「人を傷つけたくない」と「ラフ」(自曲)

 さっき書いたこの記事↓

 の話題の曲、

 「愛別離苦」の次は、アルバム「哀と傷」を連続再生してると「ラフ」になるんだよね。

 この順番にしたの、我ながら大正解だったな。

 わたしも貴方も、歩いていくんだ、っていう感じで。

「ラフ」の1番の歌詞には、結構わたしがずっとずっと言ってきたし今も言い足りないぐらいずっと言いたいことが詰まっています。

「 傷つけないように生きてるのに
  僕を刺す言葉も 嬲る奴らも 一向に消えやしない
  前世もそうさ きっと来世もそうさ
  割りに合わない自己犠牲を重ねてるんだ
  何を望むか
  口に出してみなけりゃ
  自分自身にさえ届かないぜ
  それを孤独と言うんだ
 」

 人を傷つけることを恐れるのはね、多分、自分に刺さったトゲが抜けていないからなんだと思うんだ。

 確かに、人を傷つけたい人なんていないよ。
 いるとしたら、その人もトゲが抜けていない人。
「自分は人を傷つけない」と誓うことで、そのトゲを庇う人もいれば、反対に「自分だって人を傷つけてやる」と逆張りすることで、自分を守る人もいる。

 でも、人を傷つけることを恐れていたら、自分が何かを望むことにも制限をかけてしまうんじゃないかなあって。

 それで窮屈になっている人を、自分自身を含め、けっこう見てきた気がするのね。

 傷つくことの苦しみを知っているから、そりゃ、そうなんだけど。

 でも、人を傷つけることに対する恐れは、やっぱり、自分が生きていく上で重すぎる荷物になりかねない。

 わたしには叶えたい夢があったから、その荷物を抱え続けることはできなかった。

「人を傷つけたくない」と思いながら「自分らしく生きたい」と進むのは、ブレーキ踏みながらアクセル踏むぐらいしんどいことだから。

 それにいつからだろうな、わたしは自分が傷つけられることも、それほど怖くはなくなったのかもしれない。

 厳密に言うと、あまり傷つかなくなったしね。

 誰に何と言われようと、わたしにはわたしという帰る場所があるから。

 だから、
「もーーーいいじゃん、人を傷つけることを恐れずに、思い切って望みを口に出してみようよ。どうせ自分が気をつけてたって自分を傷つけてくる奴は変わらずいるんだから、自分だって思い切ってもバチなんか当たらないよ、自分で勝手に我慢して自分ばっかり我慢してる! って人を恨むのもやめようよ、やめたい」
 っていう気持ちでいたら、この詩を思いつきました。

 親が人間ドックから帰ってくるのを待ってる時に、ハッと思いついたフレーズで、そのまま一曲できた、っていうやつです、この曲。

「人を傷つけたくない」っていうのはさ、「わたしはこれだけ傷ついたんだ!」を、そのままだと受け入れてもらえないから、その立派な言葉として人に伝えようとしているんじゃないかな、本当は。 っていう気が、わたしはしています。 人によるし、場合によるけど。

 で、その傷つきは多分、自分が大切にしているものやことや自分自身を否定された、ということなんじゃないかって思うから、
 じゃあ、それを今からでも肯定しようよ、
 自分の望みを、人を傷つけるものかもしれないけど恐れずに口に出す、っていうのも、その「肯定」の一工程だよ、って思う。

 ちょっと曲の話からは逸れたかな。

 でも、そう、
「人を傷つけたくない」も、「人に否定されたくない」も、両方とも人の目なんだから、
 そんなもん振り切って自分らしく生きようぜ、願い叶えようぜ!
 みたいなことが腹の底で燃えていた時に、この曲が降ってきた、という話をしたかったです。

 もちろん、その炎は今でもわたしの腹の中で燃えています。

 そのせいで人を燃やしちゃうこともあるんだけどね。

「愛別離苦」「ラフ」が入ったアルバム「哀と傷」は、CD・DL版共に好評発売中、各種音楽配信サービスでも配信中です。

CD版「哀と傷」の詳細はこちら→https://shobuwi.booth.pm/items/2227049
DL版「哀と傷」の詳細はこちら→https://wishobu.bandcamp.com/album/sorrow-and-wounds

spotify↓(Apple Music, YouTube Music, LINE MUSIC, Amazon各種サービスでもご視聴いただけます。「宵部憂」で検索してください)

 

愛別離苦。

 このアルバムの7曲目の、「愛別離苦」をまた聴いて、この曲を作った時のことを思い出していました。

 大切な友人とお別れしたときでした。

 自分が何とも思っていない相手だったらどう思われようがどうでも良いけど、自分が特別に大切に思っている相手との別離だったので、とても悲しかった。

 それも、爽やかに吹っ切れるような、そんなお別れではなかったから。

 だから、そんな傷心の自分を慰めるみたいに、その悲しみに寄り添ってくれるような曲を作りたくて、

 真っ暗な夜の中に、真っ黒に見える川があって、その先は二手に分かれていて、頼りないわたしの船と、友人の船が流れていて、
 ふと見上げると星が澄んだ光を放ってちらちらと夜空に散りばめられていて、
 ほんのりと、温かく優しい炎みたいな光を纏った蛍や蝶が、そこここを飛び交っていて……

 そんな景色を幻視して、その景色に包まれているみたいな気持ちになりました。

 なんて言ったらいいのかな、等身大の人間としての気持ちは、とても悲しい。
 それだって全く否定しようがないし、否定なんてしない。

 悲しんでいるわたしを慈しみたい。

 ただ、同時に、きっとこの別れにだって、広い視野で、高い視点で見たら、絶対に意味があるから。

 その光景は、わたしにそう語りかけてくるようでした。

 だから、真っ暗で、見えるものなんてそんなに無いけど、気配や、手触りや、音や、光たちが、
 わたしに寄り添ってくれて、
 わたしはそれらと共に、別れ、離れていく友人の道幸を祈りたくて、

 そんな、わたしに寄り添ってくれる存在たちをストリングスで、
 澄んだ、ひんやりしているものもあれば温かいものもある、そんな光たちをピアノで表現してみようって思いました。

 音数は少ないし、編曲もシンプルすぎるくらいシンプル。
 真っ暗だけど、自分を包み込んでくれる世界だから、静かだけど何かの胸に抱かれているような、そんな音を作りました。

 歌うときは、その、わたしが幻視した世界を思い浮かべながら、友人に向けて歌ったつもりです。

 今、その時と少し似たことが起きてしまっていて、だから、改めて聴き返していました。

 わたしは自分の感情に浸るのが、言ってもそんなに得意ではありません。

 すぐ「あ、これをすればいいんだ」とか、「あ、じゃあこう動けばいいじゃん」みたいに、解決策を出してそれに邁進しがちで、その前の「自分の感情をちゃんと感じてあげる」を、雑にしてしまいがちです。

 だから、その時の自分の感情にぴったりの曲を聴くことは、わたしにとって、「自分の感情にしっかり浸って、自分の相手をしてあげる」ことを、とても手伝ってくれます。

 自分の曲を聴くこともあるし、思い出の曲を聴くこともあります。

 わたしの曲が、誰かにとってもそういう曲になれていたら、なったら、わたしはまた一つ自分のシンガーソングライターとしての本懐を遂げられます。

 曲を聴いて、「ああ、自分、こういう気持ちだったな(今こういう気持ちだな)」って、しっかり浸って、
 その浸った時に湧いてきたことをこうしてブログに書いたりだとか。

 例えばそういうことが、自分の感情を自分で抱きとめて、慈しんであげるってことなんじゃないかって。

 もちろん方法はこれひとつじゃないですよ。
 ただ、わたしが今一番合っている方法がこれなんです。

 音楽は、人に感情を許可してくれる力がある。

 思えば、わたしは曲を聴くだけでなく、曲を作ることによっても、「自分の感情を感じ切る」をやっているのかもしれません。

 あの、詩を書くときの集中力。
 あれはまさしく、自分の感情の海の中に深く潜って、海の中の世界を探検するようなものですから。

「愛別離苦」が入ったアルバム「哀と傷」は、CD・DL版共に好評発売中、各種音楽配信サービスでも配信中です。

CD版「哀と傷」の詳細はこちら→https://shobuwi.booth.pm/items/2227049
DL版「哀と傷」の詳細はこちら→https://wishobu.bandcamp.com/album/sorrow-and-wounds

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宣伝についてのセルフ作戦会議。

 どうも、宣伝が苦手な宵部憂です。

 わたしの尊敬する人が「売らないと売れないよ」って言っていて、わたしは「だよねっ!」と思うと同時に「どうしよ……」って思ったので、ブログを書いて色々考えてみることにしました。

 人に話しながら考える人もいると思いますが、
 わたしはブログに書いて頭を整理するのが一番やりやすいし、人に負担もかけないし、自分とより深く繋がれる気がしていいなっ!という結論に達したので、
 もうここを大学の研究だけでなくわたしによる「わたし」の研究ノートとしてもフル活用していこうと思います。

