっちゃ受け取る人間にはありがちだからさ)、歯応えのある文章を読み解くのがすごく気持ちいいわけ。その快楽のために読んでる笑

 でもさ、わかる、それって偉そうじゃん。
 わたしは自分が何を学んだかということで人にマウントを取るつもりは全然ないし、ただ自分が知ったことが「スゲー!!!」って興奮してたら話したくなっちゃうことはあるかもだけど、それも自慢する気持ちじゃ全然ないんだ。旅行楽しかったみたいなノリで話したい。

 勉強好きな人間ってどうしたらいいんすか?

 だからってさ、今の「理性」「客観性」「論理的」「学術的」と言われる概念に対しては疑問もあるの。疑問ばかりってわけではないけど。
 例えば直感を軽視するところ。例えば主観や個人の人生経験を軽視するところ。
 あと、「頭良い」人間にたまーにある、「頭いい人間ぶる」「文化人しぐさ」。何かに詳しい人間であることがステータスみたいなしぐさ。それはわたしも嫌なんだよね。
 でもさ、だからって、自分の頭の良さを過不足なく発揮したいわけよわたしは。そういう場所が欲しくてたまらないわけ。
 だってずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、窮屈だったから。

 大学一年生の時に参加したダイアローグ・ネクスト(←このサイトのアイキャッチ写真に、わたしも横顔がチラッと写ってます)は、そういうことをあまり気にせず話せて、当時のわたしとしてはセンセーショナルなぐらい楽な場所だったな……
 窮屈さもなければ、スノッブな人もいなくて(少なくともわたしの体感としては)

 っはー、だからさ、「何もできなくてもいいじゃん、バカでもいいじゃん、むしろバカだからうまくいく!」みたいなのには、全然諸手を挙げて乗り込めないっす。
 でも、「バカだからうまくいく!」の気楽さにだけは憧れる。バカじゃないだけで……。

 しかもこの「バカじゃない」はさ、別にそこにプライドを持ってるわけじゃなくてさ、わたしだってこんな頭に生まれたくなかったよ正直。だってうまくいかないことばっかだもん。でも持って生まれちゃったからには活かしてあげたいじゃん。なんかになるって思わなきゃやってらんないじゃん、だって捨てようとして捨てられるものじゃないから!!!!!!
 それを捨てようとすることは、自分を抑圧することなんだよ。

 たくさん考えたけど、やっぱりわたしはバカではないのねどう考えても。
 これまでの経験も、知能テスト(しかも人生3回も受けて3回とも)の結果も、人との関わりも、全部がそれを証明しちゃってる。

 だから受け入れたいし発揮したいんだよ。

 でも「頭良い人」「文化人しぐさ」の世界にもついていけない!!!!
 でも「バカでいいじゃん、バカだからこそうまくいく!」にもついていけない!!!!!

 わたし超はざまなの、どうしたらいいわけ。

「優秀」になりきることも(だってその「優秀」の価値基準にすら疑問を抱くから)、
「バカ」になりきることもできなくて、
 うわーーーーーーーんもうほんとにどうしたらいいわけ!!!!!!!???????

 頭良いバカになるしかねぇのか……
 優秀になることをすっぱりと諦めて、頭良いバカになるしか……

 そうすっとバカ世界に飛び込むことになるわけだが、「バカ同士!」という同志はほぼいなくなるだろう……なぜならわたしはメンタルはバカ(=気にしない、自分の思うままに生きていく)になりたいが、頭はバカじゃない(=気にしてしまう、考えてしまう、そしてそれをもう矯正なんかしたくない、自分の味だと思いたい)から……

 ……まあでも、わたしが孤独なのは今に始まったことではないんだけどね……ふふ……ふふふ……

 ああ、だからその辺の成分がカチッと合うような気がする友人のことを引き摺り回してしまうのか……(詳細はこの記事↓)

 なんか、急にエジソンの少年時代の話を思い出してかるーく実業家の幼少期について調べてみたけど、うん、これわたしも実業家にならんとアレなやつだな……
 彼らこそ頭良いバカっていうか。
 わたしのなりたい「突き抜け」はそれでさ。

 ……そのためには……やっぱり……孤独についてをもっと……なんだろう、頭で考えるというのとは違うけど、追究していく必要があるね。

 一人で走り続けんのは、やっぱきついわ。

 一つ一つの作業は、一人でやらなければいけないんだけれども。

 でも、同じ地平を走っているのが一人っていう感覚だと、本当に途方もなくてさ、
 もう誰とも出会えないんじゃないか、誰とも心を通わせあえないんじゃないかって思って悲しみに暮れてしまう。

