「人を傷つけたくない」と「ラフ」(自曲)

 さっき書いたこの記事↓

 の話題の曲、

 「愛別離苦」の次は、アルバム「哀と傷」を連続再生してると「ラフ」になるんだよね。

 この順番にしたの、我ながら大正解だったな。

 わたしも貴方も、歩いていくんだ、っていう感じで。

「ラフ」の1番の歌詞には、結構わたしがずっとずっと言ってきたし今も言い足りないぐらいずっと言いたいことが詰まっています。

「 傷つけないように生きてるのに
  僕を刺す言葉も 嬲る奴らも 一向に消えやしない
  前世もそうさ きっと来世もそうさ
  割りに合わない自己犠牲を重ねてるんだ
  何を望むか
  口に出してみなけりゃ
  自分自身にさえ届かないぜ
  それを孤独と言うんだ
 」

 人を傷つけることを恐れるのはね、多分、自分に刺さったトゲが抜けていないからなんだと思うんだ。

 確かに、人を傷つけたい人なんていないよ。
 いるとしたら、その人もトゲが抜けていない人。
「自分は人を傷つけない」と誓うことで、そのトゲを庇う人もいれば、反対に「自分だって人を傷つけてやる」と逆張りすることで、自分を守る人もいる。

 でも、人を傷つけることを恐れていたら、自分が何かを望むことにも制限をかけてしまうんじゃないかなあって。

 それで窮屈になっている人を、自分自身を含め、けっこう見てきた気がするのね。

 傷つくことの苦しみを知っているから、そりゃ、そうなんだけど。

 でも、人を傷つけることに対する恐れは、やっぱり、自分が生きていく上で重すぎる荷物になりかねない。

 わたしには叶えたい夢があったから、その荷物を抱え続けることはできなかった。

「人を傷つけたくない」と思いながら「自分らしく生きたい」と進むのは、ブレーキ踏みながらアクセル踏むぐらいしんどいことだから。

 それにいつからだろうな、わたしは自分が傷つけられることも、それほど怖くはなくなったのかもしれない。

 厳密に言うと、あまり傷つかなくなったしね。

 誰に何と言われようと、わたしにはわたしという帰る場所があるから。

 だから、
「もーーーいいじゃん、人を傷つけることを恐れずに、思い切って望みを口に出してみようよ。どうせ自分が気をつけてたって自分を傷つけてくる奴は変わらずいるんだから、自分だって思い切ってもバチなんか当たらないよ、自分で勝手に我慢して自分ばっかり我慢してる! って人を恨むのもやめようよ、やめたい」
 っていう気持ちでいたら、この詩を思いつきました。

 親が人間ドックから帰ってくるのを待ってる時に、ハッと思いついたフレーズで、そのまま一曲できた、っていうやつです、この曲。

「人を傷つけたくない」っていうのはさ、「わたしはこれだけ傷ついたんだ!」を、そのままだと受け入れてもらえないから、その立派な言葉として人に伝えようとしているんじゃないかな、本当は。 っていう気が、わたしはしています。 人によるし、場合によるけど。

 で、その傷つきは多分、自分が大切にしているものやことや自分自身を否定された、ということなんじゃないかって思うから、
 じゃあ、それを今からでも肯定しようよ、
 自分の望みを、人を傷つけるものかもしれないけど恐れずに口に出す、っていうのも、その「肯定」の一工程だよ、って思う。

 ちょっと曲の話からは逸れたかな。

 でも、そう、
「人を傷つけたくない」も、「人に否定されたくない」も、両方とも人の目なんだから、
 そんなもん振り切って自分らしく生きようぜ、願い叶えようぜ!
 みたいなことが腹の底で燃えていた時に、この曲が降ってきた、という話をしたかったです。

 もちろん、その炎は今でもわたしの腹の中で燃えています。

 そのせいで人を燃やしちゃうこともあるんだけどね。

「愛別離苦」「ラフ」が入ったアルバム「哀と傷」は、CD・DL版共に好評発売中、各種音楽配信サービスでも配信中です。

CD版「哀と傷」の詳細はこちら→https://shobuwi.booth.pm/items/2227049
DL版「哀と傷」の詳細はこちら→https://wishobu.bandcamp.com/album/sorrow-and-wounds

spotify↓(Apple Music, YouTube Music, LINE MUSIC, Amazon各種サービスでもご視聴いただけます。「宵部憂」で検索してください)

 

愛別離苦。

 このアルバムの7曲目の、「愛別離苦」をまた聴いて、この曲を作った時のことを思い出していました。

 大切な友人とお別れしたときでした。

 自分が何とも思っていない相手だったらどう思われようがどうでも良いけど、自分が特別に大切に思っている相手との別離だったので、とても悲しかった。

 それも、爽やかに吹っ切れるような、そんなお別れではなかったから。

 だから、そんな傷心の自分を慰めるみたいに、その悲しみに寄り添ってくれるような曲を作りたくて、

 真っ暗な夜の中に、真っ黒に見える川があって、その先は二手に分かれていて、頼りないわたしの船と、友人の船が流れていて、
 ふと見上げると星が澄んだ光を放ってちらちらと夜空に散りばめられていて、
 ほんのりと、温かく優しい炎みたいな光を纏った蛍や蝶が、そこここを飛び交っていて……

 そんな景色を幻視して、その景色に包まれているみたいな気持ちになりました。

 なんて言ったらいいのかな、等身大の人間としての気持ちは、とても悲しい。
 それだって全く否定しようがないし、否定なんてしない。

 悲しんでいるわたしを慈しみたい。

 ただ、同時に、きっとこの別れにだって、広い視野で、高い視点で見たら、絶対に意味があるから。

 その光景は、わたしにそう語りかけてくるようでした。

 だから、真っ暗で、見えるものなんてそんなに無いけど、気配や、手触りや、音や、光たちが、
 わたしに寄り添ってくれて、
 わたしはそれらと共に、別れ、離れていく友人の道幸を祈りたくて、

 そんな、わたしに寄り添ってくれる存在たちをストリングスで、
 澄んだ、ひんやりしているものもあれば温かいものもある、そんな光たちをピアノで表現してみようって思いました。

 音数は少ないし、編曲もシンプルすぎるくらいシンプル。
 真っ暗だけど、自分を包み込んでくれる世界だから、静かだけど何かの胸に抱かれているような、そんな音を作りました。

 歌うときは、その、わたしが幻視した世界を思い浮かべながら、友人に向けて歌ったつもりです。

 今、その時と少し似たことが起きてしまっていて、だから、改めて聴き返していました。

 わたしは自分の感情に浸るのが、言ってもそんなに得意ではありません。

 すぐ「あ、これをすればいいんだ」とか、「あ、じゃあこう動けばいいじゃん」みたいに、解決策を出してそれに邁進しがちで、その前の「自分の感情をちゃんと感じてあげる」を、雑にしてしまいがちです。