 宣伝が苦手な理由はこの辺の記事↓に書いた感じです。

 つまり「作品について説明なんかできるわけねーだろ甘えんな」ということです。

 ただ、別に宣伝=作品の説明とは限りませんし、作品を作ったら絶対何か言いたいことも生まれるはずだよなぁ、自分の中にその萌芽は間違いなく感じるし……と思っているところでした。

 まず、足掛かりとして最初に考えたいのは、大学で作品を作ってそれについて説明するのは全然悪い気がしない、どころか、楽しいかも、という点についてです。

 これは、そもそも「大学で研究しながら作品を作るとはそういうことである」と最初から了解している上に、勉強と言語化がめちゃくちゃ楽しいから、という答えが既にわかっています。

 だから多分、作品の説明と宣伝が一体化するのが嫌なんです。

 これは、「作品は作品なのだから、説明で説明し切れるものではない」というのが、大学のような場では共通認識になっているから構わないけど、アカデミアやアート系の世界の外ではそうとは限らないので、説明してしまうと説明で満足されてしまいそうで嫌だ、ということです。

 じゃあ、宣伝するときに、作品を説明しなければ、たぶん喜んでわたしは宣伝……というか、「宣伝!」って感じのエネルギーのものではないと思うんですけど、「みてね」ってできると思います。

 じゃあ何を伝えるのか。

 既に思いついているのは、「その作品を作るに至った経緯」ですね。

 どうしてそれを閃いたのか、どうしてその手法を選んだのか、作っている時に何があったのか、何を感じたのか……
 を、ただ事実を列挙するんじゃなくて、ストーリーとして、その記述自体が詩みたいになるように、美しい文章で書いてみたい。

 今までも、何を考えて作ったか、はブログに書くことがあったんですけど、大学での書き方が癖になってるのかな、すごく堅い書き方しかできなくて。
 もっと随筆みたいな感じで書きたいです!

 他にはなんだろう、「その作品に自分で触れたら何を感じたか」も、随筆みたいに書きたい。

 わたしのモットーに、「聴いた人の人生とともにある音楽」っていうのがあって、それはつまり、聴いたタイミングによって全然違うことを気付けたり、感じられたりするってことなんだけど。

 それをまず自分が体感して、その体感を書いていきたいなって。

 わたしの尊敬する人は、自分で商品をプロデュースすることはあるけどわたしみたいに全部自分で作る人ってわけではないけど、「自分が自分の広告塔になる」ってよく言っています。

 そういうのって、わたしは全部自分で作っているから自画自賛みたいで嫌だな、その人の真似はできないよって思ってたんですけど、ちょっとそれはそれで驕った考え方かもしれなくて。

 作品ってね、神様と共同で作るものなんですよ。神様あるいは自分の霊感、とにかく、少なくとも自分の力で全て作られてるわけじゃない。
 たくさんの偶然や運命の力を借りて、たまたまその形に仕上がった、この世に二つと無いし何か条件が違ったら別のものになっていたっていう「奇跡」なわけです。

 だから自画自賛って言葉もおかしくて、それは「自画」では別にないわけですよ、わたしに言わせると。

 たとい自画だったとしても、それは作品として自分とは別の自我を持っているわけです(自画だけに)。
 自分の子どもは自分ではないのと同じで、自分が生み出した作品を褒めることを厭う気持ちは、正直言ってわたしの中にはもともとはありませんでした。

 だってそれ、もうわたしとは独立した、あんま関係ない存在なんだもの。

 でも自分の人生の中に存在していて、自分に何かを気づかせてくれるんだから、そりゃ、本当は褒めたいし、何遍もエッセイ書きたいかも。

 じゃあ、もともとはそんな気持ち無かったのなら、どうして持つようになったのかっていうと、
 ……人の目を気にするからでした。

 はい! ということは、この自粛心(わたしの今思いついた造語ですが、なかなか良い言葉ができたかも)は要らないってことですね! 捨てます!!!

 わたしは思えば昔から、自分の能力やできること/できたことを自分でアピールしてはいけないって思ってきたかもしれません。

 当然、自慢してると言われるからです。

 それもまた当然で、だってわたしは努力で獲得できた力って無いから、共感なんてされるわけがないんです。

 わたしがしてきた/している努力があるとするならそれは、もともと持ってる力を発揮できるように周囲の環境や自分のやり方を整える努力です。

 やっぱり、あんまり共感されないかもしれません。

 でもそもそも、わたしにはあんまり共感は必要ありません。

 それより世界観の魅力で勝負するからね。

 というわけで、自分大好きかよって思われるのはまだ怖いけど、自分の曲にまつわる随筆、これからいっぱい書いていこうかな。

 実際わたし自分大好きだしね!!!!!

 そんなん超今更だな!!!!!

 自分が嫌いで自分の世界観作り込めるわけないもんな!!!!!

人に何かをしてもらって喜ぶのが苦手な話。

 相手が友達ならいいんですけど、つまり信用できる相手ならいいんですけどね。

 相手をつけ上がらせたくないからです。

 そもそも、相手の意図もわかんないし。

 こっちが喜ぶことによって向こうが増長したら面倒くさいなって思っているからです。

 でも、それって受け取り下手っていうか、「わたしごときが何かしてもらっていいはずがない」と思うから、すごい感謝やお返しをしないといけないって思うから、喜ぶだけで相手に貸しを作っちゃうって思ってるんでしょうね。

 もっと爽やかに受け取りたいな。

 わたしがいつも応援している配信者の方が、スパチャをめちゃくちゃ爽やかに受け取るのが格好良くて格好良くて。

 あっけらかんとしていて、投げた側も投げられた側も、いい意味で軽い気持ちなの。恩とか貸し借りとか、べちゃっとしてない。

 そういう受け取り方をわたしもできるようになりたいな……

 わたしが気持ちよく受け取ったら向こうも嬉しいってわかってるから、そもそもこんな悩み方をするわけなんですけど。

 受け取れないからお返しをしなきゃ、でもそんなのしんどいからそもそもいらない、みたいな悩み方じゃなくて、
受け取ったら相手が喜んだり誇らしげな気持ちになったりするから、それが嫌」って笑。
 どんな悩み方だよ笑

 それだけ善意に対しては喜んであげるという礼儀作法が染み付いていて、それがめんどいということなのかしら。うーん……

 あるいは、
 自分の中の埋まらない穴を、わたし(たまたまわたしだっただけ)や他の人に認めてもらったり喜んでもらったりすることで埋めようとしている人の自分を充足させる活動に手を貸したくない
 ってことなのかしら。

「手を貸して」って言われたら喜んで手を貸したいんだけどね。
 本人が無自覚なそれに手を貸したくない。

 だってそれは美しくないから。

 美しくないプロセスに手を貸したくない。
 自分がそのプロセスの一部になりたくない。

 そうだ、これな気がする……!

 仕事をめっちゃ選んでしまう気質なのも、この信念のせいだ。
(「せい」って書いたけど、直す気とか全然ない笑)

 太陽星座乙女座の、やべーレベルの頑固さ潔癖さ。美しさに対するこだわりのヤバさ。

 そういうわたしの気質がありありと現れてる気がする。

 ということがわかった上で、じゃあ爽やかに好意を受け取るにはどうしたらいいのかな。

 相手が美しい気持ちでこっちに好意を投げてるかどうかなんてわかんないし、そんなの他人の領分だから、そもそも口を出すことではないよね。

 だからわたしが意識というかやり方を変えれば、「爽やかに受け取る」は実現できるはずなんだ。

 ……わかった。これからやってみることを思いついた。

 人の好意を、「そういうもの」として受け取るんだ。奇跡みたいなものじゃなくて。
「人はわたしに何かくれたりしてくれたりするものなんだな」って。

 そして、「やってやったのに」的な雰囲気に対してはとにかくスルー。罪悪感も持たない。

 情を、つまりベチャッとしたものを、自分の中に取り込まない。

 そうすれば、向こうが承認欲求でやってても、それを満たさないという形で加担しないことになる
 何もくれるものの受け取り拒否までしなくても。

 罪悪感とか負い目って、人の恨みとか僻みに取り憑かれるのりしろになっちゃうよね。今日スーパーからの帰り道に考えてた。
 悪霊に悪さされるのって、自分が悪いわけでもないのに悪霊の恨みのこもった声に「ごめんなさい」って思っちゃうからなんじゃないかな、って。

 でも、世の中の大抵の恨みって、本当は自分に向いているわけじゃないんだよね。っていうか、なんていうんだろう、本当は自分に向けられるべきじゃないもの。
 恨みをぶつけてくる本人が、本当にぶつけたい相手にぶつけられないから、こっちに飛び火してるだけのもの。

 それにそもそも、わたしに何かを(して)くれようとしたのはその人なわけで、その人の選択じゃあないですか。その人の勝手な好意なわけじゃないですか。
 わたしがその人の気にいる返答をしなきゃいけない筋合いは全然ないよね。
 相手が子どもならともかく、大人なら、自分の選択には自分で責任を持って、帰ってくるどんな反応も受け取ってね(もちろん嫌な気持ちになったり誰かに相談したりしてはいけないというわけではない)、っていうのが道理だよね。

