イヤホンとCDとわたし

 わたしはCD時代末期、あるいはダウンロードの世代なのだと思う。
 あ、1999年生まれ、現在(2020/07/01)二十歳です。二ヶ月後に二十一歳になります。よろしくお願いします。

 そもそもわたしは、能動的に音楽を探して聴きはじめた入り口がボーカロイド界隈だ。
 いや、それよりも遡ると、イヤホンジャックを挿せるものからならなんでも音を収録できるおもちゃ↓からなんだけど。

 タカラトミーから出ていたミュージックパクトというやつだ。(多分今はもうない。後継機とか出てたりするのかなぁ?)
 しかもこれ、持ち運べるのである。つまり家の外でも電車の中でもどこでも、イヤホンとこれさえあれば音楽が聴ける。当時のわたし(小学3年生)にしてみたら実質iPodである。

 閑話休題。ボカロ界隈の話に戻る。
 当時は「にこさうんど」という、ニコニコ動画の音源をダウンロードできるサイト(著作権保護の観点から、わたしが中学に上がったあたり、2011年頃に無くなった)があったため、わたしが音楽を探して聴いて「手に入れる」場所はもっぱらそこだった。
 ダウンロードした音楽をiPod(親からお下がりをもらった気がする)にせっせと入れ、それが自分のコレクションであり宝箱になった。
 あまりにもダウンロードした同人楽曲が多すぎたため、自分で勝手に曲調から分類してアルバム名をつけておおざっぱに分けていた。
 あと、ちゃんと誰が作曲したのか、一曲一曲手で入力したりとか。
 その作業の全部が好きだった。

 当時はアカウントとか会員登録といったシステムが理解できなかったため、ニコニコ動画自体に入ったことはなかった。それに、動画を見る文化が自分にあまりなかったので、入れたとしても身体に馴染まなかったと思う。

 画期的だったのは、ニコニコ動画にはタグというシステムがあったこと。
 ボカロ界隈には、色々なジャンルの音楽を作る人たちがいる。タグから気になったジャンルの音楽を絞り込んで探すことで、色々な音楽に出会えた。
 それにタグは、ジャンルみたいなもともと決まった分類だけでなく、特定のボカロの扱い方とか(わたしは「レンの低音」タグが好きだった。鏡音レンは高音域中心に使われがちだけど、低音がものすごくカッコいいのである)「ききいる」「泣ける」「燃える」などのムードとか、ユーザーたちがふんわり名付けた属性も含んでいる。
 これがまた、たまらんかったわけですな。

 いわゆる「埋もれて」いる音楽すらも、めちゃめちゃ掘り起こして聴きまくった。
 他人からの知名度がなかろうとも、わたしにとっての宝石になるならばなんでもいいのだ。

 動画自体を見るでもなく、ただ音楽を探して、見つけて、聴いて、選んで、落として。自分の耳に届いた音楽と詞だけで判断する。
 音楽と一対一で向かい合うあの時間が、間違いなく今のわたしの人間性も、音楽性も作っている。
(……そう思うと、今は音楽と一緒に入ってくる情報が多すぎる気がしてくる……わたしが大人になったせいかな……)

 小学校高学年の、不登校しがちだった時代を、わたしはボカロ界隈の音楽とイヤホンに支えられて生きたのである。
 学校が苦しかろうと、わたしの不登校のせいで家が荒れようと、目を瞑って音楽を聴けば、そのときだけはその曲の世界に飛べたから。

 とはいえ、そもそも音楽を作った本人がダウンロードされることを望んでいなかったら、わたしのやったことは「盗み」でしかないし、違法アップロードされたものを聴いたことだっていっぱいある(ゼブラヘッド、ジャミロクワイ、パドル・オブ・マッドはそこで初めて知った)。にこさうんどがなくなるのはある程度仕方がなかった。

 というかその時代から、「音源がタダになっていく」は始まっていたのだな、と今思い返せば思う。
 お金も何もない小学生にあれだけ豊かな音楽鑑賞経験ができたのは、裏で、音楽が金にならない時代が到来したおかげだった、とも言える気がするのだ。

 その後、にこさうんどがなくなり、あとカゲプロ・kem氏・LastNote氏以後のボカロに馴染めなかったこともあり、邦ロックを聴くようになった。

 CDを買うことはなかなかできなかったから、TSUTAYAでレンタルしたものをiPodに入れて集めた。
 だから、CD自体が宝物になるわけではなかったけど、ダウンロードしたデータに、CDみたいな「所有できるもの」としての価値を感じていた。

 それで今、CDを買えるような大人になって、どんどん「CDで所有したい」に回帰しているところがある。あの時は金銭的に無理だったから。あと今はストリーミングが主流になってきちゃっているから、大事なものはフィジカルで持っておきたい、みたいな。
 あと!!!! 好きなミュージシャンに、今ならちゃんとお金が払えるから!!! 払いたいというのもとても大きい!!!!!!