 だから、その時の自分の感情にぴったりの曲を聴くことは、わたしにとって、「自分の感情にしっかり浸って、自分の相手をしてあげる」ことを、とても手伝ってくれます。

 自分の曲を聴くこともあるし、思い出の曲を聴くこともあります。

 わたしの曲が、誰かにとってもそういう曲になれていたら、なったら、わたしはまた一つ自分のシンガーソングライターとしての本懐を遂げられます。

 曲を聴いて、「ああ、自分、こういう気持ちだったな(今こういう気持ちだな)」って、しっかり浸って、
 その浸った時に湧いてきたことをこうしてブログに書いたりだとか。

 例えばそういうことが、自分の感情を自分で抱きとめて、慈しんであげるってことなんじゃないかって。

 もちろん方法はこれひとつじゃないですよ。
 ただ、わたしが今一番合っている方法がこれなんです。

 音楽は、人に感情を許可してくれる力がある。

 思えば、わたしは曲を聴くだけでなく、曲を作ることによっても、「自分の感情を感じ切る」をやっているのかもしれません。

 あの、詩を書くときの集中力。
 あれはまさしく、自分の感情の海の中に深く潜って、海の中の世界を探検するようなものですから。

「愛別離苦」が入ったアルバム「哀と傷」は、CD・DL版共に好評発売中、各種音楽配信サービスでも配信中です。

CD版「哀と傷」の詳細はこちら→https://shobuwi.booth.pm/items/2227049
DL版「哀と傷」の詳細はこちら→https://wishobu.bandcamp.com/album/sorrow-and-wounds

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宣伝についてのセルフ作戦会議。

 どうも、宣伝が苦手な宵部憂です。

 わたしの尊敬する人が「売らないと売れないよ」って言っていて、わたしは「だよねっ!」と思うと同時に「どうしよ……」って思ったので、ブログを書いて色々考えてみることにしました。

 人に話しながら考える人もいると思いますが、
 わたしはブログに書いて頭を整理するのが一番やりやすいし、人に負担もかけないし、自分とより深く繋がれる気がしていいなっ!という結論に達したので、
 もうここを大学の研究だけでなくわたしによる「わたし」の研究ノートとしてもフル活用していこうと思います。

 宣伝が苦手な理由はこの辺の記事↓に書いた感じです。

 つまり「作品について説明なんかできるわけねーだろ甘えんな」ということです。

 ただ、別に宣伝=作品の説明とは限りませんし、作品を作ったら絶対何か言いたいことも生まれるはずだよなぁ、自分の中にその萌芽は間違いなく感じるし……と思っているところでした。

 まず、足掛かりとして最初に考えたいのは、大学で作品を作ってそれについて説明するのは全然悪い気がしない、どころか、楽しいかも、という点についてです。

 これは、そもそも「大学で研究しながら作品を作るとはそういうことである」と最初から了解している上に、勉強と言語化がめちゃくちゃ楽しいから、という答えが既にわかっています。

 だから多分、作品の説明と宣伝が一体化するのが嫌なんです。

 これは、「作品は作品なのだから、説明で説明し切れるものではない」というのが、大学のような場では共通認識になっているから構わないけど、アカデミアやアート系の世界の外ではそうとは限らないので、説明してしまうと説明で満足されてしまいそうで嫌だ、ということです。

 じゃあ、宣伝するときに、作品を説明しなければ、たぶん喜んでわたしは宣伝……というか、「宣伝!」って感じのエネルギーのものではないと思うんですけど、「みてね」ってできると思います。

 じゃあ何を伝えるのか。

 既に思いついているのは、「その作品を作るに至った経緯」ですね。

 どうしてそれを閃いたのか、どうしてその手法を選んだのか、作っている時に何があったのか、何を感じたのか……
 を、ただ事実を列挙するんじゃなくて、ストーリーとして、その記述自体が詩みたいになるように、美しい文章で書いてみたい。

 今までも、何を考えて作ったか、はブログに書くことがあったんですけど、大学での書き方が癖になってるのかな、すごく堅い書き方しかできなくて。
 もっと随筆みたいな感じで書きたいです!

 他にはなんだろう、「その作品に自分で触れたら何を感じたか」も、随筆みたいに書きたい。

 わたしのモットーに、「聴いた人の人生とともにある音楽」っていうのがあって、それはつまり、聴いたタイミングによって全然違うことを気付けたり、感じられたりするってことなんだけど。

 それをまず自分が体感して、その体感を書いていきたいなって。

 わたしの尊敬する人は、自分で商品をプロデュースすることはあるけどわたしみたいに全部自分で作る人ってわけではないけど、「自分が自分の広告塔になる」ってよく言っています。

 そういうのって、わたしは全部自分で作っているから自画自賛みたいで嫌だな、その人の真似はできないよって思ってたんですけど、ちょっとそれはそれで驕った考え方かもしれなくて。

 作品ってね、神様と共同で作るものなんですよ。神様あるいは自分の霊感、とにかく、少なくとも自分の力で全て作られてるわけじゃない。
 たくさんの偶然や運命の力を借りて、たまたまその形に仕上がった、この世に二つと無いし何か条件が違ったら別のものになっていたっていう「奇跡」なわけです。

 だから自画自賛って言葉もおかしくて、それは「自画」では別にないわけですよ、わたしに言わせると。

 たとい自画だったとしても、それは作品として自分とは別の自我を持っているわけです(自画だけに)。
 自分の子どもは自分ではないのと同じで、自分が生み出した作品を褒めることを厭う気持ちは、正直言ってわたしの中にはもともとはありませんでした。

 だってそれ、もうわたしとは独立した、あんま関係ない存在なんだもの。

 でも自分の人生の中に存在していて、自分に何かを気づかせてくれるんだから、そりゃ、本当は褒めたいし、何遍もエッセイ書きたいかも。

 じゃあ、もともとはそんな気持ち無かったのなら、どうして持つようになったのかっていうと、
 ……人の目を気にするからでした。

 はい! ということは、この自粛心(わたしの今思いついた造語ですが、なかなか良い言葉ができたかも)は要らないってことですね! 捨てます!!!

 わたしは思えば昔から、自分の能力やできること/できたことを自分でアピールしてはいけないって思ってきたかもしれません。

 当然、自慢してると言われるからです。

 それもまた当然で、だってわたしは努力で獲得できた力って無いから、共感なんてされるわけがないんです。

 わたしがしてきた/している努力があるとするならそれは、もともと持ってる力を発揮できるように周囲の環境や自分のやり方を整える努力です。

 やっぱり、あんまり共感されないかもしれません。

 でもそもそも、わたしにはあんまり共感は必要ありません。

 それより世界観の魅力で勝負するからね。

 というわけで、自分大好きかよって思われるのはまだ怖いけど、自分の曲にまつわる随筆、これからいっぱい書いていこうかな。

 実際わたし自分大好きだしね!!!!!

 そんなん超今更だな!!!!!

 自分が嫌いで自分の世界観作り込めるわけないもんな!!!!!