 はい。
 また一つ練習することが増えました。
 何か自分にとって嬉しい、誰かからの好意をいただいたときに、どんどん練習していこうと思います。

 宵部

 

 

 

 

マクルーハン『メディアの法則』講読メモ1

マーシャル・マクルーハン+エリック・マクルーハン 監修・序 高山宏 訳 中澤豊『メディアの法則』 NTT出版 20002年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

監修・高山宏氏による序

『メディアの法則』はマクルーハンの遺稿

 マクルーハンもオングもイエズス会の人!
 エリザベス・シューエル『オルペウスの声--詩と自然誌』(1960)
 エリオット カトリック・リヴァイヴァル
 カトリック・パラノイアとしてのマクルーハン・メディア論の台頭
 ↑20世紀のカナダ カトリックとプロテスタントがぶつかり合う地

『メディアの法則』の拠り所 図と地の理論 エドガル・ルービン(ルビンの壺)
 マックス・ヴェルトハイマー ゲシュタルト心理学
 ユングの元型論ー「隠されていた地の浮上」--ノースロップ・フライの元型・神話批評

「分析」から「統合」への時代だったポストモダン
『メディアの法則』は、「分析」と「総合」の関係の額である文学を最大級のスケールで捉え直す文学論・詩学でもある(高山)

「メディア」の概念を本来の神秘主義宗教での宇宙的含意(巫女、導者)まで突き戻す
 メディエータ=媒介者≒霊媒師という言葉もあるもんね。

 マクルーハンの、聖数4へのこだわり
 素数2の平方=総合化・積分化をめざすあらゆる想像力に力を与える「普遍の鍵」
 積分化とは何かについては、積分について調べたらちょっと分かったかも。これまでの歩みを総合したり、蓄積として見たりすることかな。

 中心が何処にもあって周縁とか円周がどこにもない球=マクルーハンがイメージする聴覚的世界=中世のスコラ学での神の定義
 聴覚的世界を神秘化しすぎることの問題点も述べられるようになりたい。その上にじゃないとわたしがどう考えるのかまで考えが行き着かないな。

「電子メディア空間における知覚と身体性についての議論に『グーテンベルクの銀河系』(1962)が立脚点になる(要約)」(松岡正剛)
 マクルーハンは消費されてきたと筆者は主張

『グーテンベルクの銀河系』は印刷形式、ページフェースの視覚的印象が斬新
 モザイク的論述法 ロマン派の「断片(フラグメンテ)」 スーザン・ソンタグなら「並置(ジャクスタポジション)」と呼ぶだろう手法
 断片を使って総合に向かうのは読者、きみ自身なのですよ、というわけだ
 なにそれ超かっこいい!!! わたしもそれやりたい!!!! グーテンベルクの銀河系読まなきゃ!
 メディア感覚の良い現代批評は自らの紙面構成や活字級数にまで細かくデザイン的配慮を行き渡らせないではおかない
 なんかキャシー・アッカーの『血みどろ臓物ハイスクール』も、あれは形態としては物語だとは思うけど(批評ではなく、ってことね)似た美意識というか哲学を感じるなぁ
 本そのものの構造を通してメディア論の中心課題を論じる、いやパフォームする
 紙面と遊ぶものこそポストモダン思想(筆者の主張)

『オルペウスの声』(シューエル)もそう。
 長い文章を小刻みに切って、それぞれに内容をあらかじめ要約する、長めの文章になった見出しがつく。
 文章になった見出し。イメージとしては文章になったタイトル(web小説でお馴染みの)? いや、どっちかというと詩や短歌の前の詞書(ことばがき)を思わせる! うん、それがぴったり似てる気がする。
 マクルーハンのテトラッド・ページ、
 シューエルの「メタファー」論を使った自作の詩の「オルペウス詩篇」
 シューエル曰く、「哲学に接するギリギリのところで文学は散文からどうしても詩になる」
「世態風俗の描写」(高山宏)に留まれば散文になるのかもしれないが、哲学しようとするとどうしても詩になる、と。確かに散文が「実用的な、写実的な、覚書的な、即物的な文章」だとするとそりゃそうなるわな。

 形式と内容がマッチする表現 一冊の書冊として存在する批評
 こんなん芸術作品じゃん。それも現代アート的なやつじゃん。わたしが目指すものじゃん。
「アルファベットによる視覚文化の終わり」を論じるからには
 これはでも、「古いメディアである書籍として出すからには、そして古いメディアの環境に慣れた人々に向かって書くからには、古い書き方で新しいものを論じるべき」という意見もありそうね。

「詩」と「メタファー」に現れる「総合化」への動き--シューエル
↑をメディア論という衣装の下でやっているのがマクルーハン
 合理精神の負の力、諸観念の「分断」を総合してくれるもの→シューエルはメタファーに、マクルーハンは電脳が可能にしてくれる聴覚空間に見出していく。
 そして「詩」へ。
 悔しいけどこの「統合」を詩に求めるという点については完全に同意してしまうな。メタファーも分かるかも。シューエル読みたくなった。
 一文一義とか、そういう世界じゃない言葉だから、詩や格言というのは。いくつもの意味をプリズムのように屈折させて単一の点に集める(『メディアはマッサージである』より)もの。
 ただ聴覚的世界=詩なのかどうかは疑っていかないといけない。安易にそういうことにしたいからこそ疑って、本当にそうらしいと言えるまでは保留しないと。

「普遍記号」論のライプニッツ世界の回復

 T.S.エリオットの「伝統と個人の才能」(1919)
 1910年代 世界の断片化の悪い予感が未曾有の大戦争で現実のものとなった
 じゃあ今は統合による搾取の世界なんだね
 20世紀の思想は結局、「再総合化の夢による分断の弥縫(びほう)」の一つに収斂している?
 グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』(1959) マニエリスムもまた、「断片化→総合」「再-積分」の本 メタファーの機能に文学の世界回復の力を賭けるマニエリスム
 メディア詩学

 分断された世界のオルペウス的統一
 緊縛された世界のプロ(メ)テウス的解縛

 バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム』(1991)
 彼女は反近代の癒しの世界をも、電脳が可能にした視覚的世界として描こうとした
 ⇔これからは聴覚と「共鳴する間」だとするマクルーハン(基本的に視覚/聴覚、分断/総合など二元的)
「共鳴する間」とは何か? これは用語集を作るなら入れておくべきかな。
 スタンフォードの最新刊(2002年当時)『ヴィジュアル・アナロジー--つなぐ芸術(アート)としての人間意識』(1999) 「つなぐ」力としてのメタファーと「愛」 人間意識を電脳的プリコラージュとする
 結合知

 1920’s-1930’s アスコーナ(スイス) エラノス・マインド
 1950’s-1960’s トロント 「カトリック・パラノイア」

 エラノス会議 ユングを中心とした元型心理学、人類学と心理学の本質的なところでの融通、外殻としての量子物理学とゼン・ブッディズム→近代合理精神の行き詰まりを突破しようとしたサイ科学 サイはサイキックのサイ

 1950’s  電脳時代の本格的幕開け+「思考の生物学」知が生物学からインスピレーションを受け始める
「思考の生物学」! これがフーコーが批判した「自然」とか「生物学的事実」とか「本能」とかに繋がっちゃうわけね……難しいよね、人間の脳や精神だって確かに生物学的に生まれたものとはいえ、その脳を使って人間は社会を構築してるわけだから、生物学的自然じゃなくて社会的=人為的、恣意的に作られた「自然」になってっちゃうのはむしろ必然なわけで
 合理 VS 非合理 → 左脳 VS 右脳(スプリット・ブレイン理論)1970’sからはこれが普通に

 20世紀のサイキックな文化形成史(ハイゼンベルクからニュー・エイジ運動まで)
 ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』(1968) マルクス主義も取り込んでいる

 マクルーハンは英文学者である。ブレイクに始まりジョイスに終わる、メディア色濃厚な作家や詩人を相手にした英文学者
 シューエルの批評
 18世紀の崇高美 アーネスト・テューヴソンの自然論・「恩寵」論は観念史派のバイブル
 ↑これらもマクルーハンは自分のチャートに入れ込んでいる
「観念史」も日本ではろくに知られていない(2002年当時)

『メディアの法則』以前に邦訳されるべきものはいっぱいある。そうして初めて『メディアの法則』の真のレジュメ力、発展力の見事さは知られるのではないか。
 電脳メディア論がトリウィウムー中世スコラ学の修辞学や弁証術と直結する呼吸
 電脳文学論にスライドしていった文学研究者リチャード・レイナム『雄弁の動機』(1976)
 修辞学を知らないで読んでいる(つもりの)シェイクスピアなど、「文学」という名の幻でしかない
 えぇ……そりゃーまあ……ヨーロッパの修辞学は知らんかもしれないから、ヨーロッパの文学を読むには確かにヨーロッパの修辞学勉強する必要があるだろうけどさ……
「修辞学を」知らないって言い方は流石に言い過ぎじゃないのか……
 わかんない 修辞学ってもはや文学どころか語学の世界にも行くもんなあ 言葉の数、文化圏の数ほど修辞学にも種類がある気がする……
 とりあえず日本人だって何かの修辞的な技法や感覚は身についてると思う、ただそれがヨーロッパ的なものでは全然無いというだけで

