再来月で二十歳ですが希望が持てねえwwww

 なんで今こんな気分なのか分からないけど、キッツい世の中なんだろうなと思う。
 今まではどこか他人事というか、何とかなるでしょって思ってたし、リアルに感じられてなかったけど、わたし割とマジでやばいかも。

 生きていける気がしねえ。

 年金がヤバイらしいけれど、そんなこと言われた矢先にわたしは再来月20歳になる。学生納付免除という制度があって、今は猶予期間で、働くようになったら納めることになってるんだろうけど、もうさ、ぶっちゃけ普通に働くのきついと思うもん。体調とか体力的に。そんなこと言っていられない家庭状況だとは思うけど、言っていられるかいられないかは置いといたら、無理だもん。

 どうしたらいいのかな、って今考えても仕方ないことわかってるし、過去も何度も「どうしたら」って考えたことはあって、でもそうやって考えて出した答えに従って頑張ったら身体も心もおかしくなっていったから、やめるけど。
 次に直面しなきゃいけない「現実」が、すぐそこまで迫ってる気がして。

 怖いよ。悲しいよ。

 どんなに頑張っても褒めてもらえなくて、それが当たり前で、もっともっと頑張らなきゃいけなくて、でも頑張っても何にも楽しくなくて。
 そんな時間が続いていくのかな。
 この先何十年も。
 そんなわけないか。ないといいな。
 甘ったれるなって言われるかもしれないけど、甘ったれるなって言いたい人ほど、ほんとは甘ったれたいのを我慢して頑張ってて、それを認めて欲しい人。

 なんか泣きそう。

 大学受験の時に感じてた「もう終わった……完全にぼくオワタ……」みたいな気持ちが蘇ってる。

 無理だよ。わたし、働けない。

 わかったよ、またわたしが頑張ればいいんでしょ!
 頑張って頑張って、紛らわせて、自分に嘘をついて、薬を飲んで、ふつうを演じて、頑張って、いつかおっ死んで、
 その時はあんたも道連れにしてやるから!
 呪ってやる。

 みたいなことを高校時代……いや、ほんとは不登校してた小4くらいからずっと思ってた気がする。

 最近はそんなこともなくなってたけど、ここに来てもう一度向き合う時が来てるんだろうな。

 わたしは弱いから、復讐しようと思っても呪うぐらいのことしかできない。

 まあ、落ち着こう。
 とりあえず今は全体的に無理なので、「無理」って言うのを頑張ろうそうしよう。

 どんなことでも細かく解体して一個一個対処すれば大丈夫……かな?

「甘いもの食べなきゃやってられない」って気持ちになったらストレスが溜まってるのかもね。

 あー、不安だぁ……

 わたし真面目すぎるのか、敏感すぎるのか分からないけど、大変なことを人一倍大変に感じるとこあるみたいで。
 社会生活ってタスク多すぎでしょ。無理。こなせない。そんなファジーに器用に色々できないよ。
 っつーか、心身に負担かけてまでやりたくねーし、できるようになろうって頑張るの嫌だし! 普通に病むわ!!

 生き残らなきゃ。

 ういでした。

みんなの中にある五つの「感」その1〜感情と感覚〜

 ふつうになれなくて、立派な人になれなくて、理想を叶えられなくて、ずっとずっと苦しんできた。
 どんなに「こうすべきだよ」って言われたって、わたしにはそれができないし、したくないから辛かった。

 もうさ、人に「こうだよ」って教わったことよりも、自分自身の感じたことを信じて生きたいって思う。それが「多様性」だし「個性を尊重する社会」ってことじゃないかな、とも。
 正しいことや善いことって、人から教えてもらうことが多いし、自分じゃなくても……っていうかわたしじゃない方ができることかもしれない。でも、「わたしが感じたこと」を感じるって、誰にも教えてもらえないし、今ここにいる「わたし」にしかできない。
 替えが効かない。
 それってすごいことじゃない?

 自分の感じたように、生きたいように生きる方法、糸口を掴んだ気がするの。

 自分の、「感情、感覚、感受性、感性、直感」の五つの「感」をに従うこと。

 これが自分で自分の人生を好きなように生きていくために必要なことなんじゃないかな。

 それでね、この五つの「感」は上にあげた「感情→感覚→感受性→感性→直感」の順番に開花していくみたい。
 感情を否定すればそれ以降の4つが、感覚を否定すればそれ以降の3つがうまく働いてくれない、みたいな感じで。

 面白いなと思ったので、1項目ずつ整理して書いてみます。

感情

 わたし、人に強い感情(特に怒気や敵意)を向けられるのが尋常じゃないくらい怖かった。パニックになるから。だからずっと「わたしは人に怒りたくない」って、頑張って怒りの気持ちを散らそう、鎮めようとしてた。

