神話なき世界

 まだ読めてないけど、中沢新一『ポケモンの神話学』という本を注文した。ずっと読みたかった本。

 資本主義とか新自由主義とか、規律社会とか管理社会とか、アサイラムとか、そういうことが関係しているんじゃないかってわたしは睨んでいるけど、
 ここ数十年の子どもには神話的経験が許されていないんじゃないかって心配になる。
 少なくとも、わたしが生きて見てきた22年(もうすぐ22年)の間に、子どもができる経験はどんどん狭まっているような気がして心配。

 一昨年、映画をめっちゃ見る集中講義を取った時に、ある1日のカリキュラムとして「神話・儀礼・子どもの世界」というテーマでアルベール・ラモリス『白い馬』『赤い風船』、それからロバート・J・フラハティ『ルイジアナ物語』を見た。
 どの作品も素晴らしくてお気に入りになった。いつか絶対DVD買いたい! わたしは気に入ったものは手元に収集しておかないと気が済まない独占欲気質なのである!!!!!

 話を戻して。
 そこで思ったのは、子どもにとっての神話的経験というのは、「ひとりでできるもん」なのではないか、と、当時のわたしは考察したのだった。
 これは神話的経験というだけでなく、子どもから大人になるためのイニシエーション(通過儀礼)という言葉も、同じ範囲をカバーしている言葉な気がする。

 つまり、大人の手を借りず(ときには大人と敵対すらして)、自分の目的を果たさなければならない経験。そしてその目的は、与えられたもののこともあれば、その目的自体が大人と対立していることもある。

 ということは、「通過儀礼」は大人から与えられたミッションをこなすことで、大人から「君は大人だ」と認められることなのかもしれず、でもその過程では「ひとりでできるもん」が発生するので、その部分は神話的経験ってわたしは言いたくなる。

 でもわたしが惹かれる神話的経験、「ひとりでできるもん」とは、とにかく、
「子どもが、大人の感知しないところで、自分の懐に抱えておけるような、自分だけの経験をすること」なのだ。

 こうした経験は、子どもたち自身をひとりの自我を持った人間として成長させる大きな基盤になる。と思う。

 まあもちろん、広い目で見ると、自分の経験することは自分にしか経験できないので、何だって神話的経験みたいな、「自分にしか感じられないもの」を得るきっかけになるだろうけど。

 ただ、そこに大人たちの監視的な目が入らないか(特にその子ども当人の意識の中に)どうかが、かなり重要だと思うのだ。

 自分の行動に自分で責任を取らなければならず、自分で考えて行動しなければならない、でもその代わり、とても自由で、その自由さが心細いような経験。
 その中で、子どもは責任や自由や勇気や自尊心を学ぶのだと思う。

 でも、当然そんな野放図な場所では、子ども同士のトラブルも起きる。
 そして子ども同士のトラブルだからといって、その中には、決して軽視されるべきものではなく、ちゃんとした仲裁や審判を大人が下さなければいけないものもある。

 でもだからといって、全部監視するの?

 それは、自分というものを持つことに怯える子どもがたくさん生まれるだけなんじゃないかって、それがわたしはすごく心配だ。
 周りの顔色を伺う、自分を押し殺してしまう、そういうのはもったいないし、悲しい。

 というわけで、子どもにはひとりでできるもん的体験が必要だと思うのだが、今はかつてそういう経験の舞台となっていた気がする里山や森みたいなものはどんどん切り崩されているし、当然秘密基地を作ることも禁止されているし(っていうかそんなことができそうな場所もそもそもなかったりするし)、秘密にさせてもらえることがあんまりない。
 ということで、子どもが神話的経験をする場所は、ゲームの中になったんじゃないかなあ、と思う。
 そういうわけで、『ポケモンの神話学』がめちゃくちゃ楽しみだ!!!!

 自分で考えて自分で選択し、自分の冒険を進めていくのがゲームなんだから、そここそが自分だけの体験の場だ。
 しかもゲームの世界に閉じられていて現実世界への影響力はそうでもないので安全に冒険できる……安全に冒険できるように作られているゲームも多いと信じたい。
(もちろん例外も結構あるから気をつけないといけないけど。ソーシャルっぽい要素が強いやつは現実世界そのもののトラブルを起こすことがある。某FPSとかね)
 まあ、とはいえその「安全」を追求しすぎると、とっても管理的になってしまうから良くないんだよなあ……

 最近はそういうこと言う人いなくなったと思うけど、まだ生き残ってるとも思うから言っとくけど、「ゲームで何をクリアしても、現実世界には何も影響しないからゲームは無駄」みたいなクソみたいなことを言う頭の硬い人がたまにいるが、
 ゲームで何かクリアしたこと自体は現実世界の役に立たないのかもしれないけど、ゲームを通して感じたことや得た成功経験、自分で考えて問題を解決できたこと、っていうのは、むしろ子どものうちだからこそ感じておいて損はないことだと思うし、
 っていうか誰のせいでそういうものを子どもたちがゲームの中でしか感じられなくなっちゃってるのか胸に手を当てて考えた方がいいと思いますね。