 まあ、いずれ修辞学も掘ってみないといけない気はするけどほんとに言葉と文化の違いっていうのに超ぶつかりそうで何からやったらいいのかわかんない感じ…… ああでも分析に使うんなら、その分析対象が属している文化圏の修辞学の系譜を辿ればいいのか……それならまあ足掛かりはあるか……
 日本のものだったら明治維新以降輸入された西洋の修辞学の受容と、それ以前の日本が使ってきた修辞学や修辞学的感覚の両方を考慮すればいいのかな
 だからつまりヨーロッパのものを読むなら、ヨーロッパの修辞学をちゃんと勉強しろよって著者は言いたいのかも

 フランシス・ベーコン『新機関(1620)』→ヴィーコ『新しい学(1725)』→『メディアの法則』は一線上に並ぶ(マクルーハン曰く)
 シューエルもベーコン→ヴィーコ→『オルペウスの声』 そこからシェイクスピアの喜劇、リルケ(1875-1926)の詩、カッシーラの哲学を一線上に並べようとしている

↑のような「知る」ことの「方法」をめぐる思索の系譜を追えているのがジョージ・スタイナー
「知る」ことの「方法」をめぐる思索=身近な言葉にすると「世界観」かな。
スタイナー『脱領域の知性--文学言語革命論集』
「言語学と生物発生学との間の語彙の目覚ましい出会い」「生命の輪郭線」
「ルネサンスーバロック期の、全的見解、文法と人語の創造的容態は全自然の中にその対応物を持つという信念(要約)
 つまり、言葉と自然、思想と実践、精神と物体、シニフィアンとシニフィエを分けない考え方? ポール・オースターの小説『ガラスの街』に出てくる架空の言語学者(だっけ)ピーター・スティルマン(父)が言う「バベルの塔以後の自然界とバラバラになった言葉」っていうのは、この言葉と自然の分離にも関係ありそう
 シニフィアンとシニフィエでお馴染みのソシュールは1910年代に亡くなっている。

 1950’s〜 電脳マニエリスムの時代

 マクルーハンはもはや「メディア」論という狭い世界のものでは無い

 中世スコラ学がわからねばならない。
 ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(1980)の世界
 何かの対象をと言うよりは「方法」そのものを問う手法 トピカの修辞学から「共通感覚」までおさえて然るべくヴィーコする中村雄二郎
 シューエル、シュタイナー、マクルーハンを一線上に教えてみよ
 フライもマクルーハンも、メディアと神秘主義に同時に深く関わったウィリアム・ブレイクから出発している

2021.06.11 書き始め

 

 

 

 

わたしと嫉妬とわたしの話。

 あんまり具体的なことを書くと身バレ的なことが起こる気がするので、抽象的なことしか書けないんですけど、わたしと嫉妬の歴史を書いてみますね。

 と言っても、わたしは何というか本当に色々恵まれていて、人に嫉妬したという記憶がぱっと思いつく限りでは2回くらいしかありません。

 あ、でも、子どもの頃に、子どもなのに有名になっている子に対しては幼心に嫉妬心を抱いていたのは確かです。「わたしだってもっとできるのに」ってね。
 それはまあ、確かにその通りだったと思います。わたしはもっと幼い時から良いところをもっともっと伸ばしてよかった。
 人の機嫌を気にしてキョロっている場合ではなかった。

 でも、それはトラウマティックな恐怖体験のせいだし、それがわたしの身に降りかかったことは、多分意味があったことだったのです。
 少なくともその恐怖やもだもだが無ければ、わたしは今のような凄みのある表現にはたどり着けていないと思います。

 若くして成功することだけが良いことではありません。
「成功」するということは、ひょっとしたら、一人で考える時間が少なくなってしまうということでもあるでしょうから。

 だって、成功したら周りに人がいっぱい来るでしょ。
 自分もまだ考えながら、時に揺らぎながら、手探りで活動していっているのに。
 周りの人が色々言ってくるわけで、その色々言ってこられることの一つ一つが自分にとって大切なものなのか、害をなすものなのか、とか、まだよく分からないうちから、つまり自分のことがよく分かっていないうちから、大勢の人の声や視線に揉まれるのも、それはそれで大変そうだなって思うのです。
 成功する前に迷走するのも、成功してから迷走するのも、どっちのパターンもあるよなって。
 だからどっちがより良いとか、どっちが勝ちとか無いなって、今は思えます。

 わたしは今の、
 色々経てきた、
 自分のことがよくわかっているし、
 わからない部分があることも受け入れられるし、
 わからない部分のせいで迷ったらその部分を「わかる」にしていけるし、
 自分のことを人に伝えられる、
 この自分が好きです。
 誇りに思っています。

 だから今は、嫉妬ってありません。
「あ、あの人のやってることいいなー(自分もいつかやろう)」とは思うけど、「あの人みたいにわたしもなりたいのに……!」とか、「わたしのほうがすごいのに……!」とかはなりません。
 人と比べて焦ることもない。

 あの人みたいにならなくていいし、なれなくていいし、わたしにはわたしの活動がある、って分かってるから。

 でも、昔はまだまだ自分の魅力を信じきれなくて。
 自分には何が合って、
 何が無いのか(そして無いことは悪いことではない)、
 自分が持っているものを何もわかっていなかったから、
 自分に似ていて、でも自分より人気な人が妬ましかったし、「わたしはあの人みたいになれない!!!」って絶望しました。

 あとね、自分が本当は「それ」じゃないのに、頑張ってなろうとしているものに、自分よりずっとずっとなっている人にもムカついたり「抜かされちゃう!」って思ったりしたな。

 でも本当は、それ、自分じゃなくて、「それ」になった方が人気になれる、受け入れてもらえる、って思うから、頑張って自分じゃ無いものになろうとしてた、だから当然抜かされるしそのことで嫌な気分になる(だって努力が実らないってことだから)っていうカラクリでした。

 具体的に言うと、頭が良くて、言うことがしっかりしていて、清楚で聡明な感じの優等生ですね。
 わたしはどうしてもそこに変人パウダーを振りかけてしまう自分が嫌だったんですよ。
 だってなんか、オタクっぽいし、美しくないなって。
 でも、喋りたいことはめちゃくちゃ早口で喋っちゃうし、わきまえられないし、喋りすぎちゃうし。
 たぶん、浮くし。

 ……いや、よくよく振り返ってみると、わたしが変人でいられるって、
 それだけ夢中になっていてかつリラックスできる場に身を置いているってことなので、
 むしろわたしにとってとても好ましい状態だったわけなんですけど。

 でもわたしは、その変人なところが受け入れられない(と感じた/察知した)場では、周りから浮かないように「頭が良くて、言うことがしっかりしていて、清楚で聡明な感じの優等生」を演じることで周囲に溶け込もうとしてきたわけです。

 だから、自分とペルソナが被りそうな人を見ると「抜かされる!」「この子に注目を全部取られる!」って焦り始める、ということが起きてました。

 だから思うのは、嫉妬って、

「(あの人じゃなくて)わたしを見てよ!」

 っていう自分の内側からの叫びなんだと思うんだけど、
 これって自分の本音(魂)が自分に向かって言ってるよねって。

「もっとわたしを理解してよ!」って。

「そんな他人のことばっか羨んでないでさあ! あんた(=わたし)にだって他の誰にもない、人が羨むようなものがこんなにあるのに!!!」
 ってね。

 だから、自分への不理解からくる症状なんじゃないかなーって今は思ってます。

 だからわたしも、何か脇が甘くて、嫉妬みたいな気持ちが湧いたら、
「わたしは何かを我慢しているのでは?」
「何か自分に制限をつけていて、自分の欲求を見ないフリしているのでは?」
「だから好きにやってるあの人に腹が立つのでは?」
「その制限とはなんだろう?」
「その制限は、何かの傷から来ているのでは?」
 ってまた謎解きをするチャンスと思おうと思います。

(「謎解き」とはなんぞや? という方は是非こちらを読んでみてね↓)

 今回はここまで。

 YouTubeだったらご視聴ありがとうございましたって言うところだと思うんだけど、ブログだとなんて締めたらいいのかな?
「最後まで読んでいただいて〜」だと重すぎる感じがしてさ〜。

 あ。

 ご読了ありがとうございました!
(う〜ん、やっぱ日本語おかしいかな?)

 調べたら、「ご清覧ありがとうございました」が使われるみたいです。
 いいかも。
 どんなアホなこと書いてても、この言葉で締めるだけで頭良さそうになるし笑

 はい。

 こんどこそ以上です。
 ご清覧ありがとうございました!