 わたしは板挟みなのだ。
 CDじゃなくてダウンロードという、「音源が無料になる」時代の波の中にいたおかげで、小学生時代から豊かな音楽鑑賞ができた--完全に音源が無料になる時代の恩恵を受けた人間なのだけど、
 でも、「音源はプロモーションだから無料でいい、ライブやフェスでマネタイズする」という方向にはイマイチ馴染めなさを感じる。
 というのも、わたしは「音源」にとてつもない愛着を持っている、神秘性を感じてすらいるからだ。
 だから払えるもんならお金を払いたいし、無料でいいと割り切られるとモヤモヤするのだ!!!!!!
(なんかアライさん口調になってしまった)

 感覚過敏で「生」(ライブやフェス)に行けないというのもあるけど、
 わたしにとって音楽はずっと、「目を瞑って、イヤホンで、膝を抱えて聴くもの」、オルタナティブな現実/居場所だったわけで……
「音源はプロモーション、ホンモノはライブ」みたいなのには、わたしは賛成しかねるというか……
 少なくともわたしの音楽はそんなことないです。

 だから「音源」が「音源」として、神秘性を持ち続けて生き残るシステムが欲しい。
 でもお金のある人しか聴けないっていうのもイヤ。

 それで、復古主義的にYouTubeでラジオ的配信(自分の音楽を流しつつ話す)をしているわけなんだけど……

 まとまらなくなっちゃったけど、別にこの記事は何か答えを出そうとして書き始めたわけじゃなくて、この際だから、わたしはどういう立ち位置の人間なのか整理しておきたくて書きました。
 どういう立ち位置っていうのはつまり、CD世代なのか、ストリーミング世代なのか、みたいな話。

 結論としては、2020年に21歳を迎えるわたしは、
 CDもストリーミングも、気に入ったものをダウンロードして、iPodという端末に収集する人間でしたとさ。
 ダウンロード世代です。

 ……タイトル、「イヤホンとiPodとわたし」とかの方が合ってたな。
 でもこのタイトルの方が何書かれてるのか分かりやすそうだから、このままでいきます。

 読んでくれてありがとう。

あまこもり

 ちょっとだけ時間が空いたね、久しぶり。

 なんかこう、いきなり色々と思い出して、突発的に引きこもりたくなってきちゃったわけですが、これってもしかしてまた曲を作るためのチャンスなんじゃねぇかなとか思いながら、着心地の良い部屋着姿で部屋にこもってる。

 人が怖くて、いや、人が怖いっていうか人の怒気や悪意や大声や白眼が怖くて、天蓋つきのベッドの、分厚く垂らした幕の中で膝を抱えて目を瞑って音楽を聴いていたい、そんな気分だ。
 これも全部低気圧ってやつのせいなのかもしれないけど。

 雨が降っていると、「Rainy Shelter Dwellers」と「真相」のことを考える。

 雨っていうのはだから、天蓋と同じ働きをしているんだよ、閉じ込めもするし、守ってもくれるもの。
「ここ」と「外」を決定的に閉ざすもの。

 そうやって外の世界を遮断して引きこもっていることは、あまりいいこととされていないのかもしれないけど、でも確かにそこには安心があるし、その安心がまるきり悪いものだなんて認めたくないし思いたくない。
 確かにそれは温かくて落ち着く場所なんだから。

 なんか、人伝てに霊媒?してもらったときに聞いた話、わたしの前世は地下に監禁されてた子どもだったらしいんだけど、
 その前世のわたしは、自分を閉じ込めてくる牢に、むしろ安心してたんじゃないかなあって思ったりする。
 怖いものはそこを乗り越えてこないでしょう。
 そういう気持ちがあったってことは、わたしは罪を犯して監禁されたんじゃなくて、怖がられたから監禁されてたのかもね。隠されてた、みたいな。