 でも本来、感情は人を傷つけるものではなくて、自分を導いてくれるものだし、物事を先に進めるエネルギーそのものなんだよね。例えば、不当な扱いを受けた時、「怒り」という感情を抱くからそのことに気がつくし、怒りのおかげで状況を変える力が湧く。あるいは悲しい時、思う存分思う泣きまくったら、自分の本心に気付けたり、もうこんな悲しい出来事終わらせようって思えたりする。
 分かっちゃいるけど、怖いけどね。

 感情とうまく付き合うって、感情を抑制してコントロールすることじゃないんじゃないかって気づいたんです。
 感情は、起きた出来事が自分にとってどういうものなのか、自分はどうしたいのかを教えてくれる。それを否定したり無視したりせずに、「自分はこうしたいんだ」って受け止めるのが、「感情とうまく付き合う」ことなのかもって。
 だから感情を押し殺すことは、自分らしく生きるために必要な根っこを枯らせること。せっかく現在位置と道を教えてくれてるコンパスを自らブン投げることに等しいのかもって。

 わたしさ、知らないうちに--団体行動や「大人の対応」を学ぶうちに、「これぐらいで怒っちゃいけない」とか、「これぐらいで悲しんじゃいけない」とか、あるいは、「こういう時は感謝しなきゃ」とか、そんなことばっかり考えるようになってた。
 でもさ、いつどんな時にどのように感じるかは、本来ぜんぶ自由なはずだよね。
 感じちゃいけないことなんてないはず。
 それこそが「わたし」だし。
 自分の感情に、素直に、子どもみたいに従おうって思った。楽に生きたいから。
 そしたら何が起こるのか、わたしは知りたい。

 人を傷つける強い感情って、押し殺し続けて腐敗した感情=怨みなんだと思う。
 押し殺した感情、溜め込んだ感情は、もともとそれが悲しみであっても怒りであっても愛情であっても喜びであっても、どんなものでも怨みになる。
「私が感情を表に出したら人を傷つける」と思ってたとき、確かにわたしの中身は表現し切れなかった悲しみと怒りと、「復讐してやりたい」ってほどの怨みでいっぱいだった。

 怨みが溜まってるってどういう状態か。
 怨みが漬物石みたいに、感情のカメ(甕。亀ではない)に蓋をするんですよ。感情が湧いても、上に積もった怨みが邪魔をして外に出すことなんて到底できない
「どうせまた傷つけられるんだ!」って思うから、苦しいって言えなかった。悲しいって言えなかった。ふざけんなって言えなかった。そんな風に感じることすらいけないと思ってた。でも感じてしまうから、やっぱりそれも押し殺して、さらに怨みが溜まる負のループ。

 そこで必要なのは、この怨みをどかすこと=つまり吐き出すことだった。

 そんなことしたら人を傷つけてしまう、と思えるけど、でも、人は怨みを溜め込み続けることはできないから。自分から吐き出そうとしなくても、こらえ切れなくなれば爆発する。怨みの自然爆発は予測できない上に、本人が吐き出そうとして吐き出したものよりずっと殺傷能力が大きい。最たる例が犯罪とか、自傷とか、病気とかなんだと思います。
 だから自然爆発させて人(自分自身も含む)を傷つけるより、自分から吐き出した方がいいんだと思う。どんなに醜くても、生理現象だから仕方ないよ。今まで我慢してきたぶん、遠慮なく感情のままに暴れたらいいと思う。気がすむまで。
 でも、やっぱりちゃんと暴れ切れたのはつい最近だった。今までは腹が立つことがあっても、頭で考えて、「こう考えればいいんだ」「こうすればいいんだ」って知識で動いてたのね。でも、それじゃほんとうは不完全燃焼……どころか、感情を受け入れ切れてなかったことに気がついた。
 ぜんぶ出し切ったら、今まで我慢してたこともこれからは我慢しないって肚が決まったし、またひとつ「わたしはわたしの望むようにできた」って自信がついた。

 感情は、「一般的にどうか」や常識はともかく「私はこう感じる」「こう思う」「こうしたい」という「私」の輪郭を定めてくれる(教えてくれる)もの。
 まずはこれが導き手になってくれる。