 宵部

 

マクルーハン『メディアはマッサージである』メモ

マーシャル・マクルーハン、クエンティン・フィオーレ 門林岳史 訳 加藤賢策 デザイン監修 『メディアはマッサージである』 河出書房新社 2015年 
……の、講読メモです。

 水色の部分は本に書いてあった内容ではなく、わたしの感想や推測です。
 灰色の部分はわたしの注です。

 この記事はコメントを許可していますので、わたしが間違ったことを書いてしまっていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合、コメントをいただけると大変嬉しいです。

目次
 アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 電気技術 脳の神経回路の延長
(オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 環境について
 プロ・アマ
 

アルファベットと印刷技術、視覚の世界 目の延長
 書物、絵画…美術

 断片化、すなわち専門化と分離、分類 目の中立的世界 
 目標・職業とは断片化・専門化されたもの

 環境すべてを視覚的、空間的見地から見る習慣
 均質で、連続していて、かつ連結しているような時間と空間に関連づけて知覚する習慣
  ↑なんじゃこれは
  「この環境は、AとBとCとDとE(すべて均質)が、このような連続と連結を描いていることによって成立している時間と空間である」みたいな見方?
 額縁の中のものに一切干渉せずに見る、という態度
 美術=文化を図像に翻訳したもの→空間近くのあり方がかたちになったもの
 ルネサンス以後、西洋人は環境を目で見えるものとの関わりにおいて知覚してきた
 空間測定の形式的な単位でできた平面状に透視図法を用いて投影したもの=芸術家にとっての「空間」
 固定された観点からあらゆる現象に目を向けようとする根深い習慣

 印刷術により、流れ作業による大量生産で均質なものを流布させられる
「個人的に読む」ことができるようになる
 人に考えを吹き込むこと(inspire) 密かに企みを分かち合うこと(conspire) が可能になった
 個人主義という新たな信仰 私的観点 が可能になる
 他人との関わりから距離を持つ能力

 公衆を生み出した
 それぞれの私的な観点を携えて歩き回る人々
 断片化された視界たち

 直線の世界
 専門化は、その直線を部分ごとに=部門ごとに分けていくこと
 直線=連続体であること=合理性
 事実や概念を一続きにして連結することに、合理性や事実の論拠を求める
  ↑アカデミックライティングってまさにこういうものだよね。
  ↑電気技術が当たり前になった現代では、統計やデータの提示をこの代わりにしてしまう(良いのか悪いのか。「悪い」と思うのはオールドファッションなのか?)ことが増えた?
 文学的プロットによる社会 物語の筋_ストーリー・ライン

 もっとも意識的な経験はほとんど視覚性を持たない ことを視覚的人間(西洋文化における合理的な人間)は忘れている
 この文言はめちゃくちゃわたしの言いたいことを言うために使えそうだけど、「意識的な経験」とは何か? が言えないとふわふわしちゃう そこんとこどうなんですかマクルーハンさん
 視覚性とは「固定されたパースペクティブから見る、均質で連結した世界として知覚されるあり方」のこと?

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ

 電気的コミュニケーションの時代においては遅すぎる

 ソクラテスによれば「真理の見せかけ」
 人を忘れっぽくさせるもの
 確かに、現代では「ネットで全部調べられるのだから、テストと称し人を閉じ込めて記憶している知識を問うことに何の意味があるのか?」という問いも飽きるぐらい提示されるが、それに近い転換がこの時代も起きていたのかも。
「書物に全部書いてあるのだから、人が経験を積んで自分(の身体と心)で覚えていくことに何の意味があるのか?」となっていたのかも。
 事実、もうここはわたしの価値観や人生論の話になるが、人々は自分が人生の中で経験して得たことよりも、何かすごそうな人が言っていることやすごそうな本に書いてあったことの方を信じて生きてしまいがちな社会になってるよね。

 理論と実践、想像と執行することを切り離す→もともとこの区別はあったものだと思い込まれる

 聴覚的なリズム、抑揚、休止をタイポグラフィで表そうとする
(例:フォント、字組み、書式……)

 著作権を作り出した

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー

電気技術 脳の神経回路の延長
 テレビ、コンピューター、インターネット(WWW)……

 結合、相互関与 断片化されたものが再びまとまっていく 区別できない 
 流れていくもの、統合されたもの、融合したもの
 われわれ全員に、みんな同時に干渉してくる 距離を取ることも枠にはめることもできない
 相互依存→グローバルヴィレッジ
 関与し合って満たしたいという年中続く欲求
 役割 全面的関与

 共時的 即時的 すべてが同時に生起する 作用と反作用が同時
 環境と経験が相互作用しながら共存
 時間と空間は一つのもの という感覚
「時間」は止まり、「空間」は消え去った
 多次元的な空間感覚
 神話と深層の世界
 
 情報が即時的かつ連続的に私たちの中に流れ込んでくる かつめまぐるしく移り変わる
 データ分類からパターン認識へ 

 テレビとは触覚を持つ。もはや単に視覚的なものではない 視聴者を内包する(テレビの中の世界に取り込んでしまう)内包性を持つ。
 大衆を生み出した
 大衆文化という 環境=自然な直接経験、能動的な力
「自然な直接経験」と、「(最も)意識的な経験」は近い意味? どうなんだろう
 全面的な電気ドラマ

 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの
 CM 物語形式のための時間がない 省略的な編集、突然のズーム、フラッシュ・カット

 考えの即時のコピー
 自己表現→チームワークという中世以前への回帰
 これは残念ながらソーシャルメディアの台頭やネオリベラリズム的自己の在り方が必要とされるようになったことにより変わってしまった。「良かった頃のインターネット」では、インターネットは集合知=チームワークの世界だったけど、今は「みんなが芸術家のように振る舞うことを強いられている」社会。個性が重視されるなんて言葉では足りず、個性がなければならない社会。
 ……わたしは多分個性を持っちゃった側の人間だから、これから生きやすくなっていくんだろうけど。まあでもぶっちゃけ個性なんてみんなにもあるはずなんだけどね。「突き抜けるか同調しろ」っていう状態だからしんどいだけで。

 テレビは印刷技術の頽廃した形ではない
 今や映画も音楽もテレビコンテンツも、演劇やコンサートすらも、自分の好きなところに持っていけて、好きな時に触れるのを始め、好きな時にやめられる小説のようなものになっている気がする。……だから私的観点という概念は今でも健在……なのか……?
 いやでも、絶えず干渉してくる存在っていうのはやっぱあるか。SNS。そうするとやっぱ私的観点は昔ほど堅いものではないだろう。その輪郭は融解している気がする。
 近い「私的観点(のようなもの)」を持ったクラスタに個人が所属し、そのクラスタの干渉を常に受ける(だから個の輪郭が融和する)という感じか?

 そん中でも融和しなかった人が「個性」を持てるのかもしれない

 冷たい戦争
 情報処理装置としての環境 プロパガンダ
 対話が始まるとプロパガンダは終わる
 プログラマーではなくメディアに話しかけるべき
 メディアと「対話する」つまりメディアのメッセージに向き合うと、プロパガンダは終わる? イデオロギーに気づくとイデオロギーはうまく作用しなくなる的な?

 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている

オーディオ技術) 聴覚の世界 耳の延長
 電話、蓄音器、レコード、マイク・アンプ・スピーカー、ラジオ、CD、テレビ、ライブビューイング、YouTube、音楽配信サービス、リモート演奏会……

 耳の魔術的世界 神秘

「かつて聴くことは信じることであった ヒアリング・ワズ・ビリーヴィング」 
 メイクビリーブという言葉の意味がまだあんまり分かってない。この一説と関係が深そうだから調べておく。

 境界も方向も水平線もない世界 精神の闇 感情の世界 
 原初的直感によって、恐怖によって生きていた
 うまく言えないけど、「現在しかない」という感じなのではないか。
 叙事詩で過去の話を聴くときも、「過去の話を聴いている今」「過去の話をうたっている今」しかない。
 書物のように、「振り返る」ことはできない。

 話し言葉がその社会のチャート図

 ペンから文明が生まれた
 話し言葉が思考へ、かたちを持った思考へ
(あえて同じことをここにも書いておく)
 逆に言うと、話し言葉の時代は(今の概念で)「思考」と呼べるものはなかったと言える。あったとしても今とは違った様式だっただろう。
「感情の世界に生きていた」と言うのだから、マクルーハン的には話し言葉は「合理的」な「思考」ではなく「感情」「神秘」を伝えるもの、と言いたいのかも。まあそうなんじゃないだろうか。

 そして、話し言葉はかたちを持たなかった、という「逆」も言える。これは私の研究的に重要そう。

 書物は私的に読めるけど、おしゃべりは相手がいないとできない。個人主義も話し言葉の時代には当然なかった。
 でも今は音の聴取も個人主義になれる。イヤホンやスマートフォンのおかげっちゃおかげだが、遡れば鉱石ラジオやトランジスタラジオもそう。ウォークマンは言わずもがな。

 聴覚的で、水平線もなく、嗅覚的な世界ーアルファベット以前の未開民族
 ここにはすごいプリミティヴィズムがあってあんまやだなあ。未開民族なんてきな臭いワード持ってこないで、聴覚芸術の世界って言うべきじゃないのかそこは。

 見えているものだけでなく、知っているもの全てをそこに詰め込む 描写したいものを全て説明できたと感じるまで 多次元的空間感覚
 これが聴覚芸術で起こることはあまりない。あったら面白いと思う。やっぱり目の世界の「見たまま」を引きずるのか、「実際に聞こえるように」聞かせる、つまり耳の再現をすることに徹しているように感じるし、特に注意を向けたい音しか鳴らさないのも、聴くべき音だけを拾うという耳の機能の再現?
 しかし叙事詩の世界なら、そもそもすべてお話の世界のことだからラジオドラマのように再現すべき「耳」はそこには存在しない。結果、語りの中に時間も空間もすべて詰め込まれている? ねむい

