労働が辛くてたまらない、労働のことを考えるだけで苦しい、っていう人にはぜひ、ミヒャエル・エンデ『モモ』を第2章だけでもいいから読んでほしい。

 あそこには大体のことが言語化されていると思う。

 

 元来仕事というのは、人間が他の人間や自分自身や自然と調和していくために行っていたことだったはずだ。マルクスとかアーレントとかもその辺のことを言っている。ふわふわして申し訳ないけどこの辺りはざっくり言ってしまうことにする。

 なんだけれども、気付いたら我々現代人は、労働や仕事のために、自分らしい振る舞いを抑制されて、何か役に立つことをしなければいけなくなっていく。

 それはいわゆる疎外というやつで、まったく「自然」な仕事のあり方ではない。そうなってしまったのは資本という存在のせいであると言ったのはマルクスで、そこから社会主義や共産主義、ようはコミュニズムの考え方は生まれていったわけだけど、

 わたしは私有財産を否定したいとは全く思わないし、自由競争が悪いとも思わないし、まして商売ごとは好きなのだが、「儲け」を出そうとする資本の性質というものに関しては、やっぱりとにかく否定的である。

 わたしがお金をいっぱいもらいたいのは、わたしのために仕事をしてくれた人たちにいっぱいお金を払いたいからだ。

 とにかく儲けを出す必要があり、しかしその儲けの流す先がふわふわしている、っていうビジネスは、全く健全ではないと思う。

 いや、話が逸れてしまった。

 

 わたしが言いたいのは、儲けを求めて常に頑張らないといけない、ということになると、人々は常に何か役に立つことをしなければならなくなる--これが不健康すぎるだろということである。

『モモ』は時間についてのお話だけれど、そもそももともとは、仕事が時間を測る単位にされていたくらい、仕事にはその仕事独自の時間軸があったのだ。

 どんなふうに掃除をするか、どんなふうに料理を作るか、どんなふうに作物を育てるか、どんなふうに服を作るか、そういうのには、誰がその仕事をするかによってペースの違いというものは現れるのが普通だし、その個性と言ってしまうしかない差異に、人々はもっと寛容だったんじゃないだろうか。だって、誰の仕事が誰よりどれぐらい遅れたかを図る道具なんて、その時にはなかったんだから。

 自分の時計で自分の時間を過ごすということができないと、窒息してしまう人がいる。わたしはこれを確信している。

 なぜならわたし自身もそうだし、わたしの思い過ごしでなければわたしの友人たちにも、そういう感じの人々をたくさん見てきたからだ。

 

 体内時計、という言葉がある。要するにこれは、元来人々は一人一人それぞれの身体がそれぞれの時を刻んでいるということなのだ。

 その「それぞれの時」を合わせることができる時計や時刻というのは、素敵な発明だとも思うが(その時間に約束すれば会えるわけだから)、それほど絶対視するものなのだろうか。

 起きる時間も寝る時間も、日によって違うし人によって違う。
 それが人間の自然で、
 仕事は人間のためにあるものなんだから、その自然より仕事が優先されるのはおかしい。

 

 仕事なんだから、という理由で、自分の身体が欲することを自分の身体が欲しているときに与えられない、というのが、どれほどストレスなのか。

 わたしにとっては、それをそれほどストレスと感じていなさそうな人々がたくさんいることの方が驚愕なんだけれど。

 

 万国共通に区切られた時間で、わたしの生きる人生を区切って拘束しようとする動きが、すべて苦痛だ。

 そうやって関わる人々のことが憎いわけでも、嫌いなわけでもないけれど。

 ただただ、窮屈で、重たいのだ。

 

 もっと自由になれる世界に、みんなで行こうね。

 わたしが連れてってあげるから。