「宵部帝国」も、その牢が自分で気づいた城壁になっただけだし。
 籠城したいという気持ちがずっとある。
 ひとりでいるのが一番安全じゃん、みたいなね。

 家にこもって、雨音を聞きながら、膝を抱えて音楽を聞いたり、目を瞑ったりして、安心安全を謳歌しているよ。

 そういう静けさが、わたしには、時々必要になるんだ。

きょうの活動と断片。6月27日、2020年

 きのう、配信をした。

(あ、タイトル「きょうの」ってなってるのに昨日の話から入った)

 夢中で小説を書いていたら、なんだかオンライン授業を受けている日常のことが、ひどく遠い昔のことのように感じた。
 不思議だね。この感じが、不登校時代からずっと好きで、救われていたんだと思う。
 そこまで入り込むのには時間の余裕が必要なんだけど、とても安心できるんだ。
 自分で作った世界の中に入り込んで、夢中になって、文字通り「我を忘れられる」感覚。無我夢中ってやつか。
 それが、自分の心や、意識を守るために必要な気がする。
 ここにいない誰かに、たいてい心ない言葉や視線に意識をとられるのは美味しくないからね。

 ボカロP「朱川仁礼」としての次の曲の構想もできた。新しい試みをいろいろ凝らしたものにしていきたい。

 YouTuberの動画とか、MVとかを、ちょっと分析的な目で見てみた。あと音楽も。
 それでノート(紙)に書いて気づいたんだけど、あくまでわたしの場合かもしれないけど、ノートが思考を作るのかもなって。
「ノートに書く」という行為が思考を作るのかも!って思ったので、ノートをとるか物を作るかしている時はわたしは「活動中」で、そうじゃないときは「休憩中」なのかも、なんて気付きました。

 10分DTMの動画も撮りたいな……

きょうの断片。6月23日、2020年

 物語に出てくる勇者や魔法使いや旅人は、なんて自由なんだろう、って思った。
 自分で自分の進む方角を決める力に溢れていた。

 授業の一環で、MVの分析をした。題材に選ばれていたもののどれもが素晴らしい映像作品で、こうやって映像は分析するのか、ととても勉強になった気がする。

 映像は、いろんな人に共有されてきたイメージを取ってきて接ぎ、編み込んで紡がれて行く、ような話を聞いて、うおおおっとなった。
 でも、何度か書いているように、わたしの音楽に映像をつける?ってなった時に、わたし自身は頭の中で映像のような一枚絵のような「ビジョン」を見て、それを曲という形で表現するので、映像をつけると、曲から想起されるイメージを規定してしまうんじゃないかっていう恐れが強い。
 そう、視覚はイメージを強く規定してしまうから。
 とはいえ、MVっていうものにはとても興味がある。
 むむむ。

 考えさせることとホスピタリティ(鑑賞者へのやさしさ)。いつも悩む、難しい問題だ。
 でも、含意やレイヤーの重なりやが多ければ多いほど、そしてそれを考えさせる深度があればあるほどよさそうだ。
 感覚や感情で掴んで、でも明かさずに、含んだまま、考えさせる。
 そんなものが作りたいな。

 ↑のことを、文芸をする上でも考えていきたい。
 そう、声にするための文章をこれから書き始めたいと思うのだ。
 これは何かのプロジェクトにすると思う。プロジェクト〈天蓋〉のように。

 それから、前々からちらちら言っていた「哀と傷」セルフライナーノーツですが……CD(フィジカル版)を発売できそうな算段が立ちつつあるので、そのときにリリースさせていただくことにしました。失礼いたしました。

 明日はプロジェクト〈天蓋〉も更新したいよ!

きょうの断片。6月21日、2020年

 またクレヨン で絵を描きました。
 クレヨンは発色がとても良くて、鮮やかな色が大好きなわたしはそれだけでときめいちゃうし、クレヨン画は、ものを線じゃなくて面で捉える描き方をするんじゃないかなって気がするから、線が苦手なわたしでも、なんとなく味のあるものが描ける感じがして気分が上がっています。
 百均で売っている最小サイズのスケッチブックに書いているんですけど、このままいくとすぐ使い切ってしまいそうです。
 それぐらいめちゃくちゃハマっています。脳汁出ます。