 ……ということを考えながら、もういい加減後がないなか卒制のことを唸っています。
 あああああああ

 神話的経験、柔軟でしなやかで強い心を作るためにも必要だと思うんだよな。
 夢や希望を見る力とも繋がってると思う。

 もしかすると、この世にたくさんある「大人になりたくない」の中で、その幾らかを占めてるのは、「あの時感じた夢や希望を失いたくない」なんじゃないかな。

 

【絶】な自分を諦めない。

 子宮推命は四柱推命の流派の一つ--だと思ってるんだけど、
 四柱推命には十二運勢という、西洋占星術でいうところの十二星座みたいな、個性やこの世に持って生まれてきた役割を表す星がある。

わたしの簡易命式表↑ 超恥ずかしいけど乗っけてみる。

【絶】【健禄】【帝旺】っていうのが、わたしが持ってる十二運勢ね。
 わたしはこの三つの星の性質を兼ね備えてるんだけど。

【絶】っていうのは、状態で言うと死んであの世でふよふよしている魂みたいなことらしくて、不定形なんだって。
 だからこの星を持っている人は、めちゃくちゃ気まぐれだったり、情緒不安定だったりする。変幻自在な天才、みたいな個性として現れる人もいれば、感情の振り幅が大きい激情家でもある。
 とにかく掴みどころがなく、「これ」という決まった形がなく、いつも動き回っていて、人を振り回す、形を持たないエネルギーそのものの状態。

 ……って、最近ぐだぐだ悩んで書いたブログ↓もさ、自分の中のこういう、不安定すぎる部分に自分が一番振り回されてるんですけどー!!!! そして人も振り回したくないから怖いんですけどーーーー!!!!! っていう愚痴だったんだよね。

 あとさ、だから、自分でも自分がコントロールなんてできるわけないししようとすればその途端に窮屈で仕方なくなるのが分かっているから、
 夢を一歩ずつ着実に目指すのとか、(「コツコツと」ってやつ)
 新しいことを初めてみるのとか、
 それに対するハードルがとんでもなく高いんだ、ってことがわかった。

 それは、この記事↓でも書いた假屋舞さんの「子宮推命で知るわたしのこと」の自立心についての講座がきっかけで、よくわかった。

 大きな夢を叶えるためにはさ、そりゃ、小さな夢、それも「これってちょっとできそうにないかも」みたいなことを成功させていって、自信を積み上げていくしかない、って、やっと目が覚めたっていうか。
 実際めちゃくちゃ大きな夢をたくさん叶えている假屋舞さんの言葉なら、すっと入ってきたの笑

 今まではね、わたし、大きな夢を思い描いても、そこに至るまでの道のりで無理をしすぎて疲れてしまって、夢を追いかけることが辛い、ってことが多かったから、「無理しない」に舵を切ったんだけど、そうしたらどう頑張っていいかわかんなくなってた。

 成功経験は積んでないわけじゃないけど、大体勝算のあることばかりやって、予想通り成功してただけだったから、あんまり、自信がつくような経験ってなくて。

 かといって、自信がつくようなことしようと思ったら、めっちゃ無理しなきゃいけないって思ってたんだ。

 到底そんなことできるわけないって、いつからか諦めようとしちゃってた。

 でもさ、わたしは【絶】--気まぐれで、不定形で、自分が一番困るぐらい振り幅が大きくて、どこに転がってっちゃうのか全然自分でもわかんない、そんな自分だから、こつこつ夢を目指すなんて無理なんだ、なんて、諦めるんじゃなくて。
 かといって、そんな気まぐれで、約束が嫌いで、予測不能な自分を責めるわけでもなくて。

 上手く付き合いながら、自分の成し遂げたいことを成し遂げられたら、それは、とんでもない成功経験になると思う。

 そしてわたしは、これからは、その「わたしなりのこつこつ」を探していくときなんだ。

「わたしなりのこつこつ」は、夢と共に生きること。

 

 とはいえ、そもそもわたしは「本腰入れて、やるぞ!!!!!」みたいに意気込まなくても、テストに例えたら80点ぐらいは(よっぽど苦手な科目じゃない限り)取れる人間だった。
 だからこそ、「本腰入れて、やるぞ!!!!」という状況を重く考えすぎている説は非常にある。
 積み重ねるったって、毎日100点取るつもりでいたら死ぬじゃん。
 80点や、60点や、40点を積み重ねれば良いんだよね。
 ついつい、100点取れなきゃダメ!!!!って思いがちだった。
 そりゃ、疲れてやりたくなくなっちゃうよなぁ。

 あとは、【絶】らしく、集中力にものすごい波があり、集中できている時の作業効率を基準に考えてしまうところがあるので、「今日はなんかちょっと集中できないなぁ……」っていうときに必要以上に落ち込むっていうのがあります。これね、よくないよな。
 わたしは特に高校までの勉強では「あんまり勉強しなくても勉強できる天才タイプ」みたいな感じだったんだけど(自分で言ってて超恥ずかしい)、それはだいたいこの集中の波が来てる時にすごい頭に入るからで、その波の時しか勉強しないから結果的にそうなるだけなんです。
 この波は、これからもサーフィンして行かないといけないやつです。
 波が高い時も、低い時も、自分の夢とか叶えたいことと共に過ごせると良いよなあ。