感覚

 身体感覚や体質、身体の特性などをひっくるめて、わたしは便宜上こう呼んでいます。

 単に身体感覚一つとっても、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚の「五感(官)」だけでなく、温冷感覚、深部感覚、内臓感覚、周波数感覚、電磁波の感覚などなど、他にも様々な感覚が人間には備わってる。これらの感覚がどれくらい鋭いかや、得意な刺激と苦手な刺激は何か、どの感覚器官はよく効いてどの器官はそうでもないか、苦手な刺激にどれくらい晒されても平気か、その他いろいろ、みんなそれぞれ大きくも細かくも違っています。
 他にも頭痛持ちとか、身体のここが不自由とか、すぐに疲れてしまうとか、むしろ非常に頑健であるとか、動き回るのが好きとか、子宮を持っているのか精囊を持っているのかとか、エトセトラ、それぞれいろんな特徴や属性を持っている

 だからそもそもみんなで一定の法則に従うこと自体無理があるのかも、ってわたしは考えました。

 よく考えてみたら、人の身体はそれぞれ違うのに、「こんなことでしんどいって言っちゃいけない」「みんなはできてるのに」って悩むこと自体、ナンセンスだなって。
 だって周りの人はともかく、わたしの身体はしんどいと感じてるし、みんなができてもわたしにできないことなんてあって当たり前。わたしは背が小さいから高いところに手は届かないし、努力で伸ばそうったってできなかったんだもの。それと同じじゃないですか。
 努力で克服できることもあるだろうし、それを諦めろって言いたいわけじゃないけど、だから努力したければすればいいけれど、諦めた方が楽になることもたくさんある。だったら諦めたいこと、諦めるしかないことは諦めた方がいいじゃない。楽な方がいいじゃない。自分を壊してまで、嫌な思いしてまで努力して克服しようとするって、自傷行為と何が違うんだっけ?

「みんなみたいにうまくできなきゃ」って悩みは、「みんなと同じようにならなくちゃ」っていう悩みってことで、それって「自分でいちゃいけない」ってことじゃない? と思ったら、すごく怖くなった。
 そんなの大量生産の工業品と変わらないじゃない。

 わたし、感情を肯定して「ほんとうはこう感じる」「ほんとうはこうしたい」を感じられるようになると、思ってもみなかった「実はこれがきつい」「これが楽」に気がつけるようになった。
 自分の快・不快や体質を改めて自覚できるようになったんです。
 そうすると、今までうまく「ふつう」にやれなかった理由に名前がついて、整理ができて、安心できた。「そっか、自分はこれが苦手だったのか」「これだと快適だったのか」「自分はこういう体質だったのか」って。
 そこで、「体質ならしょうがないな」って思えた。「変わろうとして苦しい」を抜け出せたの。

 もちろん、自分の「ふつうじゃなさ」の正体を専門機関に診断してもらうのも大切なことだけど、わたし、まだ消化しきれていない悲しみや怒りやそれが変質した怨みを抱えまくっていた時に、ASDの診断を受けて、「結局ふつうになるために私が頑張んなきゃいけないってことでしょ!? もうそういうのやめてよ!!!」ってすごく辛かったことがあって。
 うまくやれないこと、やれなかったことについての悲しさや辛さや傷つきや怒りや寂しさやエトセトラが消化できてないうちに、「あなたはこういう傾向にあります、だからこうしましょう」って杓子定規に言われてもさ、悲しいじゃん。ものすごい孤独を感じるじゃん。「結局何かできるようにならなきゃいけないんだぁ」って思うじゃん。「もうそんなに頑張れないよ」って。
 いっぱい、過去の辛かったこと、今の辛いことをちゃんと「辛かった/辛い」って感じられるようになって、悲しい時は悲しんでいいんだ、苦しい時は苦しいって言っていいんだ、ムカつく時は怒っていいんだ、って思えるようにちょっとはなったと思う。
 そしたら、自分の感じることや欲求を肯定できるようになってきて、開き直れるようになりつつある……かな。

 自分の身体が訴えてくるものを否定しなくなると、「自分はただ在ればいい」っていうほんとの意味がわかるようになりました
 それを続けていくと、「価値を提供しなきゃいけない」とか、「〇〇ができるから私はここにいてもいい」っていう概念から、ちょっとずつだけど離れていける気がする

 自分の身体が快適であることって、「自分らしく」生きるための必要条件だと思う。ほかでもない「わたし」を構成するものの中でもめちゃくちゃ大きい部分が、この持って生まれた身体だから。
 乗り物に乗って冒険するのに、乗り物の都合を考えないで走らせようとしたって、道が険しくなるだけじゃない?

 苦痛も快楽も、この身体でしか感じられない。だったらこの身体に従って、感じて、選んでみたい。
 それが生きることかなって。

感受性と感性と直感についても、まとまったら「その2」として書きます。

読んでいただいてありがとうございました。
ういでした!

