「人を傷つけたくない」と「ラフ」(自曲)

 さっき書いたこの記事↓

 の話題の曲、

 「愛別離苦」の次は、アルバム「哀と傷」を連続再生してると「ラフ」になるんだよね。

 この順番にしたの、我ながら大正解だったな。

 わたしも貴方も、歩いていくんだ、っていう感じで。

「ラフ」の1番の歌詞には、結構わたしがずっとずっと言ってきたし今も言い足りないぐらいずっと言いたいことが詰まっています。

「 傷つけないように生きてるのに
  僕を刺す言葉も 嬲る奴らも 一向に消えやしない
  前世もそうさ きっと来世もそうさ
  割りに合わない自己犠牲を重ねてるんだ
  何を望むか
  口に出してみなけりゃ
  自分自身にさえ届かないぜ
  それを孤独と言うんだ
 」

 人を傷つけることを恐れるのはね、多分、自分に刺さったトゲが抜けていないからなんだと思うんだ。

 確かに、人を傷つけたい人なんていないよ。
 いるとしたら、その人もトゲが抜けていない人。
「自分は人を傷つけない」と誓うことで、そのトゲを庇う人もいれば、反対に「自分だって人を傷つけてやる」と逆張りすることで、自分を守る人もいる。

 でも、人を傷つけることを恐れていたら、自分が何かを望むことにも制限をかけてしまうんじゃないかなあって。

 それで窮屈になっている人を、自分自身を含め、けっこう見てきた気がするのね。

 傷つくことの苦しみを知っているから、そりゃ、そうなんだけど。

 でも、人を傷つけることに対する恐れは、やっぱり、自分が生きていく上で重すぎる荷物になりかねない。

 わたしには叶えたい夢があったから、その荷物を抱え続けることはできなかった。

「人を傷つけたくない」と思いながら「自分らしく生きたい」と進むのは、ブレーキ踏みながらアクセル踏むぐらいしんどいことだから。

 それにいつからだろうな、わたしは自分が傷つけられることも、それほど怖くはなくなったのかもしれない。

 厳密に言うと、あまり傷つかなくなったしね。

 誰に何と言われようと、わたしにはわたしという帰る場所があるから。

 だから、
「もーーーいいじゃん、人を傷つけることを恐れずに、思い切って望みを口に出してみようよ。どうせ自分が気をつけてたって自分を傷つけてくる奴は変わらずいるんだから、自分だって思い切ってもバチなんか当たらないよ、自分で勝手に我慢して自分ばっかり我慢してる! って人を恨むのもやめようよ、やめたい」
 っていう気持ちでいたら、この詩を思いつきました。

 親が人間ドックから帰ってくるのを待ってる時に、ハッと思いついたフレーズで、そのまま一曲できた、っていうやつです、この曲。

「人を傷つけたくない」っていうのはさ、「わたしはこれだけ傷ついたんだ!」を、そのままだと受け入れてもらえないから、その立派な言葉として人に伝えようとしているんじゃないかな、本当は。 っていう気が、わたしはしています。 人によるし、場合によるけど。

 で、その傷つきは多分、自分が大切にしているものやことや自分自身を否定された、ということなんじゃないかって思うから、
 じゃあ、それを今からでも肯定しようよ、
 自分の望みを、人を傷つけるものかもしれないけど恐れずに口に出す、っていうのも、その「肯定」の一工程だよ、って思う。

 ちょっと曲の話からは逸れたかな。

 でも、そう、
「人を傷つけたくない」も、「人に否定されたくない」も、両方とも人の目なんだから、
 そんなもん振り切って自分らしく生きようぜ、願い叶えようぜ!
 みたいなことが腹の底で燃えていた時に、この曲が降ってきた、という話をしたかったです。

 もちろん、その炎は今でもわたしの腹の中で燃えています。

 そのせいで人を燃やしちゃうこともあるんだけどね。

「愛別離苦」「ラフ」が入ったアルバム「哀と傷」は、CD・DL版共に好評発売中、各種音楽配信サービスでも配信中です。

CD版「哀と傷」の詳細はこちら→https://shobuwi.booth.pm/items/2227049
DL版「哀と傷」の詳細はこちら→https://wishobu.bandcamp.com/album/sorrow-and-wounds

spotify↓(Apple Music, YouTube Music, LINE MUSIC, Amazon各種サービスでもご視聴いただけます。「宵部憂」で検索してください)

 