人に何かをしてもらって喜ぶのが苦手な話。

 相手が友達ならいいんですけど、つまり信用できる相手ならいいんですけどね。

 相手をつけ上がらせたくないからです。

 そもそも、相手の意図もわかんないし。

 こっちが喜ぶことによって向こうが増長したら面倒くさいなって思っているからです。

 でも、それって受け取り下手っていうか、「わたしごときが何かしてもらっていいはずがない」と思うから、すごい感謝やお返しをしないといけないって思うから、喜ぶだけで相手に貸しを作っちゃうって思ってるんでしょうね。

 もっと爽やかに受け取りたいな。

 わたしがいつも応援している配信者の方が、スパチャをめちゃくちゃ爽やかに受け取るのが格好良くて格好良くて。

 あっけらかんとしていて、投げた側も投げられた側も、いい意味で軽い気持ちなの。恩とか貸し借りとか、べちゃっとしてない。

 そういう受け取り方をわたしもできるようになりたいな……

 わたしが気持ちよく受け取ったら向こうも嬉しいってわかってるから、そもそもこんな悩み方をするわけなんですけど。

 受け取れないからお返しをしなきゃ、でもそんなのしんどいからそもそもいらない、みたいな悩み方じゃなくて、
受け取ったら相手が喜んだり誇らしげな気持ちになったりするから、それが嫌」って笑。
 どんな悩み方だよ笑

 それだけ善意に対しては喜んであげるという礼儀作法が染み付いていて、それがめんどいということなのかしら。うーん……

 あるいは、
 自分の中の埋まらない穴を、わたし(たまたまわたしだっただけ)や他の人に認めてもらったり喜んでもらったりすることで埋めようとしている人の自分を充足させる活動に手を貸したくない
 ってことなのかしら。

「手を貸して」って言われたら喜んで手を貸したいんだけどね。
 本人が無自覚なそれに手を貸したくない。

 だってそれは美しくないから。

 美しくないプロセスに手を貸したくない。
 自分がそのプロセスの一部になりたくない。

 そうだ、これな気がする……!

 仕事をめっちゃ選んでしまう気質なのも、この信念のせいだ。
(「せい」って書いたけど、直す気とか全然ない笑)

 太陽星座乙女座の、やべーレベルの頑固さ潔癖さ。美しさに対するこだわりのヤバさ。

 そういうわたしの気質がありありと現れてる気がする。

 ということがわかった上で、じゃあ爽やかに好意を受け取るにはどうしたらいいのかな。

 相手が美しい気持ちでこっちに好意を投げてるかどうかなんてわかんないし、そんなの他人の領分だから、そもそも口を出すことではないよね。

 だからわたしが意識というかやり方を変えれば、「爽やかに受け取る」は実現できるはずなんだ。

 ……わかった。これからやってみることを思いついた。

 人の好意を、「そういうもの」として受け取るんだ。奇跡みたいなものじゃなくて。
「人はわたしに何かくれたりしてくれたりするものなんだな」って。

 そして、「やってやったのに」的な雰囲気に対してはとにかくスルー。罪悪感も持たない。

 情を、つまりベチャッとしたものを、自分の中に取り込まない。

 そうすれば、向こうが承認欲求でやってても、それを満たさないという形で加担しないことになる
 何もくれるものの受け取り拒否までしなくても。

 罪悪感とか負い目って、人の恨みとか僻みに取り憑かれるのりしろになっちゃうよね。今日スーパーからの帰り道に考えてた。
 悪霊に悪さされるのって、自分が悪いわけでもないのに悪霊の恨みのこもった声に「ごめんなさい」って思っちゃうからなんじゃないかな、って。

 でも、世の中の大抵の恨みって、本当は自分に向いているわけじゃないんだよね。っていうか、なんていうんだろう、本当は自分に向けられるべきじゃないもの。
 恨みをぶつけてくる本人が、本当にぶつけたい相手にぶつけられないから、こっちに飛び火してるだけのもの。

 それにそもそも、わたしに何かを(して)くれようとしたのはその人なわけで、その人の選択じゃあないですか。その人の勝手な好意なわけじゃないですか。
 わたしがその人の気にいる返答をしなきゃいけない筋合いは全然ないよね。
 相手が子どもならともかく、大人なら、自分の選択には自分で責任を持って、帰ってくるどんな反応も受け取ってね(もちろん嫌な気持ちになったり誰かに相談したりしてはいけないというわけではない)、っていうのが道理だよね。

 はい。
 また一つ練習することが増えました。
 何か自分にとって嬉しい、誰かからの好意をいただいたときに、どんどん練習していこうと思います。

 宵部

 

 

 

 

わたしと嫉妬とわたしの話。

 あんまり具体的なことを書くと身バレ的なことが起こる気がするので、抽象的なことしか書けないんですけど、わたしと嫉妬の歴史を書いてみますね。

 と言っても、わたしは何というか本当に色々恵まれていて、人に嫉妬したという記憶がぱっと思いつく限りでは2回くらいしかありません。

 あ、でも、子どもの頃に、子どもなのに有名になっている子に対しては幼心に嫉妬心を抱いていたのは確かです。「わたしだってもっとできるのに」ってね。
 それはまあ、確かにその通りだったと思います。わたしはもっと幼い時から良いところをもっともっと伸ばしてよかった。
 人の機嫌を気にしてキョロっている場合ではなかった。

 でも、それはトラウマティックな恐怖体験のせいだし、それがわたしの身に降りかかったことは、多分意味があったことだったのです。
 少なくともその恐怖やもだもだが無ければ、わたしは今のような凄みのある表現にはたどり着けていないと思います。

 若くして成功することだけが良いことではありません。
「成功」するということは、ひょっとしたら、一人で考える時間が少なくなってしまうということでもあるでしょうから。

 だって、成功したら周りに人がいっぱい来るでしょ。
 自分もまだ考えながら、時に揺らぎながら、手探りで活動していっているのに。
 周りの人が色々言ってくるわけで、その色々言ってこられることの一つ一つが自分にとって大切なものなのか、害をなすものなのか、とか、まだよく分からないうちから、つまり自分のことがよく分かっていないうちから、大勢の人の声や視線に揉まれるのも、それはそれで大変そうだなって思うのです。
 成功する前に迷走するのも、成功してから迷走するのも、どっちのパターンもあるよなって。
 だからどっちがより良いとか、どっちが勝ちとか無いなって、今は思えます。

 わたしは今の、
 色々経てきた、
 自分のことがよくわかっているし、
 わからない部分があることも受け入れられるし、
 わからない部分のせいで迷ったらその部分を「わかる」にしていけるし、
 自分のことを人に伝えられる、
 この自分が好きです。
 誇りに思っています。

 だから今は、嫉妬ってありません。
「あ、あの人のやってることいいなー(自分もいつかやろう)」とは思うけど、「あの人みたいにわたしもなりたいのに……!」とか、「わたしのほうがすごいのに……!」とかはなりません。
 人と比べて焦ることもない。