 幸いにも、わたしはきっとこの人は似た道を走っているのかもって思える人が、よく振り返ってみるとそこそこいる。(わたしが勝手にそう感じているだけかもしれないし、引き摺り回しちゃいけないから、自分の主観であるということを念頭に置かないといかんけど)

 そういう人たちは、わたしが大変なのと同じように、それぞれが自分のことに邁進したり、切り結んだり、足掻いたり、悶えたり、考え込んだりしているから、手を結ぶことはできないかもしれないけど……
 でも、間違いなく同じ地平を歩いている。

 だから、時々話せたらいいな、とは、やっぱり思う。
 孤独に負けないように。

「時々」以上になってしまったら、やっぱり引き摺り回しちゃうから良くないけど(詳しくは語らないけど、最近あったことから学びました)

 孤独との付き合い方を、もっと追究していきたい。
 結局人を引き摺り回してしまうのも、普段の生活でわたしは孤独を感じすぎなのかもしれないから。
 もちろん、感じないようにすればいいとかそういうことじゃなくてね。
 ただ、わたしの孤独感が少しでも和らぐような、「頭良いバカ」の世界に、もっと普段から触れておけば、数少ない人に出会えた、その、飢えが急に満たされたことによる暴走っていうの? がなくなる気がするの。

 じゃあ具体的にどうしたらその「頭良いバカ」成分を普段から摂取できるんかは、まだちょっとよくわかんないけどさ……

 でも例えば、上に書いた「ダイアローグ・ネクスト」がわたしにとって心地よい場所だったなら、そこに答えが埋まっている感じはする。答えっていうか、少なくともヒントが。
 あれは、演劇祭「フェスティバル/トーキョー」の演目を見たり、あるいはそこに携わる方がしてくれるワークショップに参加したりして、それについてめちゃくちゃ話す、週に一回くらいを3ヶ月くらいその催しがあって、参加者のみんなにそれぐらいの頻度で会う、って感じだった。
 語る対象があることと、頻度。これは参考になるかもしれない。
 他にも場の作り方を非常に緻密に考え、してくださった講師の方やスタッフの方々がいたからこその空間だったわけだけど、うーんそこについて詳しく考えるのは追々かな。(わたしはあんまり場の作り方とか考えたくない、他人のために働くの疲れるから)

 

 っはーーーーー、息苦しいよ本当に。

 建物の中からなんてとっとと出て、まっさらな更地のどこまでも続いていくあったかい砂の上で、雲ひとつない空の下で、穏やかな風に吹かれながら、伸ばせる限りいっぱいに腕を伸ばしてくるくる回りながら言いたいこと言って叫びたいこと叫んで笑いたいように笑って歌いたければ歌って踊りたいよ。

 現実には引きこもり気質なんですけどね。エンジョイお家の中。お家の中でももっとエンジョイしたいしさぁ。

 世の中には建物(=組織的なもののメタファー)が多すぎんよな。
 お店とお家だけで良くねぇ?

 孤独に呑まれないような、大切な人たちとの接触の仕方も考えつつ、孤独を大事にする時間も今まで以上にうまく取って、充実させつつ、って感じだ。

 

 バカとかバカじゃないって話から居場所の話になったね。知ってた。

 居場所っていうか、それは固定的な居場所ですらない方がよくて、そう、砂漠を旅する旅人が、たまたま行き合って、一緒にご飯食べてキャンプして、ばいばい、っていう感じをやれたらいいな。

 ……風ノ旅ビトじゃん。やったことないけど。

 

なにもなくてもよかった。

 あんたたちはあたしにないものを持ってるからそんなことができるんだ、ずるい、って言うことは、社会問題の指摘とかそういう文脈では大事なんだけど個人の人生観としてはあんまり言いたくないかな。自分から力を奪ってしまいそうで。

 そんなに言いたくなるってことは、あたしの中にもきっと本当はあるんだよ、「体力」。

 そう、とにかくわたしはすぐ倒れてしまう自分が嫌い。すぐ疲れてしまう自分がすごく嫌い。

 それは人一倍刺激を受け取るからだし、物事を深く考えてしまうから(そして考えないようにすることができない。気持ち悪すぎるし倫理的に良くないと思う)なんだよ。

 まあそうですね、正直自分の方が正しいと思ってるから、物事を考えすぎないタイプの人が生きやすく立派になりやすい環境なのにものすごく立腹しています。たぶん偏った考え方なんだろうな。つまりコンプレックスを持ってるってこと。この気質に。