 わたしは自分のことを努力できないって思いがちなんですが、それも多分、わたしの中に「あの集中の波が来てる状態の時の作業効率出せない時は何もしてないのと同じ」っていう価値観があるからなんだよな。
 でも、集中の波ってわたしが頑張って入れるものでもないっていうのが、実際のところで。
 何の拍子に大きな気づきがあって物事が前に進むかは、こればっかりは、予測なんてできない。
 予測できないから不安になって、イライラして、思い通りに行かない自分を責めちゃうんだけど。
 努力自体は、多分常にしてるんだよな。
 わたしの中では「あの作業効率出せなきゃ何もしてないのと同じ」という、高すぎる基準があるだけで。
 ……まあーあと、正直努力しただけじゃしょうがないじゃんって思ってるからってのもあるし。
 いい加減、「こんなに努力したんだからわたしは大丈夫!」っていうタイプの自信も持てるようになった方がいいのかもしれない。

 波がいつやってくるか、気づきがいつやってくるかなんて分からないから、10点、20点でもいいから積み重ねていくこと。
 ……でもそれは、多分呼吸みたいに自然とわたしはやってることでもあって。
 え、じゃあ、それを評価して、見えるようにしてあげることが大事、なのかな。
 自分の地道な努力を一個一個認めてあげて、果報を待つこと、ってことなのか。

 そうやって、諦めず、かといって自分に鞭をうたず、一歩一歩踏み締めた結果起きる何かを受け止めること。
 うん、しばらくはなんか、そうやってやってみたいな。

 波をコントロールしようとせず、身を任せ、目の前のことを一個ずつ淡々と。
 踏み締めた足跡のムラも、許してあげる。

 

 わたしは無駄なことが嫌いな効率厨なので、高校までの学校の勉強(やればそこそこ面白いけど好きかって言われるとうーん別に……)は、一回で、できるだけ無駄な時間使わずできるように集中の波が来てる時だけやってたけど(授業内容ほぼ全部覚えてる→テスト前教科書パラパラして思い出す→忘れてたところはああこうだったかって思い出しとく→以上)、
 今わたしがやってることってどれも好きなことだから、無駄とか関係なく、それと一緒にあることを楽しめる気がするし、楽しんでも一向にかまわんわけよね。効率最優先する理由が、よく考えたら全然なかったわ。

 向かいたい方向のことを考えたらそりゃ、停滞なのかもしれないことも、楽しいもんね。
 例えば卒制でずっと迷っていたって、そのためにしてた勉強って何かの身にはなってる気がするっていうか、新しいことを知れるという快楽はあるわけだもん。卒制じゃなくても他のネタにはなりそうだし。
 みたいな。
 そもそもそれを勉強すること自体は面白いからね(一度にいっぱいやんなきゃ!とか思わなければ)。
 あと、そうやって締め切りあることで行き詰まった時にどうしたらいいのかってことも、現在進行形で学べてるし。良い経験、楽しい思い出なんだよな。とてもドキドキするけどさ。

 その行動自体を好きになれれば、波があっても、良い気持ちで続けられる……のかもしれない。

  しかしまあ、集中の波の低い部分にいるとき、自分を嫌いにならないことが、とりあえず差し当たっての課題だな……

 

 何度も言うけど、わたしがわたしに一番振り回されてる。
 でも、もうそんなわたしのこと、叱りつけたりはしないし、どうせあんたには無理って言ったりもしないよ。

 波に寄り添った続け方を知りたい。
「あれ、今日は気分が乗らない? じゃあこうしてみよっか」
 っていう工夫を、いーーーーーっぱい身につけていきたいな。

ジョナサン・スターン『聞こえくる過去』講読メモ

ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』インスクリプト 2015年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

ハロー!

・音響再生産技術以前ーー声や音楽としての音 
 以後ーー科学的現象としての音
 →音が科学的にどのようなものであるか解明の対象になるまでは、声や音楽が音を理解するためのメタファーであり、基準だった

・現象学・精神分析学の声の特権化
 脱構築における声の特権化の否定
 →ちょっと気になる。

・技術は、特定の実践と関係の所産でしかなく、神格化できるものではないし、技術それ自体などというものはなく、技術を取り巻く文化や社会や人々の営みとの関係こそが重要である
 →うん。

・音とは、聴取とは、社会の中で構築された人間の感覚でしかないので、ネットワークごと考える必要がある 
 ましてや、音は人間の感覚(社会によって醸成された感覚)の先や外にある超越的なものである、という考え方は神学的な偏見であり、もってのほかである
 →日本の言霊信仰とこの視聴覚連祷は重ねて論じても面白いかも? 日本の言霊信仰についての資料が必要だケド……