 あの人みたいにならなくていいし、なれなくていいし、わたしにはわたしの活動がある、って分かってるから。

 でも、昔はまだまだ自分の魅力を信じきれなくて。
 自分には何が合って、
 何が無いのか(そして無いことは悪いことではない)、
 自分が持っているものを何もわかっていなかったから、
 自分に似ていて、でも自分より人気な人が妬ましかったし、「わたしはあの人みたいになれない!!!」って絶望しました。

 あとね、自分が本当は「それ」じゃないのに、頑張ってなろうとしているものに、自分よりずっとずっとなっている人にもムカついたり「抜かされちゃう!」って思ったりしたな。

 でも本当は、それ、自分じゃなくて、「それ」になった方が人気になれる、受け入れてもらえる、って思うから、頑張って自分じゃ無いものになろうとしてた、だから当然抜かされるしそのことで嫌な気分になる(だって努力が実らないってことだから)っていうカラクリでした。

 具体的に言うと、頭が良くて、言うことがしっかりしていて、清楚で聡明な感じの優等生ですね。
 わたしはどうしてもそこに変人パウダーを振りかけてしまう自分が嫌だったんですよ。
 だってなんか、オタクっぽいし、美しくないなって。
 でも、喋りたいことはめちゃくちゃ早口で喋っちゃうし、わきまえられないし、喋りすぎちゃうし。
 たぶん、浮くし。

 ……いや、よくよく振り返ってみると、わたしが変人でいられるって、
 それだけ夢中になっていてかつリラックスできる場に身を置いているってことなので、
 むしろわたしにとってとても好ましい状態だったわけなんですけど。

 でもわたしは、その変人なところが受け入れられない(と感じた/察知した)場では、周りから浮かないように「頭が良くて、言うことがしっかりしていて、清楚で聡明な感じの優等生」を演じることで周囲に溶け込もうとしてきたわけです。

 だから、自分とペルソナが被りそうな人を見ると「抜かされる!」「この子に注目を全部取られる!」って焦り始める、ということが起きてました。

 だから思うのは、嫉妬って、

「(あの人じゃなくて)わたしを見てよ!」

 っていう自分の内側からの叫びなんだと思うんだけど、
 これって自分の本音(魂)が自分に向かって言ってるよねって。

「もっとわたしを理解してよ!」って。

「そんな他人のことばっか羨んでないでさあ! あんた(=わたし)にだって他の誰にもない、人が羨むようなものがこんなにあるのに!!!」
 ってね。

 だから、自分への不理解からくる症状なんじゃないかなーって今は思ってます。

 だからわたしも、何か脇が甘くて、嫉妬みたいな気持ちが湧いたら、
「わたしは何かを我慢しているのでは?」
「何か自分に制限をつけていて、自分の欲求を見ないフリしているのでは?」
「だから好きにやってるあの人に腹が立つのでは?」
「その制限とはなんだろう?」
「その制限は、何かの傷から来ているのでは?」
 ってまた謎解きをするチャンスと思おうと思います。

(「謎解き」とはなんぞや? という方は是非こちらを読んでみてね↓)

 今回はここまで。

 YouTubeだったらご視聴ありがとうございましたって言うところだと思うんだけど、ブログだとなんて締めたらいいのかな?
「最後まで読んでいただいて〜」だと重すぎる感じがしてさ〜。

 あ。

 ご読了ありがとうございました!
(う〜ん、やっぱ日本語おかしいかな?)

 調べたら、「ご清覧ありがとうございました」が使われるみたいです。
 いいかも。
 どんなアホなこと書いてても、この言葉で締めるだけで頭良さそうになるし笑

 はい。

 こんどこそ以上です。
 ご清覧ありがとうございました!

 宵部

 

セルフケア(セルフペアレンティング)について。

↑この記事の最後の方で少し触れた「セルフケア」「セルフペアレンティング」について書きます。

 宵部式セラピー法のコーナーです!!! ドンドンパフパフ!!!!
(宵部式セラピー法ってなんか急に胡散臭くなったな)

「セルフケア」とは何かというと、つまり「親に満たしてもらえなかったものを自分で満たす」「自分で自分を満たす」ことです。

 まず大前提のお話。

 この世に、完全に子どもを満たしてくれて完全な育児をしてくれる親は存在しません。

「実家が太い」という言葉があるように、言葉の通じなさや目に見える形での子どもの扱いの悪さなどには差があるとは思います。ここには親の人間力が出るわけです。

 ただ、どんな親の元に生まれても、絶対に親との関係の中での傷つきや欲求不満は生まれます。

 なぜなら、親はこの世で一番最初に出会う、縁深い他人だからです。

 そして他人とは、自分の思い通りに動いてはくれない存在だからです。

「実家が太」くて親との関係が良好で悩んでいないように見える人でも、程度の大小はあれ、いつかはそのことにぶち当たるときは来ます。

 それこそが人生の黒幕だと思います。
 Eveさんの曲「ドラマツルギー」の歌詞に出てくる「黒幕」って、わたしは親(との関係の中で生まれたトラウマ)のことだって思ってるんですけどそれは脱線なので今はいいや。

 だから、その欲求不満の穴を自分で埋めるのです。
 あるいは、その傷を自分で看てあげるのです。
 それがセルフケアです。

 これは、「他の人が埋めてくれないから自分で埋める」みたいな、つまり寂しく一人になる、ということではありません。

 そもそも、そこを他人に埋めてもらおうとすると、とんでもないことになります。

 恋愛で言うと「重い」です。

 だって相手に自分の理想の親になってもらおうとしてしまうわけだから。

 結果として、人間関係が拗れます。

 それに、「重い」と感じる人だけでなく、相手の充足をコントロールできる存在になってしまうことで、自分が主君になったような心地になり、暴走し始める人間もいます。
(大抵そういう人は、「自分は他人より優れている(べき)」と思っている人です)

 そういう人に養分を与えてしまいます。

 ということで、セルフケアやりましょう。

 セルフケアのいいところは、自分を肯定してくれる人に頼らずに(もちろん悩みを人に話してはいけないということではありません。ただ、解決に他人の共感を必要としなくなるということです)、自分の悩みを解決に導くことができるようになっていくだけでなく、その悩みの解決をしていくうちに、自分が人間的に成長できるところです。

 ようするに、悩みから得られる経験値(人間としての・人生の)が跳ね上がるということです。
 人間としてのレベルが上がりやすくなります。

 人間としてのレベルが上がるとどうなるかは……あの……わたしがこれからどうなるかを見ててください!笑

 い、今は何者でもないかもしれないけど、絶対何かになるんで!

 ということで早速方法を書いていきます。

0 悩みが発生する。

 ここからセルフケアスタートです。
 あ、言い忘れましたがわたしがいつもやっている方法を書くので、人によっては合わないかもしれません。
 そういう方は、「自分で自分を満たす」系の文献を読んでみると、自分に合ったやり方に出会えるかもしれません。
 わたしは色々本を読み漁って今から書く方法に落ち着きました。

1 悩みを分析する

「分析」というと堅っ苦しいですが、つまり「わたしはこれの何を悩んでるんだ?」と自分の中を探します。
 このとき、頭で考えるのではなく、自分の感覚がしっくりくるものを掴むことがポイントです。

Point! これは「いつ」の問題なのか?