「わたしだって体力さえあれば」とか、「物事を深く考えるタイプじゃなければ」みたいなことを考えてしまう。考えたってそれになれるわけじゃないのに。

 いや、「考えたってそれになれるわけじゃないのに」って、やめよ。それって賢いフリした諦めだから。やめやめ。

 そうじゃなくて、それだけわたしは「力」が欲しいんだ。

 何でもいい。体力でも、経済力でも、人気力でも。そういうものって体力がなきゃ、物事を考えすぎない性質じゃなきゃ手に入らないって思ってしまう。

 これも、思い込み、なのかなぁ。

 どうしてわたしはこうなんだろ。なんでこんなにうまく生きられないんだろ。楽しく生きたいだけなのに。自分を殺したくないだけなのに。

 わたしは一体何者なんだろう。

 思えばいっつもこんなこと考えてたな。なんでこんなにうまくいかないんだろうって。学校と名のつく場所に通うようになってからずっと。

「早く結果を出さなきゃ」みたいな気持ちがある。だって「突き抜ける」ことしかわたしにはできないから。人に合わせられないもん。でも、正攻法ができる人の方が、結局突き抜けることだって上手なんだよ。はーなんでーーー!!!!! ずるいずるいずるいずるい!!!!!!!

 わたしは、ほんとうは何もできないのかもしれない。

 でも、ほんとうはそっちの方が良いのかもしれない。

 何もなくても愛される、何もなくても生きていける、の方が。

 わたし、自分は「ものを作ることしかできない」って思ってたけど、それを握りしめることもやめてもいいのかもしれない。

 いや、ものを作るのはめっちゃ好きだから、一生やめないよ。とくに歌を作ることと歌うこと。

 でも、なんていうんだろう、「わたしにはこれしかない!」っていうのはさ、やめた方がいいよね絶対。重いもん。動きづらくなる。

 何もなくてもともとだから、「何かできる」になろうとしなくて良いのかもしれない。

 何もない状態をさらけ出して生き続ければいいのかもしれない。

 わたしね、最近、わたしのテーマは「いのち」なのかもしれない、って思うの。

 わたしのテーマ……わたしの活動のテーマ、なのかな。

 いのちであることだけでパワーだし、余計なものはいらない、みたいな気持ちが常にあって。

 だからシンプルなものが好きなんだよね、たぶん。

 ただのお花とか、ただのりんごとか、ただの鋏とか、ただのタオルとか、ただの水とか、なんだろ、その存在自体の純粋さっていうの? それに惹かれるところがあって。はっとさせられるというか。

 だからわたしも、そこに帰っていくのかもしれない。

 まるはだかのわたし。

 ただわたしがここにいるだけ。

 そこに帰っていく。

 

 わたしには何もない。

 何もないよ、あんたたちが期待するようなものはね。

 だから何かをできるとも言わない。

 だって期待に応えるのってダルいもん。

 わたしは、何もできない。

 でもどうやら、そのスタンスでいた方が、「あなたの世界観ですね」「あなたの個性を感じます」って言われやすくなるらしい。

 わたしは何もできない。

 何もできなくて、もともとだ。

 それでも生きていける。

 だって命がここにあるから。

しょうらいふあんですふつーに。

 将来への不安はね、ふつうにあります。

 どう考えたって社会に適合した普通の立派な大人になれないもん。

 普通に生きていこうとしたら、すぐ病んじゃうもん。

 だから高等遊民になる可能性が非常に高いです。

 ……でもさ、だって、わりと生きるか死ぬかの瀬戸際……いやわたしに死ぬ勇気なんてないから厳密には瀬戸際じゃないのかもしれないけど病んで頭が回らなくなったらどうなっちゃうかわかんないからやっぱり瀬戸際かもしれない……で生きてるからさ、それ以上のこととか無理だよ。

 ほんとは将来のことすら考えてる場合じゃないのかも。

 でも一方で、この状態って治療できるものでもなくて、なんかそういう体質のような気もしているんだよね、頭痛持ちみたいなやつ。付き合っていかなきゃいけないやつ。

 だってさ、あったかいご飯食べたらちょっと幸せかもーってなって、でもまたすぐに泣きたくなって辛くて悲しくて、でも何か夢中になれることをしてたらちょっと楽しいかも、みたいな、そういう不安定さ。