 それから、朗読についての研究、今まで調べたことをまとめました。
 小説や評論の朗読って、実はかなり無理があるし、「朗読らしさ」によってオーディオブックが聴きづらくなっているところあるんじゃないかなって……少なくともわたしはそれで敬遠してしまっているので。
 朗読らしくはないかもしれないけど、抑揚の少ない、聞きやすいけど朗読者が自分を出さない朗読っていうのも、「本を聞く」ためには必要だと思うし、っていうかホラーとかSFとかミステリとかハードボイルドとか、評論とか、そっちの方が似合う作品も絶対あるだろうし、ってか多いと思うし、
 それに、朗読らしくない、上手くない、クセのある読み方だって、それが普段その人が使ってる声に近いのなら、そっちの方が面白くないかなあとか。訓練されたプロの声も素敵だけど、素人の声や話し方に潜む”クセ”に、新しい可能性が眠ってそうじゃん、現代演劇もコンテンポラリー・ダンスもそうやって進化してきたじゃん、とか考えています。
 あと、そもそも読むための文章を書くところから始めても楽しそうじゃん、とかね。それが新しい文芸を作るのかもしれないって。朗読って、「本来は黙読するためのものを音声にする場違いな行為」なんかじゃないんだよ(竹内敏晴さんという演出家さんが、日本人の朗読に対するイメージはそういう感じって指摘していたらしい。ギクって感じだ)。
 そうやってまとめながら、ああそろそろ作品作んなきゃな、作りたいな、って思ってました。音響作品。
 着手したい。

 MVの分析をして、すげーってなりました。
 くわしくはまた明日分析するので、これについては明日の断片になると思います。

 課題でお寺の儀式の様子を見て、お経を読むときの息継ぎ、そのフレージングがすごくいいなって見つけたりしました。
 朗読の時に間が大事なのも、やっぱり声と声の間の静けさには、何か神秘性が篭っているからな気がします。

 それと、言い忘れてたけど一昨日、6/19金曜日にまたラジオをやりました。

 今回は、おすすめのものを紹介するコーナーなども入れ込んで、またわたしがしゃべる時間と音楽を聴いてもらう時間のメリハリをつける感じで進行したので、前回より楽しめるんじゃないかと! 手応えを感じています!
 聴いてね。

 きょうはやらなきゃいけないことをいろいろこなしたので、寝ます。

 あたらしいオーディオブック、新しい朗読、「耳で聴く文芸」を作って行けたらなって思い始めました。
 Twitterで音声が投稿できるようになったわけですし。
 早ければ朗読向けの文章とか書き始められたらいいな。
 一人称視点みたいな感じで、人間が語っても違和感のない文章で。
 流れるように、フレーズがきれいになるように。

 おやすみ!

きょうときのうの断片。6月20日、2020年

 関根光才監督の「INVISIBLE」を見た。

 とてもしんどかったが、とても大切なことがたくさん言われていた。
 その「大切なこと」をここで書くのもあまり意味がないので、是非見て欲しい。

 今週の授業を受けていても思ったけど、わたしは、わたしたちは「公共」の概念をずっと誤解していたと思う。
「公共の」というのは「みんなの」ということ、その「みんな」は、場所ならばそこを使っている「みんな」だし、市民、ひいては人類全体でもある。
「みんな」で使うところは「みんな」で話し合って決める、誰か偉い人や国や行政が決めるんじゃなく、なんて発想がそもそも無かったことが悔しかったし、なんで知らなかったんだろう、なんで教えてくれなかったんだようと思った。
「公共性」に基づいて、一市民として話をする、そんな場所が必要だ。
 あと、アーティストとは「公共性」に基づいて、人類全体のために、自分の信念に従ってものを作るのであって、誰がパトロンであるかは関係ないという考え方も、はっきりと示されたとき、「そうだったじゃん」って愕然とした。

 あと、古本屋で本を物色して古き良きミステリを手に入れたのと、
 ライトノベルの語り口(特に地の文の書き方)ってやっぱりTRPGの影響が強いなって感じたのと、
 久々に外食をして、個人経営のお店だったけど盛況そうでとりあえずほっとしたのと、
 クレヨンで絵を描くのが楽しすぎた。

「見える化」と「公共の場」がキーワードだな。

「本好きの下剋上」
「クレイジー・リッチ!」
 を、友達から教えてもらった。

 

 

きのうの断片。きのう、つまり6月18日、2020年

 公園という場所の可能性について考えるきっかけがあった。みんなの場所、災害用、環境保全……だから音楽フェス(その裏では管理費の調達やエコ運動や災害対策の啓蒙などが動いている)と相性がいいというか、音楽フェスモデルができたのかーって。
 フェスや祭りは、スポンサーがいっぱいいて、そのスポンサーたちもいろいろと出し物をするので、より盛り上がるんだなーって今更気づく。