 まずここで最初にぶち当たるトラップがあります。
 ここにまた「親」が関係してくることが多いんですが、親じゃないこともあります。

 人間は、過去に受けた傷を想起させてくるような出来事が起こると、そこに過剰に反応するようにできています。
 だから、本当は今は問題ではないかもしれないことを、過去の傷に似ているからという理由で悩んでしまう、という現象が、わりとよく起きます。

 たとえばわたしは人の不機嫌や怒りが死ぬほど怖いのですが、それは幼い頃から我が家が定期的に父親の不機嫌によってヤバい感じになるという経験を繰り返してきたからです。
 でも、小さな子どもの頃はともかく、今となっては、不機嫌な人が同じ空間に存在しているからといって、死んだりしないことは明白です。

 このように、これは「昔の傷の思い出し」なのではないか、そしてそれはいつの傷なのか、を整理しておくことが、問題解決の早道です。

「なのではないか」というより、悩みの本質は「昔の傷の思い出し」です。

 昔に傷を受けたから、もう傷つかないように、生きるために身につけてしまう癖というのが、誰にでもあります。
 アダルトチルドレンの分類などは、その癖の分類のように、わたしには思えます。

 そして、その癖のせいで、似たような悩みをぐるぐる悩んでいる、ということが人生には起きがちで、
 そしてそういった悩みは、根本の傷を看てあげないと、一つを解決してもまた似たようなことがすぐ起きる、ということになりがちです。

 というわけで、昔の傷、その悩みの原点に立ち返ってみましょう。

2 自分の感情を許す

 ここで、悩みの根本がわかったら、それは傷なので、
 過去に受けた苦痛や悲しみがそこには眠っています。

 この苦痛や悲しみを、思いっきり自分自身に感じさせてあげることが必要です。

 なぜかというと、「それは自分のせいだから」「これぐらい大したことない」などで、感情を抑圧していることがほとんどだからです。

 その抑圧は、苦しみの大きさによって生み出されているわけですが。
 心の防衛反応というやつです。

 苦しみの理由(原因)を自分に帰することで、この苦しみはコントロールできるものだと思ったり、
 苦しみ自体を自分自身で軽視したりします。
 そういうトラウマティックな経験自体の記憶がやけに断片的なのも、防衛反応です。

 そしてその防衛反応から来る傷の自己責任化や軽視が、他人の言葉によって強化されてしまい、さらに悲しんだり怒ったり叫んだりできなくなる、ということも、生きていると積み重なります。

 でも。

 心に傷を負わせられた当初は思えなかった、「自分のせいではない」「ものすごく大したことだ」「自分は怒っていい、悲しんでいい、叫んでいい、何をしてもいい」と自分に言ってあげながら、思い切り、泣いたり暴れたり叫んだりさせてあげてください。

 他人が許さなくても、自分で許してください。

 この時、同情や共感は、自分自身以外には一雫も注がなくていいです。

 思い切り暴れてください。

 暴れるのが癖になっている人は、泣いてみてください。

 人を糾弾しなくても、あなたには泣く権利が死ぬほどあります。

2.5 伝える

 こうして解放できた感情を、あなたが一番伝えたいと思う人に、思い切って伝えてください。

 自分一人で勇気が出なければ、親しい人や専門家(カウンセラー、セラピスト、お医者さん)の助けを借りながらで全く構いません。

 親や兄弟や昔親しかった人などへの恨みなら、思いっきり口汚く罵りましょう。

 助けてほしいなら、一切の遠慮を挟まず「助けて!!!!」と叫んでみましょう。

 ……えっと、もう例が出てきません。
 たぶん、わたしの中に眠っていた本音(言えなかった感情)は、この2つに尽きるからかもしれません。
 今後思いつくことがあったら追記します。

 伝え方も、あなたが一番得意とする方法で構いません。

 テキストメッセージでも、電話でも、ボイスメッセージでも、手紙でも、会って話すのでも。

4 伝えたらどうなるのか?

 おそらく、何かが起こります。
「自分は無力じゃなかったんだ」と思えるようなことが。

 わたしは、ずっと謝ってくれなかった父親が謝ってくれて、なんか、「わたしって無力じゃなかったんだ、わたしの感情には力があったんだ」って、思えるようになりました。
 それまではずっと、「わたしが泣こうが喚こうが意味がない、力が無いと。力が欲しい」って思ってたんですけど、
 感情だって力だったんですね。感情を伝えることは力だった。

「それでも、どうにもならなかった……」という場合、
 もしかすると、……怪しくなってしまってアレなのですが、もしかすると先述の生きるために身につけた癖が抜けきっていなかったり、遠慮してしまったりしているのかもしれません。

 でもまずは、そんな自分を絶対に責めないでください。

 あなたは自分のために戦ったんです。

 その勇気はとんでもないものでしょう。死ぬ覚悟レベルでしょう。

 その勇気を出した自分のことを、めちゃくちゃに、デロデロに褒めてあげてください。

 それで、思い切り休んで(休む=何もできない自分を許す。次項5参照)、エネルギーが回復して、また挑戦したくなったら挑戦する、ぐらいに考えていきましょう。

※もっとも、関わるだけで危険という相手もいると思います。
 言うまでもないですが、そんな相手にはこの「伝える」をする必要はありません。多分、あなたもその人に本音を聞いてほしいとは思っていないですよね、だって危険な人だもん。
 危険なその人に何かを聞いてほしいというよりは、その人から助けてほしいという思いを、誰かに言いたい、というケースが多いんじゃないかと推測します。
 身の安全はまず第一です!

Point 「何かが起こる」

 この「何かが起こる」こそが、レベルアップの瞬間です。おめでとうございます!

 レベルアップ、つまり成長なので、自分にできなかったことができるようになる--本当のことを言うと「(傷のせいで)できないと思い込んでいたことが、本当はできるんだと思い出す」ことになります。

 わたしの例は上の項目で書いちゃったのでそれ参照です。
「自分は無力ではないし、人に助けてもらえる(人は自分を助けてくれる、親でさえ助けてくれる)」という認識を取り戻し、わたしはレベルアップしたわけです。

5 休む

 当たり前ですがこんなことをした後はめちゃくちゃ疲れます。

 なので、思い切り休みましょう。

 休むとはすなわち、「できない自分を無限に許す」ことだと、宵部式セラピー法では考えます。

 家事できなくても許す、
 勉強できなくても許す、
 ベッドから出られなくても許す、
 風呂に入れなくても許す、
 ゲームかYouTube見るかしかやってなくても許す、
 歯磨きできなくても許す、
 アイスばっか食ってても許す、
 人と関われなくても許す、
 人様に顔向けできない有様でも許す、
 許すどころか自分サイコー!!!!(これは思えなくてもいい、思えない自分も許す)

 っていう時間を存分に楽しんでください。

 休み方についてはこの記事でちょっと触れてます↓

 わたしは「ゴミクズみたいな自分を許す」っていう言葉が気に入ってるので、「休む=ゴミクズライフを満喫する」という言い回しをします。

 ちょっと楽しそうでしょ?