小説書きました。「ぼくのかんがえたさいきょうの夏祭り」

 夏祭り、あの非日常感にドキドキワクワクして、ちょっと切なくて、大好きで、でも切なさが苦しい、そんなわたしにとって意味深いイベントなんですけど、どうしてこんなに夏祭りにクソデカ感情を抱くのかがわからなくてモヤモヤしたので、小説にしてみました。

 せっかく自分のサイトなので自分のことについてもっと書いてみます。
 わたしの誕生日は8月30日なんですけど、ちょうどわたしの近所でやるお祭りは8月の末にあるので、夏祭りって誕生日にすごく近い、そういう意味でもわたしにとって特別なイベントだったんです。

 でも、わたしあんまり友達を作るのが得意じゃなかったし、いわゆるリアルが充実してる感じの人間じゃなかったので、夏祭りにいつも何か「叶えられなさ」を感じていて、欠乏感とか、焦燥感を抱いてました。

 みんなみたいに友達みんなで楽しくワイワイやりたいのにな、って。
 別にワイワイやってる人たちがほんとうはめっちゃ楽しいのかどうかは実はわからないんですけど、
 でも、ずっと夢だったんです。お話みたいな楽しいお祭りが。
 あと、誕生日お祝いしてほしいけど言い出せない切なさも加わってたのかな。

 いまもまだ、その夢は追いかけ続けちゃうんだと思います。誕生日が近づくにつれてどんどん、憧れと切なさが大きくなっていくんだと思う。
 いつか叶うといいな。
 すでに何度かは叶ったけどね。
 毎年、めっちゃ幸せな夏祭りとめっちゃ幸せな誕生日を過ごしたいんだ。

 ……うん、きっとめちゃくちゃ満たされてても切なさはどっか拭えないのかもしれないけど。
 夏の空気ってそういう匂いがしませんか。
 一瞬一瞬を惜しくさせるような、切迫した切ない匂いが。
 わたしだけかな。

 今年の夏が十代最後の夏になるけど、まあでも正直、わたしはしばらく精神的には19歳のままだなって思うので、あまり気にしてません。ただ響きがエモいなとは思う。

 みなさんも良い夏をお迎えください。
 わたしもせっかくだからエモさに浸りきる良い夏にしたい。

 ういでした。

 

免疫のはなし

 ずっとさ、「そのまんまでいいよ」って誰かに言ってもらいたかったし、だからわたしも人に「そのまんまでいいよ」って言える存在でありたいと思ってたんだ。
「そのまんまでいいよ」って言える、言ってくれる人が増えてほしいと思ってた。
みんなが「そのまんまでいいよ」って言ってくれる社会にしたい、なんて思ってた。

でもそれは自分が自分に「そのままでいいよ」を言えなかったからだった。
今だからこそ気づけたことでしかないんだけど。
人に言ってもらえないと、「そのまんまでいいよ」を信じられなかったから。

別に「そのまんまでいいよ」って言える人を増やそうとするのが悪いことってわけじゃないんだけど。でも、どんなに願っても、「そのまんまじゃダメだ」って言ってくる人はいなくならない。
いなくならないし、そういう人にも生きる権利、存在する権利、変わらないでいる権利、「そのまんまでいい」権利は十分あるんだよね。
「そのまんまじゃダメだ」って言ってくる人も、「そのまんまでいい」の。
「そのまんまでいい」ってそういうことでしょ?

だからその人がその人として在ることを尊重しつつ、自分も自分を守るにはさ、そういう自分を不快にしてくるものと関係を絶って、自分専用の世界を作ればいいの。

聞き入れる必要はないし、関係ないし、真実なんかじゃないんだよ、自分を不快にする、しかも赤の他人の言葉って。

「そうは言っても、わたしにはできない」「現実的には、それじゃやっていけない」って思ってたのね。
でもどうやら違うんじゃないかって最近は思えてきた。

昔、「〇〇したい」「〇〇嫌」って言ったら、「そんなんじゃダメ」「そんなことを言うなんて悪い子」って言われた、それが辛くて怖くてもう二度と起こらないでほしいと思った。だからいい子にした。「したい」も「嫌」も、ダメそうなら呑み込むようになった。
それ自体はさ、当然のことだし、悲しんで、恨んで、怒って、苦しんで当然のことだよ。