・私的空間としての聴覚空間 
 音を聴く技術は、個人的な空間の中でしか養われなかった
 →音を集中的に聴くという行為は、人間を個/孤にする
 →サバイバルっぽい。

・アクースマティックな理解=「録音技術は音を発生源から切り離した」は、「透明な録音技術」という産業的プロジェクトであり、コマーシャル 
対面と同等だということにするための 
 録音は客観的じゃなく、再生産されるときに「オリジナル」「原音」「らしく聴こえる」ための演奏方法を生み出さなければならないほど組織的に生み出された/生み出されている
 →確かにいいいいいい。これは小説の「透明な言葉」にも似ているね。
  透明じゃないけど、透明だということにしたくて作り出す音……

・録音=死体の防腐技術、過去の永続的保存というプロジェクト
 空間の関係を時間の関係として理解する、「近代」の帝国主義・植民地主義
 →録音=過去の保存という夢と、その夢が初めて語られた時代の闇
  一方的かつ的外れなノスタルジーによる音や文化の搾取が行われていた……
 →「懐かしい過去、輝かしい過去、愛すべき過去」差別と搾取ーー勝手な美化

・音響再生産の歴史は、音を操作、変容、形成しようとする試みの歴史
 →なぜわたしは音を操作・変容・形成させたいのか
  もとは声と音楽という「メタファー」への愛着からだった
  今もそうだ
  言霊信仰に突き動かされてる部分もある
  語りにも興味あるからだ
  弾き語りのような

  語りの集中的聴取
  閉じられた歌い語りが、神話的経験を開く
  集中的聴取であるから、コミュニケーションではなく/「透明な音」を使った歌い語りであるから、サバイバルな身体感覚(聴覚→全身の感覚)を蘇らせ/個人の中に経験を形作る
  神話の資料が必要だけど。

卒制わかんねええええええええ

 最近すっごいブログのキレが悪い。

 その理由はすでに超分かっているんだけど、卒制がめっちゃ悩ましいからだ。

 いくら学校で制作する作品だからといって、先生に突っ込まれない作品だとか褒めてもらえる作品だとかを作ったってしょうがないってことはわかってる。
 でも、じゃあそっから、わたしは何がしたいのか?ってことの答えが全然出ない。
 全然出ないから、全然手が動かない。

 何も視えない。

 大学という場所に対して、わたしが少なからず近寄り難さを感じているからっていうのもあるだろう。だから萎縮しているのかもしれない。
 イマジネーションだけで作ったってしょうがない場所なんじゃないかと、思ったりして。

 でも、何か、何かあるはずなのに。
 霊感と知性を兼ね備えた点が、どこかにあるはずなんだけど。
 どうやったらその点が視えるのか、そこに辿り着けるのか、全然わからない。

 あるいは、肚が決まっていないのかもしれない。
 いや、これがでかいのかな。

 何かを作って、「これがわたしの作品です」と言い切るには、覚悟が必要だ。
 その覚悟がなければ、選択の連続である作品を作ることは、遅々として進まない。
 優柔不断とは、作品制作に行き詰まることと直結する。

 今のわたしには、覚悟が足りてない。
 でも、卒制の覚悟って一体何なんだろうか。

 萎縮した作品は作りたくない。

 場を荒らしてしまうんじゃないかとか、そういうことに怯えているけど、場を荒らさない作品なんてそれこそ誰も求めないような気もする。

 やっぱり、100%自分色の世界を作っていくしかない。

 書かないとな。

 良い加減覚悟決めないと。

 最近迷って揺らいでるけど、身体とか現実的な行動の方は、いろいろ動いたり迷ったりしてるので、ブログにまたキレが戻る時まで、そんな感じです。

 感情のままに、豊かな感情のままに、ブログに想いを綴れてた時に(↓この辺りの記事)、また戻れると思うんだ、卒制進めたら。
 それまではちょっと、のんびりもったり。

他人に対してクッッッッソ拗ねていたわたし。

 このブログを読んできてくれた人ならわかると思うんだけど、わたしはとっても尖っていて自分本位です。

 というより、合わせようとしてもなんか突き抜けちゃう変人のくせに、まわりに頑張って合わせようとし続けていて、その徒労のせいで、人という存在に対して基本的に恨みというか、関わりたくないものというか、しんどいものみたいなイメージがあって、それで必要以上に突っぱねているんだとわかりました。
 人に素直に応援してもらえない拗ね女、それが今のわたしだ。

 假屋舞さんの「子宮推命で知るわたしのこと」の第一回講座を受けてみました。
 今日はわたしも比肩・劫財両方持っている「自立心」について。

 わたしは昔から、「わたしの気力・体力・時間を返せよ!!!!!!」みたいな怒りを抱くことが多くて、それは学校生活においてよくあったんだけど、その謎が一気に解けたというか、そういう人わたしだけじゃないんだって分かってまずすごくスッキリした。

 自立心のある人は、独占欲がすごく強いし、自分中心、自分の話をしたいし聞いてほしい、自分のことをいつも考えているし悩みと言えば自分のこと、だから、
「わたしの時間」「わたしの労力」「わたしのお金」「わたしの体力」を自分以外のために使ったり使わされたりすると、殺意クラスの恨みを抱くって。
 まんまわたしのことなんだけど〜〜〜〜!!!!!!