愛別離苦。

 このアルバムの7曲目の、「愛別離苦」をまた聴いて、この曲を作った時のことを思い出していました。

 大切な友人とお別れしたときでした。

 自分が何とも思っていない相手だったらどう思われようがどうでも良いけど、自分が特別に大切に思っている相手との別離だったので、とても悲しかった。

 それも、爽やかに吹っ切れるような、そんなお別れではなかったから。

 だから、そんな傷心の自分を慰めるみたいに、その悲しみに寄り添ってくれるような曲を作りたくて、

 真っ暗な夜の中に、真っ黒に見える川があって、その先は二手に分かれていて、頼りないわたしの船と、友人の船が流れていて、
 ふと見上げると星が澄んだ光を放ってちらちらと夜空に散りばめられていて、
 ほんのりと、温かく優しい炎みたいな光を纏った蛍や蝶が、そこここを飛び交っていて……

 そんな景色を幻視して、その景色に包まれているみたいな気持ちになりました。

 なんて言ったらいいのかな、等身大の人間としての気持ちは、とても悲しい。
 それだって全く否定しようがないし、否定なんてしない。

 悲しんでいるわたしを慈しみたい。

 ただ、同時に、きっとこの別れにだって、広い視野で、高い視点で見たら、絶対に意味があるから。

 その光景は、わたしにそう語りかけてくるようでした。

 だから、真っ暗で、見えるものなんてそんなに無いけど、気配や、手触りや、音や、光たちが、
 わたしに寄り添ってくれて、
 わたしはそれらと共に、別れ、離れていく友人の道幸を祈りたくて、

 そんな、わたしに寄り添ってくれる存在たちをストリングスで、
 澄んだ、ひんやりしているものもあれば温かいものもある、そんな光たちをピアノで表現してみようって思いました。

 音数は少ないし、編曲もシンプルすぎるくらいシンプル。
 真っ暗だけど、自分を包み込んでくれる世界だから、静かだけど何かの胸に抱かれているような、そんな音を作りました。

 歌うときは、その、わたしが幻視した世界を思い浮かべながら、友人に向けて歌ったつもりです。

 今、その時と少し似たことが起きてしまっていて、だから、改めて聴き返していました。

 わたしは自分の感情に浸るのが、言ってもそんなに得意ではありません。

 すぐ「あ、これをすればいいんだ」とか、「あ、じゃあこう動けばいいじゃん」みたいに、解決策を出してそれに邁進しがちで、その前の「自分の感情をちゃんと感じてあげる」を、雑にしてしまいがちです。

 だから、その時の自分の感情にぴったりの曲を聴くことは、わたしにとって、「自分の感情にしっかり浸って、自分の相手をしてあげる」ことを、とても手伝ってくれます。

 自分の曲を聴くこともあるし、思い出の曲を聴くこともあります。

 わたしの曲が、誰かにとってもそういう曲になれていたら、なったら、わたしはまた一つ自分のシンガーソングライターとしての本懐を遂げられます。

 曲を聴いて、「ああ、自分、こういう気持ちだったな(今こういう気持ちだな)」って、しっかり浸って、
 その浸った時に湧いてきたことをこうしてブログに書いたりだとか。

 例えばそういうことが、自分の感情を自分で抱きとめて、慈しんであげるってことなんじゃないかって。

 もちろん方法はこれひとつじゃないですよ。
 ただ、わたしが今一番合っている方法がこれなんです。

 音楽は、人に感情を許可してくれる力がある。

 思えば、わたしは曲を聴くだけでなく、曲を作ることによっても、「自分の感情を感じ切る」をやっているのかもしれません。

 あの、詩を書くときの集中力。
 あれはまさしく、自分の感情の海の中に深く潜って、海の中の世界を探検するようなものですから。

「愛別離苦」が入ったアルバム「哀と傷」は、CD・DL版共に好評発売中、各種音楽配信サービスでも配信中です。

CD版「哀と傷」の詳細はこちら→https://shobuwi.booth.pm/items/2227049
DL版「哀と傷」の詳細はこちら→https://wishobu.bandcamp.com/album/sorrow-and-wounds

spotify↓(Apple Music, YouTube Music, LINE MUSIC, Amazon各種サービスでもご視聴いただけます。「宵部憂」で検索してください)

 

 

宣伝についてのセルフ作戦会議。

 どうも、宣伝が苦手な宵部憂です。

 わたしの尊敬する人が「売らないと売れないよ」って言っていて、わたしは「だよねっ!」と思うと同時に「どうしよ……」って思ったので、ブログを書いて色々考えてみることにしました。

 人に話しながら考える人もいると思いますが、
 わたしはブログに書いて頭を整理するのが一番やりやすいし、人に負担もかけないし、自分とより深く繋がれる気がしていいなっ!という結論に達したので、
 もうここを大学の研究だけでなくわたしによる「わたし」の研究ノートとしてもフル活用していこうと思います。