6 楽しいことやって、我慢しない生活に戻る。

 思う存分休んで回復してきても、「許す」は永久継続です。

 我慢しない、やりたくないことやらない、楽しいことやほっとすることをやる。
 そんな日常にゆるやかに戻っていきます。

 以上が、わたしがいつもやってるセルフケアでした。

 こうしてまとめて書くのは初めてでしたが、いかがでしたか?

 そういうわけで、もし今モヤモヤしていることがあるなら、

 そのモヤモヤはいったいどの傷に引っかかっているのだろう? という謎解きを始めてみませんか?

(わたしはこの謎解きが好きな変態なので、こんな記事を書きました。でも、謎解いて、自分の世界が広がるの、めっちゃ面白いよ!)

 

 

ヒーローって言葉に悲哀を感じる

ヒーローって言葉に悲哀を感じる

どうしてだろう

ヒーローになりたいけどなれなかったお話をよく聞くからだからだろうか
わたしにはヒーローが別にいないからだろうか

わたしの理想はお姫様で神秘の力を持っていて自分たちで星を守れるし優雅で高貴なセーラー戦士たちなので
ヒーローには別に憧れなかった

遊城十代が好きだけど
遊城十代には悪いが
わたしはあのキャラのヒーローな面やヒーローに憧れている面よりも
風の向くまま 気の向くまま な、旅人な面に惚れているので

そうだな

ヒーローというものの重圧に倒れてしまうとか
ヒーローになろうとしてなれなくて涙が溢れて
っていう話をよく聞くからかも

その健気さに胸が詰まってしまう
痛々しいと感じてしまうから

あとは努力とか挫けないこととヒーローは密接な結びつきがあると思うけど
わたしは努力や挫けないことができない人間だと自分のことをそう思い込んできたしそう言われてきたから
ヒーローの話を聞くのも嫌になったのかもしれない

わたしはさ辛いことやしんどいこと、つまり「試練」を「乗り越える」ことには別にエクスタシーを感じないからさ
あえてカタルシスじゃなくてエクスタシーと言ったけど
自分が生きる上でもそうだし、何かお話を読む時もそう

でもお話っていうのはそういう「試練→乗り越える」の部分がなきゃそりゃ盛り上がらないから、嫌ってわけでもないけどそんなに燃えることもなく、「まーそうなるわな」という感じで読んでる

そういう山場のシーンで「あーここでこのキャラに対する感情をこう描くのか、めっちゃグッとくるな」とかはあるんだけど

試練を乗り越える姿にはあんまり感情移入ができないし、したらしんどくて読めなくなってしまう

「なんでこんなしんどい思いしてそれを乗り越えなきゃいけないの? やめよーよもっと良い方法あるよ」ってなる。わたしの生き方は基本それだから

つまり必死に乗り越えようとしてる登場人物と考え方が違うので冷めた目線で見てしまう

非効率的なことしてんな、楽に、自分が1番好きで得意なやり方だけをやって結果出せば良いじゃん と

だから遊戯王は好きなのかもしれない

ライバルキャラも主人公たちも、もちろん葛藤を抱えてるキャラもいるけど、ゲームしてるとき楽しそうだから(まあ命がけの闇のゲームが「楽しい」みたいな、割と狂った意味での「楽しい」だけどさあ、いいじゃん清々しくて。歯を食いしばってるよりそっちの方がすごい好き)。
アニメではもっとストレートで、どのシリーズも(命懸けのものはともかく、でも時々命懸けであっても)殆どのキャラが「デュエルは楽しい」って言う
だから好きなんだろうな

あとは

ヒーローは孤独だから

個人としてではなくヒーローとしての力を頼られて
本当は寂しがっている

そういうイメージもある

少年の強がりというか

そうだね、わたしにとってヒーローは強がりの象徴なんだな

だから痛々しく感じるし、悲哀を感じるんだ

「弱虫なぼくだけど、ヒーローになりたい」って。

でもさ……
でもさ、
わたしはじゃあ君が弱虫なのは悪いことなの?って言いたくなっちゃうんだけどなあ。

カッコよくなりたいっていうのは素敵な願いだと思うよ、
でも、
「弱い」ことは、カッコ悪いことなの?

わたしはそうは思わない。

……うん、やっぱりわたしは遊戯王が好きだな。

だって武藤遊戯(表遊戯。物腰の柔らかい、普通の高校生の方)は、弱くて優しいまま、死ぬほど強くなるんだもん。
強くなるし、もともと強い(8年だっけ?かけてパズル解くとか普通にやばいしね)。

でも、いじめられっ子で、自分のことを弱いとも思っている。
闇遊戯に守ってもらってた面もある。

でも!
遊戯は、自分だけの強さを持っているし、
最終的にそれを磨き上げて、ものすんごく強くなった。
それは闇遊戯をはじめ、色んな出会いや別れのおかげでもあるけど、
遊戯自身の芯の強さもあると思う。

泰然自若としていて、物凄く心が広くて、でも自分の大切なものを脅かす存在は一切の容赦をせずに叩き潰す。

その、
自分の弱さから逃げて/逃げるために強くなったわけじゃないところとか、
何か役割に自分を当てはめていないところとか(遊戯は闇遊戯のような王様ではないし、遊城十代のようなヒーローという憧れもないし、不動遊星のようなみんなが期待している英雄や救世主っていうのとも違う。武藤遊戯は武藤遊戯。肩書きはないのに力を持っている)、
一切背伸びをしていないのにめちゃくちゃ強いっていうところに、
すっっっっごく憧れるし、すっっっっっごく好き。

だからやっぱり
「ヒーロー」には、「弱くちゃいけない」を感じて、ちょっと悲しくなっちゃう。

(遊城十代のヒーローへの憧れは弱さへの嫌悪ではないので、ちょっと別の話です。ただ無邪気な憧れで色々できてしまったからこそ問題が起きてとんでもない鬱展開になるって話なのですが、ここでは逸れるので割愛)