 でも一方で、わたしは=劫財を持っている人は計算高い一面もあるから、自分が認めてないヤツの言うことはぜっっっっっっっっったいに聞かないけど、「こうしとけば後々楽だな」とか「この人には認められたい!!!!」とかもあったりして、そこには注意が必要、らしくて。

 わたしはその計算高さによって、先生からの信頼を得ることで、同級生と話が合わなくても学校生活詰まないように頑張ってたし、だから本当は「勉強しろって叩き込まれる会(昨日のブログ↓参照。定期的にあった進学校によくある儀式)」とかまさに「わたしの時間・労力を他人のために使わされる時間」で、殺したいぐらい嫌いだったんだけど、波風立てると本当に学校生活に居場所なくなってやばいからって突き抜けることもできなくて、しんどかったんだなーーーーーって!!!!!!

 そういうふうに、勝手に空気読んでうまく立ち回ろうとしちゃうから、やっぱり人という存在と関わって自分の時間・自分の体力・自分の気力を独占するのってすっっっっごい難しくてさ。

 でも多分、つまりだから、そういう自分本位にやり抜くことができてこなかった今までの人生の中で、他人という存在への期待値がドン底通り越してマイナス突き抜けてるんだなーーーーって。
 他人=邪魔、ぐらい思ってるんだなーーーーー、めっちゃ拗らせてるなーーーーー!!!!!

 こっからどうしたらいいのかはまだよくわかんないけど、とりあえず分かれてよかった。
 これからは人と一緒にいても、自分の時間・気力・体力への独占欲は貫いていかないとなあ。
 そもそも、自分のやりたいことしかやらないようにしていかなくては。
 詰むことを恐れず突き抜けないと、殺意を持っちゃう危険分子だということを肝に銘じておこう。

 人のこと邪魔だって思わない自分には、どうやったらなれるんだろ。

元気な時に自分に厳しくしちゃう話を続けています。

 なんかね、落ち込んでる時……というよりピカピカ元気!ってわけじゃないとき、自分の底から「あいしてほしい」「あいされたかった」って言葉が湧いてくることがあって。
 言うの恥ずかしいんだけど!!!!!

 それは自分の小さい頃の声でそう聞こえることもあれば、自分の中にいる自分のお話の登場人物……というかほぼ固定なんだけど、一人の主人公の声で聞こえることもある。
 その主人公は少年兵なんだけど、ずっと周りから浮いてしまっていて、その原因は自分にあるって思い込んでいて(実際、非凡な才能を持っていて)、じゃあ自分の能力を使ってみんなのために働けばそこにいてもいいのかなって思って頑張るんだけど、自分の心と周囲が自分に求めていることの間で板挟みになりがちな子なのね。

 まあ、わたしに似てるんだけど、わたしの場合「周囲が自分に求めてる(気がする)こと」って、自分のメンタルの具合が悪ければ悪いほど実際と違うっぽい方向に流れていっちゃうからさ。
 ほんとうは周囲がわたしに求めてることなんて、あるとするなら「笑顔が見たかった」とかその辺だと思うんだよ。これは親にめっちゃ言われ続けてた。わたしは何とかして頑張らなきゃって思ってたんだけど、親は「あなたの笑顔が見たい」って思い続けてくれてただけだったんだって。なぁんだ。

 わたしがわたしを追い立ててるのはわかってる。
 わたしの自立心とか、倫理観とかが。
 そこにわたしはプライド持ってるけど、それはそこまで悪いプライドじゃないんじゃないかとは思う。わかんないけど。

 ほんとうはわたしだって、どこでも生きていける人間になりたいのに。
 一体何がわたしを妨げているんだろうか。
 ……それはやっぱり、自立心と倫理観なのかな。

不安定すぎる自分のこと。

 病んでるけど病んでない。

 それがわたしを表すわかりやすい形容詞だと思う。

 病んでるんだよ、過去から引きずり続けて今もなお尾を引く感情をぶちまけると、徹頭徹尾病んでる。
 そして今まで、それはいつか浄化されきる時が来るって信じてた。

 そしてさらに、病み続けるのも嫌だった。
 だってそれって絶望だし苦しみ続けるってことじゃん。
 そんなのつまんないよ。
 わたしはそんなのつまんないって思うから、「いや、大丈夫!!!!!」ってなんか、吹っ切ってどこへでも行こうと思う。

 っていう、「元気な人」と「病んでる人」の繰り返し。

 いつか自分から病みは抜けきるって思ってたんだけど、ちょっとそもそも原理が違ったかもしれない。

 わたし、落ち込んで悲しい気持ちになったり、昔の辛かったことを思い出しては自分に優しくするんだけど、そうでもないときは自然に頭の中が厳しい人になっていてね、理想が高いって言えば良い感じかもしれないけど、わたしに無理難題を要求してくるんだ、その厳しい人は。
 ほんとうは、「君以上に大事なものなんてない」ぐらい言ってくれる男前を頭の中に住まわせたいのにさ。
 落ち込んでる時じゃないと、そういうこと自分に言ってあげられなくて、それがイヤ。