 原初的な感情、部族的な感情
 聴覚的空間に帰ってきた

 耳は特定の「観点」をひいきしない われわれは音に包まれている 音はわれわれの周りに継ぎ目のない織物を形作っている
「継ぎ目のない」という点が「環境」についての言及に似ている。音=環境=取り巻くもの=アンビエント、という感じ。

 一切焦点を合わせることなく、あらゆる方向からの音を聴く
 耳にはまぶたがない
 同時的な諸関係の世界

 ホメロスの『イリアス』が百科事典 精神的・倫理的・社会的生活のための教訓
 詩的・演劇的慣用表現 説得の技(修辞法) 狙った通りの心理的反応 ←抽象的・思弁的な推論に対する障害(forプラトン)
 真理を同調して記憶、想起
 霊魂と精神の集合的産物
 リズム・韻律・音楽
 心理や感覚に働きかけて「(心や身体で)わからせる」のが吟遊詩人の歌だった
 テレビとフォークソングのおかげで、思考と行動が近づき、社会参加が増えている(マクルーハンの時代)

 話し言葉の隠喩的モード
 多くの意味を単一の点に集めるプリズム
 ユーモア 物語の筋=連続性_シークエンスを持たず、複数の物語を重ね合わせて圧縮したもの にも近い?
 より多くのことを示唆するため、「正確さ」を犠牲に
 因果関係が織りなす複雑な集合を一気に察知するモード=神話
 わたしが執着している解釈の自由度も、ここにある気がする!

 聴衆を身に纏うこと、環境を身に纏うこと、時代全てを身に纏うこと=神話
 ビートルズの例え 英語を見に纏うことで音楽的効果をもたらすことができるようになった
 ↑なんじゃこれは
「環境」を己から遠ざける視覚的な世界観ではなく、むしろ纏ってしまうこと?
 遠くのものとして分析し分類しそれを連結させ直線的に語るのではなく、
「環境」を積極的に受け入れ、その中で感じられるもの(=環境)を複合的なものとして単一の点に集めて表現をすること?
「マクルーハンの読み方」みたいな文献を読むのもあり。ただし膨大になってしまいそうだけど……
 まさか「最も意識的な経験」って、「環境」のことなのか?
 若者は、この宇宙を見に纏うための公式を求めている(宇宙から距離を置いて観察するのではなく)
 三人称ではなく一人称

 話し言葉による概念だけで理解するのは困難とされる 非可視的だから
「話し言葉による概念」が残っている世界=キャッチコピー、格言・名言、パンチライン、聴覚的な詩
 意味は多義的で、耳に残る(=心に残る)言葉、言い回し わたしはそういう文体を好んでいるな 例:「再会を必ず」(あさのあつこ『NO.6』より)、「僕には絶望する権利がある」(伝・フランツ・カフカ)、「世界は美しくなんかない。そしてそれ故に美しい」(時雨沢恵一『キノの旅』より) それぞれ省略だったり逆説だったり対句(対照法?)だったり、詩的な修辞法が使われている

 ケージは、音は音、音楽は環境を見に纏うこととして、音について人々が持っている/あるいは持とうとしている観念をすて(それは環境から身を引いて観察する視覚的見方だから)ようとした。
 同時多発するメッセージ 口承言語による音楽の洪水 対位法的言葉 フィネガンズ・ウェイク

 耳が目には見えないものを掴むなら、記号化できないものも解読できよう
 聴覚芸術なら、トラウマのような記号化できない「体験自体」を作り出せる?
 マクルーハンへの批判も読まなきゃやばいなこれ、今やるなら

 専門化された聴覚=書き文字=視覚的メタファー
 とすると、やっぱりラジオドラマの音って視覚的なのでは……???

環境について

 われわれの感覚閥すべてに、日々の学習が発見のプロセスとなるようなシステム、知識、制御=芸術 を広げていく必要がある

 環境とは受動的な包紙ではなく、不可視の能動的プロセス
 芸術家が作るそれへの対抗的状況は、環境に直接注意を向ける手段をわれわれに与え、容易には知覚し得ない環境の詳細な様相を解明することができるようにするものである

 古い環境と新しい環境の相互作用

 19c→20c
 単一のモデル→複数のモデル
 発明の技法→判断の保留

 バックミラー越しに現在を見ている
「自分から遠ざかりつつ過去」を見ながら、われわれは未来に向かって進んでいる。

 新しい環境が要求している仕事を古い道具でこなそうとする失敗
〈死の舞踏〉「不条理演劇」

 メディアは、環境に変更を加えることで、そのメディアに固有の感覚比率を人々のうちに生み出す。生活に変更を加え、形作っている。

 人間が作り出したメディアという環境が、逆に人間の役割を定義する

プロ・アマ

 プロ
 環境的 全面化した環境パターンの中に個人を埋没させる 環境を疑わない
 分類し、専門的になる

 アマ
 直感、精神の独立性・独想性
 個人による全面的な察知能力、社会の基本原則を批判的に察知する能力

2021.6.8 書き始め
2021.6.9 追記1
2021.6.10 追記2

セルフケア(セルフペアレンティング)について。

↑この記事の最後の方で少し触れた「セルフケア」「セルフペアレンティング」について書きます。

 宵部式セラピー法のコーナーです!!! ドンドンパフパフ!!!!
(宵部式セラピー法ってなんか急に胡散臭くなったな)

「セルフケア」とは何かというと、つまり「親に満たしてもらえなかったものを自分で満たす」「自分で自分を満たす」ことです。

 まず大前提のお話。

 この世に、完全に子どもを満たしてくれて完全な育児をしてくれる親は存在しません。

「実家が太い」という言葉があるように、言葉の通じなさや目に見える形での子どもの扱いの悪さなどには差があるとは思います。ここには親の人間力が出るわけです。

 ただ、どんな親の元に生まれても、絶対に親との関係の中での傷つきや欲求不満は生まれます。

 なぜなら、親はこの世で一番最初に出会う、縁深い他人だからです。

 そして他人とは、自分の思い通りに動いてはくれない存在だからです。

「実家が太」くて親との関係が良好で悩んでいないように見える人でも、程度の大小はあれ、いつかはそのことにぶち当たるときは来ます。

 それこそが人生の黒幕だと思います。
 Eveさんの曲「ドラマツルギー」の歌詞に出てくる「黒幕」って、わたしは親(との関係の中で生まれたトラウマ)のことだって思ってるんですけどそれは脱線なので今はいいや。

 だから、その欲求不満の穴を自分で埋めるのです。
 あるいは、その傷を自分で看てあげるのです。
 それがセルフケアです。

 これは、「他の人が埋めてくれないから自分で埋める」みたいな、つまり寂しく一人になる、ということではありません。

 そもそも、そこを他人に埋めてもらおうとすると、とんでもないことになります。

 恋愛で言うと「重い」です。

 だって相手に自分の理想の親になってもらおうとしてしまうわけだから。

 結果として、人間関係が拗れます。

 それに、「重い」と感じる人だけでなく、相手の充足をコントロールできる存在になってしまうことで、自分が主君になったような心地になり、暴走し始める人間もいます。
(大抵そういう人は、「自分は他人より優れている(べき)」と思っている人です)

 そういう人に養分を与えてしまいます。

 ということで、セルフケアやりましょう。

 セルフケアのいいところは、自分を肯定してくれる人に頼らずに(もちろん悩みを人に話してはいけないということではありません。ただ、解決に他人の共感を必要としなくなるということです)、自分の悩みを解決に導くことができるようになっていくだけでなく、その悩みの解決をしていくうちに、自分が人間的に成長できるところです。

 ようするに、悩みから得られる経験値(人間としての・人生の)が跳ね上がるということです。
 人間としてのレベルが上がりやすくなります。

 人間としてのレベルが上がるとどうなるかは……あの……わたしがこれからどうなるかを見ててください!笑

 い、今は何者でもないかもしれないけど、絶対何かになるんで!

 ということで早速方法を書いていきます。

0 悩みが発生する。

 ここからセルフケアスタートです。
 あ、言い忘れましたがわたしがいつもやっている方法を書くので、人によっては合わないかもしれません。
 そういう方は、「自分で自分を満たす」系の文献を読んでみると、自分に合ったやり方に出会えるかもしれません。
 わたしは色々本を読み漁って今から書く方法に落ち着きました。

1 悩みを分析する

「分析」というと堅っ苦しいですが、つまり「わたしはこれの何を悩んでるんだ?」と自分の中を探します。
 このとき、頭で考えるのではなく、自分の感覚がしっくりくるものを掴むことがポイントです。

Point! これは「いつ」の問題なのか?