「弱い自分が嫌い」っていうのが根本にあると思うから。

……わたしはね、
やっぱりどうしても「自分が嫌いだから変えようと頑張る」ことが良いことだとは思えないよ。

自分を嫌いなまま、走らないでよ、お願いだから、って思うんだ。

「自分のここが嫌い」「〇〇な自分が嫌い」はさ、傷だと思うんだ。

その傷を看たり手当てしたり、手当てを頼んだりしないまま、走らないでよ、血が出てるじゃん、って思う。

自分のことを嫌いになってしまうって、とんでもない大事でさ。

ぜったい深い悲しみや絶望がそこにはギュッと圧縮されて入ってて。
その毒をまず吸い出して、傷の手当てをしなきゃいけない。
自己嫌悪や自己否定という毒を。

手当てについては、最近やっと言葉にできるようになったんだけど、

1.自分がそのとき感じた感情を、検閲せずに、「こんなこと思って何になるの」とかも言わずに、思い切り思わせてあげて、
2.思う存分それをしたら、本当はしたかったこと、したくなかったこと、言いたかったことを掴んであげて、
3.それを自分にやらせてあげる。やらなくていいよって、やりたくないことをやらない自分に許可を出して、他人がなんと言おうともNOを言う。本当に言いたかった人に、言葉を選ばず言いたいだけ言いたいように言わせてあげる。
Ex.これが全部終わったら、めっちゃエネルギー使って疲れてると思うから、めちゃくちゃ休む。休むというのは具体的には、何もせず、生産的なことを何もせず、人間としてやるべきことも何もしないぐらいの、ゴミクズみたいな自分すらもひたすらに許してあげる。永遠に、無限に、許してあげる。

これが、手当てなんじゃないかな。
これについてはまたいつかちゃんとブログで書くかも。

だからね……

自分が嫌いじゃなくてヒーローになったヒーローに、わたしはいつか、何かの作品か、現実でもそう思えるような人に出会ってみたら、また少しイメージは変わるのかもね。

弱くちゃダメだからってことでヒーローを目指さないでほしいいいいいい

そんな感じです。

委任しないでほしい 一部であっても。

「あなたはわたしを認めてくれるよね」、
「わかってくれるよね」、

 が、

 すごく、

 重い。

 その人の信頼を裏切りたくない、再び人間に対しての絶望を経験させたくないという気持ちと

 でもこの世には

「無限の許し」は、
 自分自身の中にしか存在しないから

 他人に無限の許しを求めることは
 不可能だし
 してはいけないこと

 一番言いたいことを、一番言いたい人に言えれば、する必要もなくなること

 それに

 わたしが「無限に許してくれる人」をやってしまったら

 その人は

 自分で自分を認めること
 許すこと
 を

 きっと辞めてしまう

 サボってしまう、って言うのかな。

「あの人がわかってくれるから」
 を、安心材料にする

 でも

 人の心のそんな、根幹の拠り所になることが
 重くないわけはないし

 そうやって人の心の根幹を握ったことにより
 自分が権力を持ったような気になって暴走し始める人間もいる。

 お母さんか、もしくは主君になったような気持ちになると思う。

 わたしは ” お母さん ” のほうだった。

 わたしは高3のとき、ずっと不安でずっと未来の幸せのために今頑張らなきゃっていう強迫観念に囚われて、でも多分何かが叶ってもまた別の目標を見つけてそれを逃したら不幸と絶望の底に沈むだろうからそうならないようにめっちゃ頑張らなきゃ頑張らなきゃ、一分一秒も無駄にできない……! っていう強迫観念まみれの不幸な生き方が嫌で、楽になれる方法を必死に図書館の心や生き方に関する本を読み漁って探して、えっちらおっちら実践してきて、だから、「自分で自分の気持ちを大切にする」ことは、少しはできるようになったと思う。
 楽になれる方法=自分の気持ちを自分自身が大切にしてあげること、って、わたしが「好き!」ってなったどの本にも書いてあったからさ。

 だから…

 簡単じゃないだろうけどでも…

 向き不向きも無く、生まれや育ちで決まるできる/できないもなく、ちょっとずつなら、できると思うんだ……

 セルフケア。

 セルフペアレンティング。
(self-parenting, 自分が自分の親になってあげること。グロリア・スタイネムが言ってた。自尊心や自分への愛を取り戻すために大切なこと)

 いきなり山を登るのは無理でも、目の前の一歩を踏み出してみるだけでいきなり何かが大きく変わってしまうことはないし。だから恐れることもない。

 わたしは貴方の一番深いところにある穴を埋めてあげることはできない。

 だってそこは、貴方自身が埋めるために開いているから。

 ちょっとずつ、自分の大切なもの、大好きなもの、もう失いたくないもので埋めていってほしい。
 それは実際に「もの」かもしれないし、感情かもしれないし、体験や感覚かもしれない。
 そこに「ひと」が入ることはない。
 でも、「その人といる時の、自分の好きな感情・体験・感覚」はいくらでも入れられる。じゃんじゃん入れてほしい。

 その穴を

 自分で見てあげてほしいな……

 人に売り渡したらいつか傷ついてしまうけど、
 自分で埋めたら、すごく豊かな気持ちになれるよ。

(具体的には、わたしは「自分は無力だ」と思っていて、そんな自分のまま生きていくんならもう生きていけないじゃん苦しくて理不尽で怖いことばっかりじゃん人生!!! って思ってたけど、自分で自分を満たせるようになったら、「わたしには力があるんだな」って思えるようになってきたよ。そう言ってくれる人も近くにいてくれるようになった)

 委任しないでほしい。

 貴方の本心やインナーチャイルドはそれを望んでいないんじゃないかな……

 

わたしはずっとみんなのお母さんだった。続・説明したくない話。

自分でやってくれ
喜ぶことも
悲しむことも
誰かに許可してもらうんじゃなくて。

できない?

知るかよ。

それはわたしに解決できる問題ではないな、少なくとも。

↑この記事の続き。

 もういつからなのか、どのくらいのケースがあったのかも曖昧だけど、小学校4年生くらいからかな、わたしはみんなの「理想のおかあさん」として人の話を聞いてあげることが多かった気がする。

 だから、普段は相手のことを何も否定せず、わたしの広い視野と柔軟な思考(熱い自画自賛)により相手の固定観念を相対化しつつ、共感もしつつ話を聞くんだけど、相手があんまりうじうじしてると物凄く突き放したことを言いたくなる。

 というパターンにやっと気がついた。

 そしてこれは、今のわたしの創作活動のスタイルとも全く同じだ。

 柔らかく包んで人の心を癒したり苦しみを昇華したりするものを作った後は、思い切り突き放したくなる。理解不能、もしくは怒りや恨みで。

 そうすることで主張したかったことは多分、いつもたった一つだ。

「わたしはお前のママじゃねえから。」

 だから、「私はこんなことをこの作品から感じてもいいんでしょうか?」「これはどう感じるのが正解なのでしょうか?」みたいな観客を想定すると、ウエエェッとなるのだ。

 そんなもん自分で決めてくれ。
 子どもみたいにお母さんの許可を求めないでくれ。
 そしてわたしはお前らのママじゃねえ。

 認めてくれ、許してくれ、という雰囲気を感じると、「そんなもんてめえで考えろよ。知るかよ。甘えんな。」って突き放したくなる。

 それはわたしが「わたしはずっと一人で決めて一人で頑張ってきたんだ……!」っていう突っ張りがあるからだと思っていたが、いや……そっちはダミーだったかもしれない。

 とにかく、「お母さん、認めて」っていう雰囲気がすごく気持ち悪く感じるのだ。

 もちろん、でも、人がその気持ちを抱えるに至るには、相当の傷つきや悲しみがある。
 わたしは絶対にそれを否定したり軽視したりしたくないしするつもりはない。
 ……でも。
 お母さんに満たしてもらえなかったものを、別の人間に求めると、とんでもないことになる。
 一言で言うと、重い。