 でも、その落ち込みがなんで来るのかって、一個一個解決していけばいつかは落ち込むこともなくなるのかもしれないけど、自分の闇を舐めてたんだよね。
 あと、自分の鮮明な記憶力を舐めてた。
 そう簡単に闇を抜ききるってことはできるわけないかもしんないから、地道に一回一回落ち込んで、一回一回そのたびに自分をケアして、それを癖にして、抜けきるってことを忘れた頃に、忘れた頃にっていうか忘れてるから抜けてる、ぐらい、時間がかかることなんだろうな〜って、感覚の違いに気づいた。

 わたしは感覚が鋭敏だからなのか、記憶がやたらと鮮明で、普段は意識して思い出すことができないような辛かったことも、ふっと予期せぬタイミングで、今その時にいるみたいに思い出してしまうことがある。
 いや、それはわたしの中では「思い出す」っていう感覚なんだけど、他の人から見たら違うのかもしれない。「思い出す」っていうことからはかけ離れた、桁違いの生々しい感情が蘇ってくるから、今のことのように落ち込む。
 そう、わたしが落ち込むことって大体、昔のことを思い出すからなんだ。
 今のことでつまづいたとしても、それに投影されてる昔の辛かったことで落ち込んでる。というか、病んでる。
 なんなら、当時は湧いていなかった感情も、今当時のことを「思い出す」……というか当時に「帰る」ことで感じ直してる、みたいな状態も結構ある。
 最近だと、わたしは進学校に通っていたので、長期休みの前とか定期的に「勉強しろ」ってひたすら言われる(しかも各教科の先生から+学年主任からもあったりする)儀式があったんだけど、あれ、当時は(わたしは得意科目に関しては成績だいぶ良い方だったし、苦手科目はばっくれたかったから聞かなくてよかったんだけど)大真面目に聞いてたから苦痛でもなかたんだけど、最近になってあれを「体験し直す」と、それがいかに自分にとって苦痛だったかがぐわーーーーっっと湧き上がってきて泣いてた。
 あれのせいでめちゃくちゃ不安になってたの。高校時代わたしは進学校の外の世界を知らなかったし、危ないからあれはやっちゃダメ、これはやっちゃダメ、それやったら勉強の時間なくなっちゃうんじゃない?みたいなことをいろいろ言われてるような感じがして何もできなかったから、「ちょっとでもミスったらお先真っ暗だ」って思い込んでたのね。それでその儀式が拍車をかけて余計に頑張っちゃってたっていうか。あと、わたしは勉強しなくても授業聞いてるだけで点取れる人間だったので、自分がどうして勉強できるのかも自分でもよくわかんなくて不安だったし。当然、親もわたしが全然勉強してるそぶりないからナーバスになってピリピリしてたし、みたいな。
 でも、それがしんどいなんて当時はあんまりわかってなくて、ただ気付いたら身体が具合悪くなってて、自分でもどうしようもなかったんだけど、周りにも責められる(感じがする)し。病み。みたいな感じだった。
 仙人になりたいとか隠居したいとか楽園に行きたいとか、とにかく楽になりたいって思ってたんだけど、それも無自覚だった。とにかく自分が苦しいってことがわからなかった。身体の具合は悪かったけど。自分が自分に厳しい自覚もなかった。

 ……うん、全然自覚なかった。
 あんなにも勉強しなきゃって思ってたんだ、わたし。

 だから、全然バランスがわかんないの。子どもじみた甘ったれと、自分を律するっていうの?そういう部分のバランスが。
 バランスなんて知るか、甘ったれ100%で生きていくんじゃいとすら思ってる。
 そっちの方がまだわたしには良いのかもしれない?

 んーーーーでも、わたしには自立心はあるからさ。
 自分の足で立ちたいし、人の世話になりたくないって気持ちもあるんだよね。
 だから、やっぱ、どっちつかずで、扱いにくい。自分のことが。
 自分のこともっと知って、扱い方、いつかわかるようになりたい。

 自分の足で立ちたいけど、自分を律するなんて知るかよ。そんな気持ち。
 腐らずに生きていけ、なんて、無理言うなよな。
 ちゃんと腐ってみたことあんのかよ、そういうこと言う奴らはよ。

 もっともっと自分の目指す方向に、良くなっていきたい、っていう向上心もあれば、
 そんなのもう無理だよ、っていう自分もいる。
 諦めてるんじゃなくて、悲しんでるのよね。

 あんまりさ、正直、昔に傷ついたから、自分は昔に傷ついた人間なんだ、みたいなこと、あんまり言いたくないんだ。そういうスタンスでいたくないんだ。

 でもやっぱり、自分の気持ちとしては、過去に戻っちゃうこともあって。
 だけど過去に戻らなくなるまでは、どれぐらい時間がかかるかわかんない、下手したら5,6年? いや、10年? それぐらいかかるかもしれない。
 でも、過去に戻っちゃうことがなくなるまで、日の目を見ちゃいけないとか、何ていうの、完成してないから外に出しちゃいけないとか、そういうことではないよね。
 もうすでに今のわたしとしては完成してるんだから、そのまんまアピールしてけばいいと思うの。