でも、誰かにダメって言われたからって、自分もそれをダメって思わなきゃいけないわけじゃなかった。

「ほんとにダメなのかな」って疑って、勇気を出してやってみたら、全然ダメじゃなかった。

それどころか、自分のしたいようにできたって満足感が湧いてきた。

わたしの場合はね。

常識とか道理とか社会通念とか、そういうものを受け入れて生きようと考えてるのは他でもない自分なんだよね。

そういうものに従わなきゃいけないって考えを採用したのは自分自身なの。

あのね、自己肯定感が高いから、自分を信じて自分の思うままに行動できるんじゃないみたいだよ。
わたしの経験則だと、自分を信じて自分の思うままに行動すると、「わたしはわたしの思うようにしていいんだ」って自己肯定感が高まるんだよ。
順序が逆なの。
これマジ。

自己肯定感が高いって、別に自分を信じるのが怖くなくなることじゃない。
いや、些細なことは怖がらなくなるかもしれないけど、ひとつ何か怖いことをクリアした後はもっと怖いことに挑戦して、さらに自分を自由にしたくなっちゃうから結局恐怖を感じるのは変わらない(美味しいものが好きな人はどんどん美味しいものを求めていくじゃん、そんな感じ?)。
だからまず飛び越えてみることだけ。

そうは言っても、自己肯定感が低いと、自分を信じることも自分の思うようにやることも、めちゃくちゃ怖いと思う。「そんなことしたら、自分は大変なことになって生きていけなくなる」って考えるほどに。

でもその「怖い」ってさ、「注射怖い」「初飛行機怖い」みたいなものなんじゃないかな。
注射って確かに怖いし痛いけど、打った後死んだっけ? 一瞬じゃなかった?
「え? 終わり? 終わった? ホッ……」みたいなもんじゃない?
その怖さと一瞬の痛みの後には免疫がつくわけじゃない。
どんなに一瞬の、終わってみたら些細なことでも、その当人にとっては大きすぎる恐怖なわけだけど。
でもその当人もそれを飛び越えちゃえば、案外拍子抜けするんじゃないかって。
(あ、恐怖症も無理すれば治るとかそういうことを言いたいわけじゃないです、そういう我慢する無理は良くない。ただ「これ以上我慢しないためのえいやっ!」は積極的にしてみては? ってことです。)

自己肯定感と免疫って似てると思う。
免疫があったら、身体に悪いものが入ってもちゃんとやっつけられて病気にならない。
自己肯定感あると、たまに嫌なことがあっても自分の根幹に響かないから病気にならない。

休みたい時に素直に休むようになって、わたし、同じ空間の中で他の誰かが怒られててもビクビクしなくなった。
ほんのついこの間までは、めちゃくちゃ恐怖を「もらっちゃって」たのに。
強すぎる共感能力を制御できるようになった感じ。あと、「思い出し怖い」がなくなったのかも。
風邪菌が身体に入ってもすぐやっつけられたーみたいな感じだった。大きな進歩。「わたしはわたしを守れた」「わたしはわたしのしたいようにできる」って、さらにまた自信がついたよ。
わたしはずっと他人の怒気に負けない自分になりたかったから。他人の怒気から自分の根幹を守れる自分になりたかったから。

痛みと怖さの先に自由と快楽があることに気がついたの。

と言っても、どんな痛みでもいいわけじゃないけどね。これは「踏み越えていい痛み」とか「これは不快な痛み」とか、そういうの身体感覚でわかるじゃん? 凝ってるところを揉まれる痛みと鋭いもので身体を引っ掻く痛みって違うじゃん? そんな感じ。

かわいいわたし

 もういつだったかも分からない頃に、わたしは「かわいいわたし」を諦めてた。

 わたし、可愛くない。女の子っぽくないし。モテないし。甘えたり守られたりとか、むしろ嫌だし。甘えさせたいし守りたい方だし。強い方がいいし。
 とか、拗ねて強がってた。

 でも、最近はちゃんと思えるかも。
 誰に評価されなくても、わたしはかわいいんです。

 人にモテるとか、モテないとか、教室とテレビと本と人づての情報でしか経験してない知識で何を言ってんだよ、って感じだわ、そう言えば。
 それで恋愛とか人間とか自分らしさとか愛情の何が分かるんだろうって。
 自分の経験の中で学んだことが、自分にとってはすべてなのに(だから)さ。

 愛されたいし、目立ちたいし、ちやほやされたいし、無視されたくないよね。
「自分は愛されて当然なのに、なんで?」って思う。
 なんか急に邪険に扱われて、「なんで?」って混乱するから、焦って「かわいいって言われそうな自分」になろうと頑張る。

 でも統計学的に「かわいい」って言われる要素を集めて自分に貼り付けてくとさ、すっごくグロテスクになる。美しさとか慕わしさに法則なんてないんだから当たり前。
 そんなのAIにやらせればいいじゃん、AIって統計と学習が得意らしいじゃん(素人知識)。