 まずここで最初にぶち当たるトラップがあります。
 ここにまた「親」が関係してくることが多いんですが、親じゃないこともあります。

 人間は、過去に受けた傷を想起させてくるような出来事が起こると、そこに過剰に反応するようにできています。
 だから、本当は今は問題ではないかもしれないことを、過去の傷に似ているからという理由で悩んでしまう、という現象が、わりとよく起きます。

 たとえばわたしは人の不機嫌や怒りが死ぬほど怖いのですが、それは幼い頃から我が家が定期的に父親の不機嫌によってヤバい感じになるという経験を繰り返してきたからです。
 でも、小さな子どもの頃はともかく、今となっては、不機嫌な人が同じ空間に存在しているからといって、死んだりしないことは明白です。

 このように、これは「昔の傷の思い出し」なのではないか、そしてそれはいつの傷なのか、を整理しておくことが、問題解決の早道です。

「なのではないか」というより、悩みの本質は「昔の傷の思い出し」です。

 昔に傷を受けたから、もう傷つかないように、生きるために身につけてしまう癖というのが、誰にでもあります。
 アダルトチルドレンの分類などは、その癖の分類のように、わたしには思えます。

 そして、その癖のせいで、似たような悩みをぐるぐる悩んでいる、ということが人生には起きがちで、
 そしてそういった悩みは、根本の傷を看てあげないと、一つを解決してもまた似たようなことがすぐ起きる、ということになりがちです。

 というわけで、昔の傷、その悩みの原点に立ち返ってみましょう。

2 自分の感情を許す

 ここで、悩みの根本がわかったら、それは傷なので、
 過去に受けた苦痛や悲しみがそこには眠っています。

 この苦痛や悲しみを、思いっきり自分自身に感じさせてあげることが必要です。

 なぜかというと、「それは自分のせいだから」「これぐらい大したことない」などで、感情を抑圧していることがほとんどだからです。

 その抑圧は、苦しみの大きさによって生み出されているわけですが。
 心の防衛反応というやつです。

 苦しみの理由(原因)を自分に帰することで、この苦しみはコントロールできるものだと思ったり、
 苦しみ自体を自分自身で軽視したりします。
 そういうトラウマティックな経験自体の記憶がやけに断片的なのも、防衛反応です。

 そしてその防衛反応から来る傷の自己責任化や軽視が、他人の言葉によって強化されてしまい、さらに悲しんだり怒ったり叫んだりできなくなる、ということも、生きていると積み重なります。

 でも。

 心に傷を負わせられた当初は思えなかった、「自分のせいではない」「ものすごく大したことだ」「自分は怒っていい、悲しんでいい、叫んでいい、何をしてもいい」と自分に言ってあげながら、思い切り、泣いたり暴れたり叫んだりさせてあげてください。

 他人が許さなくても、自分で許してください。

 この時、同情や共感は、自分自身以外には一雫も注がなくていいです。

 思い切り暴れてください。

 暴れるのが癖になっている人は、泣いてみてください。

 人を糾弾しなくても、あなたには泣く権利が死ぬほどあります。

2.5 伝える

 こうして解放できた感情を、あなたが一番伝えたいと思う人に、思い切って伝えてください。

 自分一人で勇気が出なければ、親しい人や専門家(カウンセラー、セラピスト、お医者さん)の助けを借りながらで全く構いません。

 親や兄弟や昔親しかった人などへの恨みなら、思いっきり口汚く罵りましょう。

 助けてほしいなら、一切の遠慮を挟まず「助けて!!!!」と叫んでみましょう。

 ……えっと、もう例が出てきません。
 たぶん、わたしの中に眠っていた本音(言えなかった感情)は、この2つに尽きるからかもしれません。
 今後思いつくことがあったら追記します。

 伝え方も、あなたが一番得意とする方法で構いません。

 テキストメッセージでも、電話でも、ボイスメッセージでも、手紙でも、会って話すのでも。

4 伝えたらどうなるのか?

 おそらく、何かが起こります。
「自分は無力じゃなかったんだ」と思えるようなことが。

 わたしは、ずっと謝ってくれなかった父親が謝ってくれて、なんか、「わたしって無力じゃなかったんだ、わたしの感情には力があったんだ」って、思えるようになりました。
 それまではずっと、「わたしが泣こうが喚こうが意味がない、力が無いと。力が欲しい」って思ってたんですけど、
 感情だって力だったんですね。感情を伝えることは力だった。

「それでも、どうにもならなかった……」という場合、
 もしかすると、……怪しくなってしまってアレなのですが、もしかすると先述の生きるために身につけた癖が抜けきっていなかったり、遠慮してしまったりしているのかもしれません。

 でもまずは、そんな自分を絶対に責めないでください。

 あなたは自分のために戦ったんです。

 その勇気はとんでもないものでしょう。死ぬ覚悟レベルでしょう。

 その勇気を出した自分のことを、めちゃくちゃに、デロデロに褒めてあげてください。

 それで、思い切り休んで(休む=何もできない自分を許す。次項5参照)、エネルギーが回復して、また挑戦したくなったら挑戦する、ぐらいに考えていきましょう。

※もっとも、関わるだけで危険という相手もいると思います。
 言うまでもないですが、そんな相手にはこの「伝える」をする必要はありません。多分、あなたもその人に本音を聞いてほしいとは思っていないですよね、だって危険な人だもん。
 危険なその人に何かを聞いてほしいというよりは、その人から助けてほしいという思いを、誰かに言いたい、というケースが多いんじゃないかと推測します。
 身の安全はまず第一です!

Point 「何かが起こる」

 この「何かが起こる」こそが、レベルアップの瞬間です。おめでとうございます!

 レベルアップ、つまり成長なので、自分にできなかったことができるようになる--本当のことを言うと「(傷のせいで)できないと思い込んでいたことが、本当はできるんだと思い出す」ことになります。

 わたしの例は上の項目で書いちゃったのでそれ参照です。
「自分は無力ではないし、人に助けてもらえる(人は自分を助けてくれる、親でさえ助けてくれる)」という認識を取り戻し、わたしはレベルアップしたわけです。

5 休む

 当たり前ですがこんなことをした後はめちゃくちゃ疲れます。

 なので、思い切り休みましょう。

 休むとはすなわち、「できない自分を無限に許す」ことだと、宵部式セラピー法では考えます。

 家事できなくても許す、
 勉強できなくても許す、
 ベッドから出られなくても許す、
 風呂に入れなくても許す、
 ゲームかYouTube見るかしかやってなくても許す、
 歯磨きできなくても許す、
 アイスばっか食ってても許す、
 人と関われなくても許す、
 人様に顔向けできない有様でも許す、
 許すどころか自分サイコー!!!!(これは思えなくてもいい、思えない自分も許す)

 っていう時間を存分に楽しんでください。

 休み方についてはこの記事でちょっと触れてます↓

 わたしは「ゴミクズみたいな自分を許す」っていう言葉が気に入ってるので、「休む=ゴミクズライフを満喫する」という言い回しをします。

 ちょっと楽しそうでしょ?

6 楽しいことやって、我慢しない生活に戻る。

 思う存分休んで回復してきても、「許す」は永久継続です。

 我慢しない、やりたくないことやらない、楽しいことやほっとすることをやる。
 そんな日常にゆるやかに戻っていきます。

 以上が、わたしがいつもやってるセルフケアでした。

 こうしてまとめて書くのは初めてでしたが、いかがでしたか?

 そういうわけで、もし今モヤモヤしていることがあるなら、

 そのモヤモヤはいったいどの傷に引っかかっているのだろう? という謎解きを始めてみませんか?

(わたしはこの謎解きが好きな変態なので、こんな記事を書きました。でも、謎解いて、自分の世界が広がるの、めっちゃ面白いよ!)

 

 

ヒーローって言葉に悲哀を感じる

ヒーローって言葉に悲哀を感じる

どうしてだろう

ヒーローになりたいけどなれなかったお話をよく聞くからだからだろうか
わたしにはヒーローが別にいないからだろうか

わたしの理想はお姫様で神秘の力を持っていて自分たちで星を守れるし優雅で高貴なセーラー戦士たちなので
ヒーローには別に憧れなかった

遊城十代が好きだけど
遊城十代には悪いが
わたしはあのキャラのヒーローな面やヒーローに憧れている面よりも
風の向くまま 気の向くまま な、旅人な面に惚れているので

そうだな

ヒーローというものの重圧に倒れてしまうとか
ヒーローになろうとしてなれなくて涙が溢れて
っていう話をよく聞くからかも

その健気さに胸が詰まってしまう
痛々しいと感じてしまうから

あとは努力とか挫けないこととヒーローは密接な結びつきがあると思うけど
わたしは努力や挫けないことができない人間だと自分のことをそう思い込んできたしそう言われてきたから
ヒーローの話を聞くのも嫌になったのかもしれない

わたしはさ辛いことやしんどいこと、つまり「試練」を「乗り越える」ことには別にエクスタシーを感じないからさ
あえてカタルシスじゃなくてエクスタシーと言ったけど
自分が生きる上でもそうだし、何かお話を読む時もそう

でもお話っていうのはそういう「試練→乗り越える」の部分がなきゃそりゃ盛り上がらないから、嫌ってわけでもないけどそんなに燃えることもなく、「まーそうなるわな」という感じで読んでる