 どんな人間でも、必ず限界が来る。
「お母さんみたいに」、「自分を満たしてくれない」時が来る。

 だから。
 お母さんに認めてもらいたかったものは、自分で大切にしてあげることが、やっぱり必要なんだと思う。

 他の人の助けを借りるなって意味じゃない。めちゃくちゃ借りるべき。借りまくったほうがいいと思う。

 でも、自分自身が自分自身に対する貢献率ゼロだったら、他人にどんなに認めてもらっても、それは。

 真ん中が埋まっていないから、根本的な解決になっていないと思う。

 いっとき、安らいだ気持ちになるだけだ。

 わたしは最近特に顕著だが、母と子のしんどい話を聞いても、子にだけ感情移入することができなくなっている。
「子のことももちろん助けたいけど、お母さんのことも助けたい。じゃないと解決にならない」と思っている。

 それはわたしがずっと「お母さんがしんどそう」と思いながら生きてきたからだと思っていたし、それも間違ってはいないが、
 それよりも多くを占める理由として、いつからかわたし自身が ” お母さん ” になっていたのだと思う。

 そして多分、その限界が
「表現活動をするときだけはわたしは ” お母さん ” になりたくない」になり(中高時代、女性合唱をやっていて、聖性や母性みたいなものを感じさせる歌を歌わなくちゃいけなかった時の気持ち悪さもある気がする)、
「もうわたしは ” お母さん ” になりたくない!!!!」に、今なっている。

 わたしの「説明したくなさ」は、なんと自分と母性の関係というあらぬところに結びついていたみたいだ。

 わたしは

 お前のママじゃない。

 

 だからわたしに認められようとしないでほしい。
 認めてほしいと思わないでほしい。

 そんな欲望をぶつけられても困る。

 だからわたしは説明しない。

 お前を突き放す。

鑑賞者の自由と責任。わたしは説明したくない(し、できない)。

映画やドラマを観て「わかんなかった」という感想が増えた理由
https://news.yahoo.co.jp/articles/3c638da1a0cc296b21019fed1c5b1b6cbca45ca9

 最近この記事↑を読んで、改めて考えてみたことを書きます。

 解釈のしようがものすごくある、説明が全然無い作品がわたしは好きです。

 だからって説明があったら嫌いになるってわけでは無いと思いますが、でも、「これはこういうことだよ」っていう説明がほとんど無い作品がかなりすきです。

 作品の中で起きたことの何が真実で何が嘘や夢なのか、作品で起きていることは何のメタファーなのか、それに何の意味があるのか、全てを自分で決めていいような作品が。

 もちろん、そこで自分だけの真実や解釈を見つけてもいいし、さらには「こんな作品何食って作ったんだ?」と思ったら、作者の背景や人物像を探ることで、もっと面白いことに出会えるかもしれません。

 だから、カフカやオースターやベケットがわたしはすごく好きなのです。日本だと別役実、寺山修司、大間九郎とか。
 映画で言うとヴィクトル・エリセとか。ノルシュテインとか。フィリップ・グラスにも興味あるなあ(追記:間違えました。グラスは作曲家ですね)。
 ゲームだと1番に思いつくのはやっぱゆめにっきだな。

 だからわたしも、自分の作品についてあまり説明したくないって言うのが、やっぱりありました。

 最近はそれも、「説明してはいけない」「作品だけで語らなければ」っていう、他所から持ってきた(つまり自分の本望ではない)観念なのかなあって思ってたんですけど、そうとも言えないっぽくて。

 説明することで、読者に解釈させなくしてしまうことに対する嫌悪がすごくあります。

「これはこういうことなのね(だって作者が/作品がそう言ってるし)」っていう思考停止が、わたしはすごく嫌です。

「自分にとってはこれはこういう作品」みたいに、作品に対してどう思ったかの責任を、ちゃんと鑑賞者自身に持ってもらいたいんです。

 作者とか作品のせいにするんじゃなくて、自分の責任で、自分の感性と知性で、作品を味 わってほしいし、作品について意見を持ってほしい。そしてその意見は、どんなものだってわたしは嬉しいんです。

 差別や人権侵害を除いて、何かを見てどのように感じるかはどこまでも自由だし、わたしはそのどこまでも自由で、だから人それぞれで絶対にかぶることのない、一人一人の解釈=その人にとっての「真実」を知りたいんです。それが感想とか考察だなってわたしは思います。

 だから、正解とか不正解とかないのになって。

 でも確かに、学校の国語の授業とかって、予め先生が言ってほしい答えがあって、それを言えた子が褒められる感じがありますよね。
 そして求められた正解じゃないことを言うと「ずれてる」と言われる。

 うーん、確かに、色々作品の背景だったり、この世界にその作品が存在することの意義みたいなのは、リテラシーを使って読み解かないと「ずれる」ことがある世界だと思います。で、国語の授業はそっちをやる練習なので、まあある程度の正解や不正解はある。
 そしてそのリテラシーを使った読解をすると生まれる感想っていうのもまたある。

 でも、芸術(やそれに類する表現)作品を見て思う「感想」っていうのは、あくまで「個人の」「自分自身の」体験としてはどうだったか、っていうことなので、正解も不正解もなく、むしろ自分が感じているのは何なのか? を信じて掴む、っていう方向性になるんです。

 そういう、客観的にこの作品はどういうものとされるのか?という「読解(正解不正解は一応あるかも)」と、自分にとってこの作品とは何か?っていう「感想(” 自分の感じていること ” なので正解も不正解もない)」が、相互に影響し合うのが、作品の鑑賞だと思います。

 だから何が言いたいかっていうと、わたしの作品に触れる人には、自分で、その作品に、自分だけの意味を見出してほしいんです、わたしは。

 だから説明したくないんです、その瞬間に止まってしまう感性や思考があると思うから。

 だから、ブログにあんまり作品のことは書けないな、一時期は書こうとしてたけど、やっぱり違う気がする。っていうのが今思っていることです。

 あ、一応言いますがわたしの言う作品というのは歌とかオーディオドラマとか小説とか、もろもろ「作品」って伝統的に言われるような形になってるものです。いずれそうじゃないものも作品と呼びたくなるのかもしれませんが、今はそれでいいと思っています。だからブログは作品じゃないので、むしろ自分の内側にあるものの言語化でしかないですね。

 そう、言語では足りないから作品にするんです。

 作品は、ブログ=言語で語りきれないことを語るために作っているので、そりゃブログ=言語で説明できるわけがないのです。

 そうすると、宣伝とか告知とかどうしたらいいんだろうなぁ……っていうことを、目下悩んでいます笑