 宣伝が苦手な理由はこの辺の記事↓に書いた感じです。

 つまり「作品について説明なんかできるわけねーだろ甘えんな」ということです。

 ただ、別に宣伝=作品の説明とは限りませんし、作品を作ったら絶対何か言いたいことも生まれるはずだよなぁ、自分の中にその萌芽は間違いなく感じるし……と思っているところでした。

 まず、足掛かりとして最初に考えたいのは、大学で作品を作ってそれについて説明するのは全然悪い気がしない、どころか、楽しいかも、という点についてです。

 これは、そもそも「大学で研究しながら作品を作るとはそういうことである」と最初から了解している上に、勉強と言語化がめちゃくちゃ楽しいから、という答えが既にわかっています。

 だから多分、作品の説明と宣伝が一体化するのが嫌なんです。

 これは、「作品は作品なのだから、説明で説明し切れるものではない」というのが、大学のような場では共通認識になっているから構わないけど、アカデミアやアート系の世界の外ではそうとは限らないので、説明してしまうと説明で満足されてしまいそうで嫌だ、ということです。

 じゃあ、宣伝するときに、作品を説明しなければ、たぶん喜んでわたしは宣伝……というか、「宣伝!」って感じのエネルギーのものではないと思うんですけど、「みてね」ってできると思います。

 じゃあ何を伝えるのか。

 既に思いついているのは、「その作品を作るに至った経緯」ですね。

 どうしてそれを閃いたのか、どうしてその手法を選んだのか、作っている時に何があったのか、何を感じたのか……
 を、ただ事実を列挙するんじゃなくて、ストーリーとして、その記述自体が詩みたいになるように、美しい文章で書いてみたい。

 今までも、何を考えて作ったか、はブログに書くことがあったんですけど、大学での書き方が癖になってるのかな、すごく堅い書き方しかできなくて。
 もっと随筆みたいな感じで書きたいです!

 他にはなんだろう、「その作品に自分で触れたら何を感じたか」も、随筆みたいに書きたい。

 わたしのモットーに、「聴いた人の人生とともにある音楽」っていうのがあって、それはつまり、聴いたタイミングによって全然違うことを気付けたり、感じられたりするってことなんだけど。

 それをまず自分が体感して、その体感を書いていきたいなって。

 わたしの尊敬する人は、自分で商品をプロデュースすることはあるけどわたしみたいに全部自分で作る人ってわけではないけど、「自分が自分の広告塔になる」ってよく言っています。

 そういうのって、わたしは全部自分で作っているから自画自賛みたいで嫌だな、その人の真似はできないよって思ってたんですけど、ちょっとそれはそれで驕った考え方かもしれなくて。

 作品ってね、神様と共同で作るものなんですよ。神様あるいは自分の霊感、とにかく、少なくとも自分の力で全て作られてるわけじゃない。
 たくさんの偶然や運命の力を借りて、たまたまその形に仕上がった、この世に二つと無いし何か条件が違ったら別のものになっていたっていう「奇跡」なわけです。

 だから自画自賛って言葉もおかしくて、それは「自画」では別にないわけですよ、わたしに言わせると。

 たとい自画だったとしても、それは作品として自分とは別の自我を持っているわけです(自画だけに)。
 自分の子どもは自分ではないのと同じで、自分が生み出した作品を褒めることを厭う気持ちは、正直言ってわたしの中にはもともとはありませんでした。

 だってそれ、もうわたしとは独立した、あんま関係ない存在なんだもの。

 でも自分の人生の中に存在していて、自分に何かを気づかせてくれるんだから、そりゃ、本当は褒めたいし、何遍もエッセイ書きたいかも。

 じゃあ、もともとはそんな気持ち無かったのなら、どうして持つようになったのかっていうと、
 ……人の目を気にするからでした。

 はい! ということは、この自粛心(わたしの今思いついた造語ですが、なかなか良い言葉ができたかも)は要らないってことですね! 捨てます!!!

 わたしは思えば昔から、自分の能力やできること/できたことを自分でアピールしてはいけないって思ってきたかもしれません。

 当然、自慢してると言われるからです。

 それもまた当然で、だってわたしは努力で獲得できた力って無いから、共感なんてされるわけがないんです。

 わたしがしてきた/している努力があるとするならそれは、もともと持ってる力を発揮できるように周囲の環境や自分のやり方を整える努力です。

 やっぱり、あんまり共感されないかもしれません。

 でもそもそも、わたしにはあんまり共感は必要ありません。

 それより世界観の魅力で勝負するからね。

 というわけで、自分大好きかよって思われるのはまだ怖いけど、自分の曲にまつわる随筆、これからいっぱい書いていこうかな。

 実際わたし自分大好きだしね!!!!!

 そんなん超今更だな!!!!!

 自分が嫌いで自分の世界観作り込めるわけないもんな!!!!!