 蹴躓いたり猛進したり、両極端な自分のこと、もう少しそのまま受け入れてみたい。

 昨日大泣きしてるかと思ったら、今日はもう何かに夢中になってそんなこと全部忘れちゃってる。
 それぐらいの振り幅でも、しかたないよね。それがわたしだもん。

 むしろ、それぐらい素直に、自分に対して柔軟に生きていきたいな……

 

 

 

 

ずっとお父さんに褒められたかった。

 このブログ、少なくとも母はたまに見ているっぽいので、ちょっと恥ずかしいけど、赤裸々に書きます。

 わたしは色々あって、父のことは好きだけど、同時にすごく怖いと思ってた。
 これはもう、下手したら物心ついた時からずっとかも。
 で、15歳くらいになると、身体も自意識も大人になってくるわけなので、「怖い」が、「許せない」になり、怨念や殺意になって、それから7年ぐらい? いつから殺意に変わったのかののりしろも考えると7年ぐらい、ずーーーーっと恨んでいた。

 今はもう、今の父に対して……というかこれからの父に対して、怖いとか、恨んでるとかは無い。
 でも、昔のことを思い出すと、やっぱり怖いなぁって思ったりもする。行ったり来たり。
 小さい自分に心が戻っちゃう時がね、たまにあります。

 でもね、怖いとか許せないとか、その気持ちのもとを辿っていったらね、タイトルのことに気がついたんだ。
 わたし、ずっとお父さんに褒められたかった。

「怒らないでほしかった」っていうのもまあ、外れてはないけど。「褒められたかった」っていうのが一番しっくりきた。

 だから、わたしはテレビに、本に、誰かの発言に、クラスメイトを褒める他の人の声に、とにかく周りの誰かを褒める声に、ずっと張り合おうとしてた。
 わたしのほうがすごい、わたしを見てよ、わたしもああいうふうになってほしいんでしょ、って。
 どんだけナルシストだよって思ったり、どんだけ自分のこと立派な人間だって思いたいんだよって思ったりも、してたんだけど。

 でも、それもほんとうは、お父さんに褒められたかったからなんだと思う。
 どうやったら褒めてもらえるのか、必死に探してたんだ。

 ずっと頑張ってた。認めてほしかった。

 言葉としては褒めてもらってたのかも。でもなんか、あんまりズキューンと来なかった。残念ながら……

 ただ、だからわたしは今、わたしが勝手に頭の中に住まわせた「そんなことしてたらお父さんは褒めてくれないマシーン」の声に振り回されてほとほと参ってる。「お父さんに褒めてもらいたい」がどうやったらわたしの頭から出て行ってくれるのかわかんなくて、そいつのせいで勝手に人の言葉に落ち込んだりしやがるので困る。
 父に「ずっと褒めてほしかった」とかも、もうすでにだいぶ前に言った気がするし……伝えたかったことを伝えられてないから残ってるってわけではなさそうだから、余計めどが立たない。

 あーーーーーーー。
 ここまでの話の流れとは関係あるけど飛躍したこと言うんだけど。

 父親は、娘にアドバイスなんかできないもんなんだよね。
 だって男だから。

 男の生き方なんて娘には、わたしにはできないから、父親の言うこと聞く方がおかしいんだよね。
 だって女だから。

 身体も違うし、社会的におかれる状況も違う。
 父親は、娘のことを理解なんてできるわけがないし、ということはアドバイスも役に立たない。話聞く必要はない。

 応援だったらありがたく受け取ればいいし。

 これ、なんでもそうだよな。
 身体も違って社会的に置かれる状況も違うってことは、何に対してもアプローチの仕方が根本から違う、もしくは違うやり方しないと身体や心を壊すってことでもある。

 いや、わたしがこれに気づくのが遅かっただけなんですけどね!!!!!!

 なーんか、総合的に見て女性が少ない業界(趣味でも仕事でも)って、そうやってできてるのかなぁ……とも思ったり。無理やり男の人のやり方に合わせないといけないというか、女の人としてのやり方が確立されてないみたいな……

 はぁああ。
 わたしの頭の「お父さんに褒められたいおばけ」、どうしていったらよいのやら……

 お父さんに褒められて、認められて、それでどうするっていうんだろう。男なのに。

 わたしはお父さんにはなれないし。

 別になろうとする必要もないのにね。

 立派な社会人、立派な大人=おとうさんとおかあさんで、わたしは頑張りたかったからお父さんを知らず知らずのうちに目標にしてて、だから話をまともに聞いちゃってたのかもなあ。本当は人の話聞くのすげーーーーー嫌いなくせに。

 その証拠に、今思い返すと、当時怖いと思っていたことに関して、だいたい「は?」と「話にならないんだけど」という感想しか思い浮かばないし。

 早く父親のことを飛び越えたいな。

 あんな奴の世話になってる自分が惨め。

 