 周りの人の態度とか言葉を根拠に、「わたしは愛されて当然」を変える必要なかったんだよ。
 もともとはちゃんと、自分が愛されるべき存在だってこと知ってたんだよ。邪険に扱われて傷ついたってことは。
 っていうか、誰だって傷つくよね。
 それは誰だってその「当然」を知ってるからなんだと思う。

 ただ場所が違っただけ。たまたま居たのが咲けない環境だったんだよ。それで、わたしたちは、自分が望めば限りなんてなく、咲ける場所に、咲きたい場所に自分で行くことができるし、むしろゼロからそういう場所を作り出すこともできる。

 変えるべきは自分じゃなくて環境なんだろうなと。孟母三遷みたいな。
 だって自分って変えられねーし。人って変われないもんだし。

 現代にはインターネッツがあります。はっぴーばーすでー。
 だから多分、自分が自分のままでいて愛されて当然な環境を、自分のブログなりサイトなりで誰でも作れるんじゃないかな?と思って、ここで実験してるわけです。
「わたし、ここにいまーす!」「わたし、これがわたしでーす!」を叫べば誰かには届くわけで、それが積もり積もれば、自分を愛してくれる人たちのコミュニティもできちゃう、みたいな、そういうことしてる人いっぱいいるじゃない? だからわたしにもできるかも、って。

 ネットじゃ誰だって注目を得る権利があるかなって。教室みたいに閉鎖機で画一的な場所じゃないし、本とかテレビよりずっと自由な情報と言説に溢れてて、それはもういろぉんな人がた~くさんいる。だからこそヤなこともあるかもしれないけど、いいとこ取りはできるんですよきっと、自分がいいとこ取りするのを自分に許しさえすれば。
 ネットでいいとこ取りするって単に、自分にとって都合の悪い情報を入れないこと、信じないこと、自分の心地いいものにだけ触れること、これだけじゃない?

 というわけで、これを読んだ、かわいくなりたいあなたは、このページ閉じたらブログを始めてみませんか(ダイマ)(誤用)(回し者じゃないよ!)。
 あるいは、今やってるSNSでええかっこしいするのを辞めてみるチャレンジとか、いかがですか……うぐ……いかがですか…………ういも今めっちゃがんばってます……ついしそうになる……自分の体調とか感覚とかに嘘つきそうになる……タスクが終わってないと浮上しちゃダメかなとか思っちゃうし……こんなこと言っても大丈夫かなとかおもんないんじゃないかとか……自分に正直ってクッソ怖い……でもがんばってゆ……一緒にがんばろぅ……ういとみんなはズッ友だょ……

 わたしももっと自分のこと知りたいし愛したいし、知ってほしいし愛されたいし、ちやほやされたいです。
 しましょう。されましょう。

「愛されたい」って、「この世界に存在していたい」と同じ意味だと思ってます。

 ういでした。

アーティストは愛されちゃいけないの?

 藝大に一年ちょっと居てわたしが学んだのは、「アーティストって自己表現をする人」じゃなくて「アートを作る人」なんだな、ということです。
 今更何言ってんの? って感じかもしれませんが。

 なんだか、その「今更」に今更気がついてモヤモヤしている自分がいます。

 それって「アーティスト」もただの職業とか役割とか肩書きの一つになっちゃってない?
 それって窮屈じゃないの、ねえ。

 現代アーティストの間には「アートってこうあるべきじゃないか?」っていう言説が溢れているけど、でもその全部に従う必要なんてなくて、それぞれの作家が「こうだ!」って思うものを選べばいいので、アーティストは自分の個性や創造性を発揮できる自由な職業である--と言える。
 う~ん……
 やっぱりなんだかモヤる。

 なんていうか。
 それじゃあ、結局仕事をしなきゃ愛されないんじゃん、アーティストだって。
 それって他の職種と同じじゃん、
 それはわたしのやりたいやつじゃないわ。
 って思ったのよ。
 ちょっと嫌だな、って思った。

 確かに、仕事(勤労とはちょっと違う。仕事って「何をして生きていくか」そのもの)は人間にとって、その人の生き方や哲学を社会に刻む大切なものだよ。
 けど、その仕事で作った作品を通してしか自分に触れてもらえないの、自分を見てもらえないの、想像したらゾッとしませんか。

 遠い過去の作品が大切に保存されて今も残ってて、だからこそわたしたちはその作品を通して昔の人たちに思いを馳せることができる、それはとっても素晴らしいことだよ。でもさ。
 現代アーティストってまだ生きてるじゃん。
 まだ生きてる人と作品を通してしかコミュニケーションしないのってなんか、気持ち悪くない?

 それって、仕事を介してしか人と会話できない社会人病と同じじゃない?

