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人を信じられないなら、今は信じられないままでもいいじゃない。

【連絡】:過去のブログのいくつかを非公開にしました。

というのは、今まで書いてきたことの全てを、誰にでも見せたいわけではないのかなって考えたから。

わたしは他人のことを肚の底では多分、ぜんぜん全然信用できていない。
それを人に依存しないと捉えるのか、安心できる居場所がないと捉えるのかは、側から見た人それぞれだし状況に左右されるんだろうと思う。

まあしかし、困った時に助けてくれる人がいるって心の底から思えているかと言われると、それはとても怪しいので、「人を信じきれない状態である」とは十分言って良いのではなかろうか。

で、今までのわたしもそんな自分には気づいていたし、
だからこそ人に心を開こうとしてきた。
勝手に決めつけて心を閉ざしているという自覚はあったからだ。

ちょっとずつでも助けを求めたり、自分を出したりする練習を、私生活でも心がけてやっているつもりだし、自分を出すことの一環としてブログも書いてきた。
自分の居場所を作るために、自己開示は大切だ。

でも、そのせいでわたしは、またわたしを置き去りにしてしまっていたのかもしれない。

心を開く練習がダメとか意味がないとかいうんじゃなくて。
ただ、自分を置き去りにして性急にやろうとしすぎていたのかもしれない。

だって、心の底では、今までの色々で疲れて、他人に対して自分のことを説明したり伝えたりすることにどこか諦観を持っている自分がいる。
誰かに何かを誤解されて、いや誤解っていうかあいてにそうつ相手にそう伝わったのなら相手にとってはそれが真実なんだと思うけど、わたし的には誤解されても、それを正そうと口を開いて、……そこから先、何かを言う気力もなく、「どうせ無理だ」って笑って口を閉ざす自分がいる。
もうこれ以上何を伝えればいいの? 伝えて何かが変わるの? そもそも伝えて理解されるの? ってうんざりしてる自分がいる。

だから、わたしがまずやるべきなのは、逆なのかもしれない。
言いたくないことは言わなくていいのだ。

自分を隠すことは余計にカロリーを使うので得策ではない、ゆえに全部出す、というロジックで、これまで過剰に自分を晒してきた気がするが、
言いたくないことを言いたくない気持ちに従って言わないでおくことは、隠しておくこととは違う。
なぜかと言うと、別に隠すために必死になってはいないからである。

言いたくないことは秘めておく、これは私生活の対人関係でも普通にやっていることだ。

そうやって言わずにいることの神秘的で混沌としたスープから、作品は生まれる。

なら、無理にそのスープから言うべきことを引っ張り出して開示しまくることはないのだ。

言いたいことなんてないってわたしの中のわたしは言っていたけど、確かにそうだった。
自分について語りたいことはもう、それほどない。

でも、生きていく中で見つけた面白いことを共有したい気持ちは、依然ある。
それが十分自分を語ることなのだと思う。

自分について無理に説明するんじゃなくて。

自分を語るということは、自分の価値観を語ることで、それはつまり、日常の中で行き合うものに何を感じ、何を考えて生きているのかを吐き出していくことなのかもしれない。

実際、そうした方が自分のメンタルの調子もいいし。
ずっと心では思っていることを吐き出す場所がないと、わたしは抑うつっぽくなるのだ。

身体が気持ちいいということは、それが正解なんだろう。

本当は過去ブログの全てを捨てて、すっきり新しい気持ちでまたブログを書き始めようなんて思っていたけど、それはできなかった。

捨てるって言っても非公開にするだけなんだけど、本当に消すわけじゃないんだけど、それでもなんだか寂しくて。

それは、どんなに痛々しかろうとも必死に走ってすっ転んですり傷だらけになってきた19歳から今の自分を、これからわたしを知ってくれる人が知る術がなくなるのは、なんかすごく寂しいと思ったからだ。

わたしは正直、他人からの共感とか理解とかを6割ぐらい諦めているんだけれど、
それでも可能性をゼロにしたくはない。
わかってほしいよ、わたし結構頑張って生きてきたもん笑

わたしが頑張って生きてきたことを知ってほしい。

だから、これまでのブログも、あまりに「これは……(苦笑)」ってなるものは、当然の権利として(笑)非公開にしたけれど、人に言って大丈夫って思えたものは、やっぱり残しておこうと思った。

人に知られたくない部分を持つことは、なんら後ろめたいことではないし、
人に分かってほしいと思うことも、人間として自然な感情だろう。

人にはそれぞれ知られたくないことがある。
知られたら最後、知られたら嫌われる、終わりだ、って思うから、知られたくないことを隠し続けるのが恐ろしいのであって、知られたくないことを持つこと自体には、なんの落ち度もないということを、ようやく理解できた気がする。
これまでわたしは、若くて潔癖だったように思う。

人に分かってほしいと思うことだって、思い続けていても苦しいから、思うことを止めたけれど、実はその気持ちがあるからこそ、人と関わろうとか、何かを表現しようって思い続けられるんじゃないか。
だとすれば、分かってほしいという気持ちは、社会性とかコミュ力とかいうものの根元にあるものなんじゃないか。
他者と共に生きたいという気持ちそのものであって、何も醜いものではないのかもしれない。

分かってほしいって思う自分が惨めで、汚くて、みっともなく思えていたし、
漠然と自分を一部でも隠してはいけないんじゃないかって思っていた。
でも、そんなの、そっちの方が酷く不自然だった。

自然に湧く感情や欲求を、思考や道徳でねじ伏せるなんて、メンタルが不健康になって当然だ。

それに、芸術家たるもの、人間の、つまり自分自身の内側から湧き上がるあらゆる自然--つまり不可抗力で、理性や意志ではどうにもならないもの--をこそ、受け入れ、肯定し、見つめ、表現していかなければいけないじゃないか。

魔法のスープは、創作の源は、自分の自然全てを受け入れたものの前にしか、その神秘を見せてくれないものなのに。