 きのうはずっと朗読について考えていた。
 歪められた声、歪められた語りだと思う。
 そもそも文章を、小説語を読むってなんなんだ。詩でもいいけども。
 それらは話す言葉とは全然違う言葉で、つまり声を吹き込むものではないのではないか。
 話し言葉じゃないものに声を吹き込むってなんなんだ。
「朗読」の読み方が苦手だ。しかし、確かに美しい朗読というのもある。あるけども苦手だ。
「朗読の基礎」に反する、発声や読み方の癖こそ、読み手その人の声や存在感を規定しているんじゃないかと思う。そう思うと、「基礎訓練」でそれを馴らしてしまうのも、それはそれで惜しい気がするのだ。
 ちょうど、演劇やダンスの身体が、訓練された役者・ダンサーのものではない身体や動きに注目したみたいに。
 人間の声や話し方っていうのはそういうものじゃないだろ、って、朗読を聴いていると思ったりする。
 とはいえ、それが「朗読」という活動だと言われると、確かにそうかもしれないんだけど……そうじゃない朗読があってもよくない?と思う。
 歪められた声、歪められた語り、でもだからこそ興味が尽きないんだけどね。

 ホメロスの詩をいつかは読まなきゃいけないと思う。
 それと、シャルロット・デルボが非常に気になる。日本語で読めたりしないかなあ……

 音を使った手紙、というのを、エジソンはフォノグラフを発明したあたりで思いついたらしいけれど、今この言葉の響きを聞くと、逆に新しいというか神秘的に感じる。ロマンだ。

「音を作り出す」発明は、最初は発声器官の模倣によって作り出そうとされていた。でもエジソンは、それを耳の模倣(鼓膜によって空気の振動=音を感知し、それを再生できるようにする)で解決した。これが画期的だったんだって。

 生き生きした登場人物とどんでん返し、これはやっぱり面白さの鉄板だよね。とある論文にもそういう実験結果が出たって書いてあった。なるほどなー。

学校がしんどい君へ。8 〜お弁当グループ〜

 久々の更新になってしまいました。お待たせ。

 ここ数日、「え、もしかして社会ってマジでしんどい??? マジか……」って気が付いて、どよ〜んとした気持ちでいました。
 何かを決める重要な立場の偉い人たちが、みんな頭の硬い、古い、自分のことしか考えてない、想像力と共感力って知ってる?的な人たちなのかもしれないし、そうでなくても臆病で頑なで、だから何も変わらないのかもしれない、どんなに頑張ったって、声を上げたって、無駄なのかもしれない、なんてことを考えてしまって。
 でも、わたしたちよりずっとずっと年上の人はともかく、今還暦ごろの人たちとそれより年下の人たちとかは、どんどん価値観が変わってきてるんじゃないかなとも思うので、偉い人たちのことを見るのもとても大切だけど、周りを見渡したら仲間や仲間候補は結構いるんじゃないかなって希望も捨てずに行きたいね。

 話は大幅に変わって、「お弁当グループ」が苦手だった話をします。

 わたしは中高と女子校にいたからより気になったのか--いや、別に共学にいても女子のコミュニティってそんな感じなのかもしれないんだけど、お弁当グループっていうのがありました。
 いつも同じメンバーでお弁当を食べるわけです。
 つまり「特に仲良い人たち」「いつも一緒にいる人たち」ってことですね。

 でも正直に言うと、当時のわたしはそれが少し窮屈でした。
 あと、どこのグループに所属しているかで、そのクラス内の社会的立場が担保されるみたいなところもあって。
 カーストみたいな感じではなかったけど、「無所属」がいない感じがどうも座りが悪くて。
 国家を形成する最小単位が家族、みたいなように(わたしはこの考えには超反対ですが。だからお弁当グループという暗黙の制度に違和感があったのだと思います)、教室を構成する最小単位がお弁当グループでした。

 そもそも、自分がかなり変わった人間であるという自覚はあったので(自分が他の人とは違う、ということは、小学校時代の不登校により確固たる「事実」になったわけで)、「浮かないかどうか」「場の空気や平和を乱していないか」と常に気を使わねばいけない環境がしんどかったです。