 年齢、性別、出身地、学歴エトセトラの表面的な記号からしか話を膨らませられないのも同じ症状だね。

 素朴に疑問。
 アーティスト自身は愛されちゃいけないの? 
 作品は愛されていいのに?
 作品が主で、アーティストはそれを作った/作る人に過ぎないの?
 わたしはそんなの嫌だなあ。

 それでもっと嫌なのはさあ。
「自分のままじゃ愛されない/聞いてもらえないから、自分の感じたことや言いたいことは作品にして愛してもらおう/聞いてもらおう」だよ。
「自分の代わりに作品を愛してもらおう」ってこと。

 やめてやめて、そんなことないよう。
 わたしもそれ、やってたけどさ、確かに作品にするとスッキリするし一種の癒しはあるから無駄ではないけどさ、自分の言葉としてもちゃんと語ろ。
 自分のままじゃ愛されないなんて、聞いてもらえないなんて悲しいこと言うなよう!
 自分で自分を諦めんなよう!!
 それ、愛してくれないやつと聞いてくれない奴がおかしいだけだから。

 言いたいことって、やっぱりさ、自分個人として叫ぶのを置き去りにしてたら、やっぱり不完全燃焼だよ。ほんとうのほんとうに届いてほしい相手に届かない。
 自分の言葉と作品と、どっちかじゃ足りないよ。どっちもがいい。

 作品の自立性--作品が作者の手を離れるからこそ羽ばたけるいろんな可能性があるのも、そうなんだろうなって思うけど、でも、なんか。
 あんまりにも「自分」が置き去りになってる感じがして、ちょっと怖いよ。
 わたしはそうはなれないし。

 だからそういう気持ち悪いことにならないように、作品にはもっと「自分!」っていうのを出してみたいんだよね、わたし。
 作品が自分の被創造物じゃなくて自分の一部分になるくらい。
 自分の身体の一部!って言える作品だったらさ、それを見てもらうこと=自分を見てもらうことになって、「仕事内容でしか自分を見てもらえない……作品作れなかったらわたしはダメだ」から「仕事を使って(利用して)自分を愛してもらってる、ラッキー!」になれるんじゃないかって思うよ。
つまり、作品を介してしか自分を見てもらえなくても何も問題ないくらい、自分そのものな作品を作ればいいんじゃね? ってことが言いたいの。

 まあ、具体的にどうするかはまだアイディア浮かんでこないけど。浮かぶまで待つしかない。来い!

 これでめっちゃいいもの作れたらわたしまじかっこいい。美人で知的でセンスが良くてかっこいいとか最強のいきものになれる。うふふ。

 アイディアさま
 前略 お待ちしております。
 草々

本音じゃない夢を見ていた

 わたしね、ほんとうは、ほんとうは、ずっと、ただみたかっただけだったんです。

 気づいちゃったら、わたし、自分がわからなくなっちゃいました。
 どうしよう。

 ずっとを叶えようと頑張ってきたんです。
 それがわたしだったのに。

 そのが本音じゃないことに気づいてしまったんです。

 一番気づきたくなかった怖ろしい真実に気づいちゃったんです。

 じゃあ、わたしって何なの?

 もうやりたいこともわからない。
 叶えたいこともわからない。
 だって満足に見られない。
 ぜんぜんそれどころじゃないよ。

 昔から、理由の分からない体調不良をすることが多くて。
 それを訴えるんだけど、自分でもどう調子が悪いのか説明できないし、原因が分からないから解決なんてできないし、ませてももらえなくて。
 どうすれば楽になれるのかもあんまり分からないし、楽になれる方法を見つけて施してもちょっぴりしか効かないし、別のことして気を紛らわせるくらいしかできないけど、それも怠けてる、遊んでる、みたいに言われたりして。
 ずっとかった。

「やりたいこと」「叶えたい」を叶えるために頑張ってきました。
 大学だって、そのために一番適していそうなところに入りました。

 音楽を作って、ものを書いて、それで生きていけたら、って思って。
 でも、ほんとうは、そういう仕事だったらよくめるのかな、なんて思ってただけみたいで。

 ほんとに、ほんとうはみたかっただけなんです。
 みたいときに、みたいだけ。

 だからわたしの叶えたかったはほんとうのじゃなくて、生き残るための手段でしかなかったんですよ。

 ほんとうは「『好きでやってる』わけじゃなかったのかもしれない」って。

 音楽も物語も、苦しみから逃れる手段だったのかなあ、とか。

 たまたま今そういう気分じゃないだけかもしれないけれど、ちっとも心が踊らないんです。
 音楽作ることにも聴くことにも。書くことにはちょっと踊るかな。でも読みたいとは思わない。