そういう山場のシーンで「あーここでこのキャラに対する感情をこう描くのか、めっちゃグッとくるな」とかはあるんだけど

試練を乗り越える姿にはあんまり感情移入ができないし、したらしんどくて読めなくなってしまう

「なんでこんなしんどい思いしてそれを乗り越えなきゃいけないの? やめよーよもっと良い方法あるよ」ってなる。わたしの生き方は基本それだから

つまり必死に乗り越えようとしてる登場人物と考え方が違うので冷めた目線で見てしまう

非効率的なことしてんな、楽に、自分が1番好きで得意なやり方だけをやって結果出せば良いじゃん と

だから遊戯王は好きなのかもしれない

ライバルキャラも主人公たちも、もちろん葛藤を抱えてるキャラもいるけど、ゲームしてるとき楽しそうだから(まあ命がけの闇のゲームが「楽しい」みたいな、割と狂った意味での「楽しい」だけどさあ、いいじゃん清々しくて。歯を食いしばってるよりそっちの方がすごい好き)。
アニメではもっとストレートで、どのシリーズも(命懸けのものはともかく、でも時々命懸けであっても)殆どのキャラが「デュエルは楽しい」って言う
だから好きなんだろうな

あとは

ヒーローは孤独だから

個人としてではなくヒーローとしての力を頼られて
本当は寂しがっている

そういうイメージもある

少年の強がりというか

そうだね、わたしにとってヒーローは強がりの象徴なんだな

だから痛々しく感じるし、悲哀を感じるんだ

「弱虫なぼくだけど、ヒーローになりたい」って。

でもさ……
でもさ、
わたしはじゃあ君が弱虫なのは悪いことなの?って言いたくなっちゃうんだけどなあ。

カッコよくなりたいっていうのは素敵な願いだと思うよ、
でも、
「弱い」ことは、カッコ悪いことなの?

わたしはそうは思わない。

……うん、やっぱりわたしは遊戯王が好きだな。

だって武藤遊戯(表遊戯。物腰の柔らかい、普通の高校生の方)は、弱くて優しいまま、死ぬほど強くなるんだもん。
強くなるし、もともと強い(8年だっけ?かけてパズル解くとか普通にやばいしね)。

でも、いじめられっ子で、自分のことを弱いとも思っている。
闇遊戯に守ってもらってた面もある。

でも!
遊戯は、自分だけの強さを持っているし、
最終的にそれを磨き上げて、ものすんごく強くなった。
それは闇遊戯をはじめ、色んな出会いや別れのおかげでもあるけど、
遊戯自身の芯の強さもあると思う。

泰然自若としていて、物凄く心が広くて、でも自分の大切なものを脅かす存在は一切の容赦をせずに叩き潰す。

その、
自分の弱さから逃げて/逃げるために強くなったわけじゃないところとか、
何か役割に自分を当てはめていないところとか(遊戯は闇遊戯のような王様ではないし、遊城十代のようなヒーローという憧れもないし、不動遊星のようなみんなが期待している英雄や救世主っていうのとも違う。武藤遊戯は武藤遊戯。肩書きはないのに力を持っている)、
一切背伸びをしていないのにめちゃくちゃ強いっていうところに、
すっっっっごく憧れるし、すっっっっっごく好き。

だからやっぱり
「ヒーロー」には、「弱くちゃいけない」を感じて、ちょっと悲しくなっちゃう。

(遊城十代のヒーローへの憧れは弱さへの嫌悪ではないので、ちょっと別の話です。ただ無邪気な憧れで色々できてしまったからこそ問題が起きてとんでもない鬱展開になるって話なのですが、ここでは逸れるので割愛)

「弱い自分が嫌い」っていうのが根本にあると思うから。

……わたしはね、
やっぱりどうしても「自分が嫌いだから変えようと頑張る」ことが良いことだとは思えないよ。

自分を嫌いなまま、走らないでよ、お願いだから、って思うんだ。

「自分のここが嫌い」「〇〇な自分が嫌い」はさ、傷だと思うんだ。

その傷を看たり手当てしたり、手当てを頼んだりしないまま、走らないでよ、血が出てるじゃん、って思う。

自分のことを嫌いになってしまうって、とんでもない大事でさ。

ぜったい深い悲しみや絶望がそこにはギュッと圧縮されて入ってて。
その毒をまず吸い出して、傷の手当てをしなきゃいけない。
自己嫌悪や自己否定という毒を。

手当てについては、最近やっと言葉にできるようになったんだけど、

1.自分がそのとき感じた感情を、検閲せずに、「こんなこと思って何になるの」とかも言わずに、思い切り思わせてあげて、
2.思う存分それをしたら、本当はしたかったこと、したくなかったこと、言いたかったことを掴んであげて、
3.それを自分にやらせてあげる。やらなくていいよって、やりたくないことをやらない自分に許可を出して、他人がなんと言おうともNOを言う。本当に言いたかった人に、言葉を選ばず言いたいだけ言いたいように言わせてあげる。
Ex.これが全部終わったら、めっちゃエネルギー使って疲れてると思うから、めちゃくちゃ休む。休むというのは具体的には、何もせず、生産的なことを何もせず、人間としてやるべきことも何もしないぐらいの、ゴミクズみたいな自分すらもひたすらに許してあげる。永遠に、無限に、許してあげる。

これが、手当てなんじゃないかな。
これについてはまたいつかちゃんとブログで書くかも。

だからね……

自分が嫌いじゃなくてヒーローになったヒーローに、わたしはいつか、何かの作品か、現実でもそう思えるような人に出会ってみたら、また少しイメージは変わるのかもね。

弱くちゃダメだからってことでヒーローを目指さないでほしいいいいいい

そんな感じです。

委任しないでほしい 一部であっても。

「あなたはわたしを認めてくれるよね」、
「わかってくれるよね」、

 が、

 すごく、

 重い。

 その人の信頼を裏切りたくない、再び人間に対しての絶望を経験させたくないという気持ちと

 でもこの世には

「無限の許し」は、
 自分自身の中にしか存在しないから

 他人に無限の許しを求めることは
 不可能だし
 してはいけないこと

 一番言いたいことを、一番言いたい人に言えれば、する必要もなくなること

 それに

 わたしが「無限に許してくれる人」をやってしまったら

 その人は

 自分で自分を認めること
 許すこと
 を

 きっと辞めてしまう

 サボってしまう、って言うのかな。

「あの人がわかってくれるから」
 を、安心材料にする

 でも

 人の心のそんな、根幹の拠り所になることが
 重くないわけはないし

 そうやって人の心の根幹を握ったことにより
 自分が権力を持ったような気になって暴走し始める人間もいる。

 お母さんか、もしくは主君になったような気持ちになると思う。

 わたしは ” お母さん ” のほうだった。

 わたしは高3のとき、ずっと不安でずっと未来の幸せのために今頑張らなきゃっていう強迫観念に囚われて、でも多分何かが叶ってもまた別の目標を見つけてそれを逃したら不幸と絶望の底に沈むだろうからそうならないようにめっちゃ頑張らなきゃ頑張らなきゃ、一分一秒も無駄にできない……! っていう強迫観念まみれの不幸な生き方が嫌で、楽になれる方法を必死に図書館の心や生き方に関する本を読み漁って探して、えっちらおっちら実践してきて、だから、「自分で自分の気持ちを大切にする」ことは、少しはできるようになったと思う。
 楽になれる方法=自分の気持ちを自分自身が大切にしてあげること、って、わたしが「好き!」ってなったどの本にも書いてあったからさ。

 だから…

 簡単じゃないだろうけどでも…

 向き不向きも無く、生まれや育ちで決まるできる/できないもなく、ちょっとずつなら、できると思うんだ……

 セルフケア。

 セルフペアレンティング。
(self-parenting, 自分が自分の親になってあげること。グロリア・スタイネムが言ってた。自尊心や自分への愛を取り戻すために大切なこと)

 いきなり山を登るのは無理でも、目の前の一歩を踏み出してみるだけでいきなり何かが大きく変わってしまうことはないし。だから恐れることもない。

 わたしは貴方の一番深いところにある穴を埋めてあげることはできない。

 だってそこは、貴方自身が埋めるために開いているから。

 ちょっとずつ、自分の大切なもの、大好きなもの、もう失いたくないもので埋めていってほしい。
 それは実際に「もの」かもしれないし、感情かもしれないし、体験や感覚かもしれない。
 そこに「ひと」が入ることはない。
 でも、「その人といる時の、自分の好きな感情・体験・感覚」はいくらでも入れられる。じゃんじゃん入れてほしい。

 その穴を

 自分で見てあげてほしいな……

 人に売り渡したらいつか傷ついてしまうけど、
 自分で埋めたら、すごく豊かな気持ちになれるよ。

(具体的には、わたしは「自分は無力だ」と思っていて、そんな自分のまま生きていくんならもう生きていけないじゃん苦しくて理不尽で怖いことばっかりじゃん人生!!! って思ってたけど、自分で自分を満たせるようになったら、「わたしには力があるんだな」って思えるようになってきたよ。そう言ってくれる人も近くにいてくれるようになった)

 委任しないでほしい。

 貴方の本心やインナーチャイルドはそれを望んでいないんじゃないかな……