 わたしはもともと一人をエンジョイする人間でした。暇なときはお話を作ったり歌を作ったりして、ずーっと一人で過ごせる一人遊びのプロだったのです。あと昔から創作フリークだった。
 だから、誰かと一緒にいるより一人でいる方が楽しいなんてことも、そりゃ当然ザラでした。
 その「誰か」が、わたしの話したいことを話せない相手なら尚更。
 わたしの話したいこと、というのが、哲学的だったり抜本的だったり時に過激だったりする問いだったから、当然と言えば当然なのですが。

 今思えば、落ち着いて一人でいればよかったのかもな、とも思います。
 もっと自分一人で自分に自信を持てる方法を(今のわたしが知っているように)早く知って、とにかく自分の世界だけを突き詰めればよかったんだろうなって。
 学校の中に自分と価値観の合う人がいないなら、本とか読んだりして、本の中に自分が共感できる考えの人を探したりとかして、どんどん深めていけばよかったかなーとか。まあ疲れててそれどころじゃなかったんですけど。

 どのグループにも入ってないけど、喋ってみると実はすげー面白いし、でもやっぱりよくわからんし、でもすげー面白い。そんな人になれたのかもなーって。

 とはいえ思春期・反抗期ですし、周りにどう見られているかが気になるのは当然です。
 それに、学校の価値観だと、やっぱりお弁当グループに属していないって言うのは社会性がないっていうふうに判断されていたかもしれません。
 ということで、当時の私も、お弁当グループになんとか身体を収めるのが生存戦略だったのでしょう。
 ものすごい閉塞感でしたが。

 一人でいるのが楽しいからといっても、話せる人が誰もいなくてもいいわけでは決してありません。孤立するのは嫌なのです。
 ただ、周りに話が合う、なんでも話せる人がいればよかったなって思ってました。
 そういう人と「お弁当グループ」になれたら、そりゃ学校行くの、学校生活楽しいだろうなって。
 わたしは残念ながら、そういう人に学校で出会えませんでした。
 ちゃんちゃん。

 今は出会えているので、とりあえずよかったです。

 ……なんだかしんどい話になってしまいましたが、「お弁当グループ」が苦手な仲間は、とりあえずここに一人います。そしてわたしがいるということは、仲間は絶対にもっといます。
 あなたは一人じゃありません。

 今日はここまで。次回は「閉塞感」について書こうと思います。
(気が変わるかもしれないけど)

 最後まで読んでくれてありがとう。
 また次回、お会いしましょう。

 わたしはあなたの味方です。
 ずっとね。

断片。6月17日、2020年

 ぶつかり合って分かり合うバディっていいな、と、「ジェーン・スー 生活は踊る」を聴いていて思いました。

 ライトノベルを書いていて、わたしは描写が好きだし、場面をしっかり頭に思い描ければ描けるほど描写が長くなるし、ものによっては言葉を使ってその場でそのシーンを演技しているような感じになる(だから言動の描写がものすごく多くなる)んだけど、描写を削ぎ落として物語のテンポを上げつつ、細部は読み手に任せることも必要なんだなって分かった。
 描写は物語の進みをゆっくりにするから、「ここぞ!」という場面でしっかりやると効果的なのかも、とか。
 その「描写だけ」をやっているのが、例えば歌だったり詩だったりするのかなあとか。

「考えるな」「黙れ」という圧力に抵抗するポップカルチャーっていいなーと思う。
 あとはスポーツ系のカルチャーへのカウンターも。
 もちろんスポーツが良くないとは全く思わないけど、スポーツ中心で大勢が動いてる感じがムカつくもん。

 管理されてるような、見られてるような、踏み外せない、失敗は許されないような息苦しさを感じる。自分のことだけじゃなくて、自分の生きるこの社会の雰囲気。
 つらい。

 ピアノ、一度に多くのパートを弾くわけだけど、どう演奏していいか分からないなぁ。
 歌の人間だからなのか、魂を込められるのは一声だけなのでは? って発想になる。

 曲と曲の間に朗読とかを挟む形式のアルバムもいいなあと。

 

【新曲】「真相」投稿しました。6月16日、2020年

 初めてYouTubeに投稿した「Rainy Shelter Dwellers」という曲の続編です。

 大っぴらにはできないかもしれない、それでも大切で愛おしい感情を抱える、この季節にぴったりの曲です。(雨テーマなので)

 とってもとっても自信作です。

 いっぱい聴いてもらえたらとってもとっても嬉しいです。