 わたし、これからどうやって生きていけばいいんだろう。

 古い価値観が砕け散れば新しい価値観が生まれるように、きっとじきに新しいわたしにも出会えるんだと思うけれど。
 ほんとうのを見られるわたしに。
 だからそれまでちょっとの辛抱なんだと思うけど。

 いやぁキツいっすわ。

 いつ出会えるのかな。
まだわたしが知らない見がちなわたし

 わたし、待ってるからね。

 今度こそ常識とか「ふつう」とかで虐めないで、絶対にわたしの味方になるし、わたしの言うこと聞くし、わたしを応援するから。
 ちゃんとわたしを見つけてね。

 出会えたら、一緒に美味しいロイヤルミルクティー飲みに行きましょう。


 を込めて

 宵部憂




 親なる羽衣

わたし専用の地図で行くよ。

 もう「いかに誰かの言う通りにするか」って時代は終わった。
 答えは偉い人が持っていて、その人についていけばいいって時代は終わった。終身雇用も崩壊するみたいだし、自分の道は自分で決めなきゃいけなくなった。目的地を決めるだけじゃなくて、どんな道を通るか、どの順番で行くか、いつ補給するのか、どこに寄り道するか、どんな速度で行くか、とかまで。

 わたしね、人の言う通りにできない自分はダメなんだと思ってた。
 でもさ、「ほかでもないわたし」として生きていく上でそれ、普通のことだから。
 それは単に「わたしである」というだけで、悪いことでもなんでもなかったの。

 人の話を参考にするのってタメになるけど、自分はその人とは別の人間なんだよね。だから、これからは人から聞いたタメになる話を自分用にカスタムする力がもっともっと必要になってくる。
 磨きたいな、その力。
 そうすればどんな夢だって叶っちゃいそうじゃない?

 教科書にいっぱい自分専用のレシピを書き込もう。邪魔なところは塗りつぶしちゃえ。授業中に頭の中で自分なりの考え方を作ろう。先生の言ってることと自分の考えてることはイコールじゃないはずだし、イコールじゃなくていい。

 正しく聞こえることじゃなくていい。自分の身体が喜ぶことを選ぶこと。
 きっとその一つ一つがわたし専用の車と地図を作ってくれる。
 と、思うので、早速試してみるね〜!

私へ

 親愛なるわたしへ。

 はじめに、これまでのこと、心からお詫び申し上げます。

 今まで「常識」や「ふつう」で縛って、押し殺して、とても痛い思いをさせてしまいました。
 ほかでもない貴女の願いを聞くことができなくてごめんなさい。
 心を入れ替えました。
 悔い改めました。

 何よりも貴女に尽くすと誓います。
 何よりも貴女を信じると誓います。
 何よりも貴女の声を聴くと誓います。

 お祈りします。

 わたしの今までとこれからを照らしてください。
 わたしに、わたしだけの唯一の道を示してください。
 わたしを運ぶ風を吹かせてください。
 わたしを飛ばせてください。羽の準備はできています。

 親愛なるわたしへ。

 過去と現在と未来のわたしに届いていることを願って、お祈り致します。

幸せで暇。

わたし今、幸せなので暇です。

やりたくないことをやらなくていいし、解決すべき問題も、解決できるまで放っておくことにしたら、めっちゃ暇。
やるべきことも考えるべきこともない。
こんな暇を味わってみたかったのかもしれない。
なんて贅沢な--豊かな時間なんだろう。

今日の満月はクソデカ木星満月だそうです。木星ってジュピター=ユピテル=ゼウスだから、名前的にも治天の星。木星自体も破格に大きい星だから、エネルギーめっちゃ強いに違いないよね。実際わたし今日、生きてるだけでいっぱいいっぱいだもの。

心がしんどいってことはないけど、身体が重い。疲れてるような、何かの放出を待っているような。あと、思考が全然まとまらない。処理が重い。

そういえば木星って占星術では幸福や豊かさを司る星とされてるんだって。ということは今回の満月は、豊かさに関わるイベントなんだ。

暇って不安だし、怖い。だからしばしばわたしたちはいらないことをして、問題を作って困って解決しようとすることで暇をつぶす。それが拡大して慢性的な悩みになる。でも、大概の問題はいらない行動や意識を起こすことから始まるのかも。

そう思ったら、この暇をゆったり味わうのは一種の修行みたいなものだ。現にわたし今、手持ち無沙汰すぎて結構大変だ。だからといってここで自分を無理させるようなことをしてしまったら、また問題を作り出してマッチポンプが始まる。この幸せな時間をどういう風に過ごしていくかが重要なんだろうな。