ただの吐露。

 つよくなりたかった。
 自分一人でどこでも生きていける人になりたかった。

 小学4年生の時、学校に行けなくなって、「ああ、わたしはもう自分で生きていくしかないのかもしれない」って思った。
 どこか組織に属することはできないかもしれないって。
 人の言うことを聞けず、気にしないこともできず、周りと同じことをするのも辛かった。
 絶対間違っている気がしたし、それをやってしまうと倫理観に悖ることをしているような気がした。自分の倫理観に。
 大袈裟だけど、「あーこうやってみんなが正しいと思う方向になんとなくみんなが流れていった結果この国は戦争になだれこんで行ったのではー?」とすら思っていたし、今も思っている。
 そんなんだから、自分の快・不快+倫理観に合うかどうかという基準を満たさなければ何かをすることができないわけで。そりゃ組織の中でやっていくこともできなければ、チームプレイすら怪しいかもしれない。そんな自分に気付いていたから、実はチームプレイするときは自分を消してチームに奉仕する勢いでチームプレイやろうとしてたし事実そうだったからリーダー的な役割とか任されたり「ういちゃんがやってくれるからいけるでしょ」みたいな立ち位置になっちゃったりしてたんだけどそれはまた別の話。

 だからつまり、倫理観のせいで両極端なんだと思う。孤高か、奉仕者か。で、実際わたしにはどちらの性質もあるから、「孤高な奉仕者」になるのが一番いい。だって奉仕だって、自分が認めてない奉仕のやり方には納得できないし、納得できないからやらないわけだしね。どんな人助けもできるわけじゃないし、どんな人でも助けたいわけじゃない。

 という、なんつーかこう、デカい視点をもってはいるわけだけど、現実の方はちみって感じで。
 でもまあ、こんなデカい口を叩くし見てる世界が篤志家みたいな人間もいるよっていう。

 この世界観のデカさ、自分の今の身の程に合ってなくてほんっと恥ずかしいなって思うけど、理想の高さや夢のでっかさはもう、昔から拭いきれないわたしの本質みたいなとこだから、折れるわけにも諦めるわけにもいかないんだぁ。
 それをやっちゃうとね、自分を殺す道を選ぶことになる。
「だめだ、諦めなくちゃ」って。
 それはわたしにとって開放ではなくて、自分の大事な部分を捨て去ってしまうことなんだ。

 自分の心に従うことって、何でこんなに辛くてしんどいんだろう。
 でも、従わないこともまた、辛くてしんどい。
 どうせ辛くてしんどいなら、自分のためにしんどい方を選びたい。
 自分に従ってしんどいほうが、他人に従うことなんかより断然マシ。

 自分が何者でもないことに、このさき何者かになれるのかな?ってところに、不安と期待を抱いています。

 

のろのろと。

 わたし、何者でもない。

 ずっと何者かになりたかった。
 なりたいってか、何者かであるかのように生きてきた気がする。
 なんか、自分にはそれだけの影響力っていうか、力があるような気がして。
 その分、責任がある気がして。
 立派になる前から立派に生きていこうとしていた、ずっと。
 別にそれは悪いことじゃないと思う。

 だって、みんなと同じようなことができないから。
 どの集団にいても、必ずはみ出てしまう。
 だからって、それって単純に場が合ってないし自分がそういう気質じゃないだけで、場の作り方が悪いって言う気はそんなにないの。
 まあ、色んな考え方で生み出された場があればいいと思うし、協調性協調性って他の人と同じようになることを学ばせる環境よりは、のびのびできる環境がいいと思うけど、どんな環境ならのびのびできるかにも個人差があるしね。

「みんな」に溶け込むことができないなら、せめて何者かになりたかった。
 だってそうじゃないと、おかしいじゃん。
 溶け込もうとしても溶け込めなくて悲しい思いもいくらかしてきたしさ、窮屈で我慢することなんてしょっちゅうだし(しなきゃいいのかもしんないけど)、だったらせめて自分の居場所は自分で作って好き勝手やりたい。
 そうしないと、ほかにどう生きていったらいいのかわかんない。

 でも、「どう生きていったらわかんない」って考えることがないって人もいるんでしょ?
 そっちのほうがわたしからしたら想像できない経験だけど、そっかぁ、って思う。
 何のために生きるのかは、悩んでても悩んでなくても、いつも気になってる。

 いつかわたしも、心からわたしの理想というか、わぁって思える満たされた未来がやってくるのかな。
 今だって結構満たされてるけど、物質的にも満たされたいしさ。

 ほんとうの自分とはまた出会えた気がするけど、こっからどうすればいいんだろ。
 まだわからないけど、日々を過ごしています。

 いつか、どこにも馴染めない、どうしたって突き出してしまう、強欲な自分のこと、好きになりたいな。

 自分に自信があるんじゃなくて、自分を殺して生きていくのに耐えられないだけ。
 ほんとうは、あんまり自信なんてないんです。

 それはきっとこれから身につくものなんだ。