 でもさ、そういう自分の不安定さに抗って、自分で自分を管理して規律に馴染んでさ、それでどれだけのリターンが返ってくるっていうわけ。今の社会で。え? 昔の人はよかったよ、それで社会的地位も経済力もある程度手に入れられたんでしょ。でも今の若者はそんなのないわけ。真面目に生きた方が損、損どころか搾取されて、壊れちゃうよ。

 自分を殺しただけの益が手に入るなら考えるよ。でもどう考えたってそうじゃないじゃん。壊れる人、病む人、麻痺する人、人を叩いて自分を安心させる人、そんなんばっかりじゃない? 一向に未来は明るくなんてならないし、時代と状況に恵まれ続けたおっさんたちが物事を全部決めてんだから若者に希望なんてあるわけないよね。

 だからわたしが「こんなんでやっていけるわけないじゃん」のひとりになろうと思うの。なろうと思うっていうかまぁ、結果的にそうなるんだけど。無理して適合しようとして、今の社会でもやっていけてる人いるじゃん、だから変える必要ないじゃん、の証拠の一人になりたくないもん。

 って言ってるけど、やっぱり働かないのは怖いよ。あと、そしたらまた親と暮らすことになるんかなあ、っていうのも怖い。それはさすがに自分のメンタルがやばい。親は悪くないけど、わたしがどうしても身構えてしまって消耗するのが目に見えてる。

 でも。

 ま、正直今じたばたしたってしょうがないよねー。

 じたばたしないと心は不安だけどさ、なるようにわたしはわたしを運んで行ってくれるはずだと信じてどっしり構えるしかないよねー。

 でも不安だから、不安だって書くことによって、その気持ちを消化することにする。

 今までは不安だから、やっぱりつい「来てしまうかもしれない未来の予防」で動いてしまっていたけど、それもあんまり良くないからさ。

月の引力

 わたし、もう探さないよ。

 自分の外に。

 大事なものはわたしが引き寄せてくれるって信じてるから。

 月の引力みたいに。

寂しい愛されたい。そんな時もある、ね。

さび、しい、寂しい。

わかんないそれが何でなのか。

さびしい。

誰かにいて欲しいわけではない、んだと思う。

じゃあ何なんだろ、ひとりで、どこに前があるのかもわからない道の立ち尽くしているみたいな気持ちになるの。

ああきっと、諦めなきゃ今は、って思ってるからなんだろうな。

誰かに愛されたいってこと、今はわたしにはわたしがいるから我慢って思っちゃうから。

べつに、わたし自身がわたしを愛してても、他人からも愛されたいって思っていいのにね。

やめよやめよ、このよく分かんねえ我慢。

本当に、「わたしがいるから別に誰も要らねえや、むしろ邪魔すんな」って時もあれば、「人に愛されてぇー!」ってこともあってさ、またわたしは一貫性おばけに取り憑かれていたみたいだ。

「わたしさえいればいい」で、「愛されたい」を黙らせちゃダメだ。

だってそれは、わたしの大切な気持ちだから。

愛されてぇー!

愛に溺れてぇよーっ!

自分の奥底がうずうずしてる。

「人に何かをしてもらって喜ぶのが苦手」がなくなった話。

 

 要するに、愛されたかった。

 

 愛は惜しみなく与えるもの、って言葉の意味が、やっとほんとうにわかった気がする。

 愛は交換条件じゃない。

 プレゼントみたいに、与えて、もらって、おしまい。

 その「与える」「もらう」が、別の場面では逆転することもある、ってわけで、

 ギブアンドテイクって感じともちょっと違う。

 与えて終わり、もらって終わり。

 そこで「おわり」だからこそ潤う、それが愛の豊かさなのか。

「愛してる」も、今は困惑せずに受け取れるような気がする。

 言葉でも言葉じゃなくても、ただ伝えることだけが幸せだったんだね。

 だから、受け取ってもらえればよかったんだ。

 受け取ればよかったんだ。

 喜びたければ喜べばいいし、そうでもなければそれでいい。

 何かを返さなきゃ、って思い続けていたから、何かを返してもらえるはず、って人にばかり出会ってしまっていたのかも。

 喜ばなきゃ、って思っていたから、喜んでくれなきゃ拗ねる人にばかり出会っていたのかも。

 

 ねえ、「支え合う」って、ひょっとして結果論なの。

 支え合おうとしてするんじゃなく、自分が幸福を噛みしめるためにしたことが、まわっていって、支え合い、お互いを幸福にし合うことができる、そういうものなの?

 だとしたら、素敵だな。

 

 わたしへの愛は、プレゼントとして受け取らないとね。