一昨日の深夜、とても心を動かされる物語を読んで、昨日はずっと愛について考えていた。
物語の中で、男は伴侶を愛した。男は亡くなる直前、少し前に先に逝ってしまった伴侶に、たくさんの感謝を述べた。
僕と出会ってくれてありがとう。愛してくれてありがとう。助けてくれてありがとう。また出会ってくれてありがとう。一緒に生きてくれてありがとう。
馬鹿みたいに涙が出た。
人はとてもちっぽけだ。1人の力で世界を変えることはできないし、そうしようと思えばとても大変なことになるし、そうできる人は決して多くない。
でも、自分が愛したい人を愛すとき、人間は誰もが、とてつもなく大きな、宇宙そのものみたいに壮大なスケールの力を発揮する。
そのとんでもなく計り知れないぐらい莫大な愛を、自分の愛したい人に注いでいくこと。
そこから、個人の、ちっぽけな、けれど尊くて計り知れない厚みのある物語が生まれていく。
きっとその物語は少しずつ拡大し、愛によってつながる生態系のようなものをかたちづくり、
やがて、その中心にいる人の人生と共に終わっていく。
愛と向き合うとき、人は誰でも主人公になる。こういった性質のものは他に、死や夢というのもあるけれど。
誰かを愛するとき、人はとても勇敢だ。
勇敢で、忍耐強く、誠実で、感情豊かで、繊細で、信心深く、幸福で、尊厳に満ちている。
そんな人間という生き物を、わたしは心の底から愛おしいと思う。
わたしがずっと向き合うべきだったのは、愛だったのだ。
わたしは愛に心を打たれると、ひどく切なくなったり、胸がいっぱいになったりして、動けなくなってしまう。
子どもの頃からそうだ。両親と家族3人で食事をして、おいしかったねって家に帰るとき、どうしてなのかわからないけれど、今にも泣きそうに胸が苦しくなったものだった。
そのときは、家族みんなでいるのに、どうしてこんなにも寂しく、不安になるのだろう--と思っていたけれど、今思い返せば、それは寂しさや不安ではなく、幸福と切なさだった。
昨日もそうやって、ずっと家の中にいた。
こんなふうに、尊さで動けなくなる自分は、なんて生産性がないのだろう、これでは将来生きていけないと言われるのも当然だ--そんなふうに襲ってくる焦燥感と不安を自分で包み込み、わたしを包む愛を感じて、それに身を委ねて、いっぱいになった自分の胸を抱えて、ベッドの中で丸くなった。
わたしは、人を信じることができない。
人に甘えることや、委ねることや、安心することができない。
必ず人の顔色を伺って、警戒してしまう。
そのくせ卑屈になって、気に入られようとしているだけなのだ。
ちっとも対等でも、毅然ともできていない人間関係を、いくつも築いてきた気がする。自分で自分を決められない。
けれどその仕草こそが、わたしを愛から遠ざけているのかもしれない。
わたしは忙しい場所にいると、すぐに愛を忘れてしまう。
昨日一日中、満ち足りた静寂の中にいたおかげで、こんなにも感じることができたけれど。
わたしは、ずっと死と夢には向き合ってきた。
夢を以って死の恐怖を克服しようとしていた、みたいなものだけど--消えたくない、忘れられたくない、死にたくない、死んでほしくない。
でも、そろそろ、わたしは愛に向き合うときなのかもしれない。
わたしはずっと大きな力が欲しかった。
世界を変えられるような大きな力が。
それと同時に、誰かにわたしを覚えていてもらえるような大きな力が。
だけど、やっと、ずっと漠然としていた、その「大きな力」の正体に気がついた。
それは愛だ。
人はいつか死ぬ。
それに伴い、その人が持っていたどんなものも、どんな力も、少しずつ綻び、離れ、自然の中に還っていく。
自分が死んだ後のこの世のことを、死んだ後のわたしたちはきっと観測できないだろう。できるかもしれないけれど保証はない。
だったら、いつか消えてなくなるとしても、ただその瞬間瞬間において無限のもの--愛こそが、生の意義なのかもしれない。
愛とは、相手を見つめること。
本音を伝えること。
わたしはそれらを、不器用だけど、わたしなりに、そこそこやってきた。
既に実践はしていたのだ。
忘れてしまうときがあっただけで。
わたしはもともと、誰かと一対一で接することが得意だ。得意だし好きだ。
それは、それこそ、愛を伝えられるから。
死と隣り合わせの人生の中で、それでも夢を支えに生きている友人たち。
わたしは、わたしなりに、彼らの--みんなのことをとても愛している。
どういうわけか顔色を伺ったり警戒したりして、うまく伝えられないこともあって、それはどんどん脱いでいきたい。
でも、心はずっと温かい。
愛せる対象がいるというのは、本当に幸福だ。
生きている人間を、生きてきた人間を、わたしはとても愛している。
その気持ちを、ずっと忘れないで生きていきたい。
忙しく生きていくことが、考えただけで辛いのも、きっとそういうことなんだろう。
わたし自身、自分で勝手に忙しくなろうとすることがある。
人を人生ではなく数字で見ようとしてしまうことがある。わたし自身を含めて。
きっとそうなったらわたしは、また件の物語を読むだろう。
わたしの歌にも、既にたくさん愛を込めているけれど、
これからも、こうして言葉でも、でも何より作品たちで、愛を伝えていきたい。
たとえそれが、一銭の価値にもならないとしても、わたしはやるだろう。
だって、それが愛だから。
P.S.
こうして吐き出すことができたら、
わたしの胸をいっぱいにしていた気持ちがふわっとわたしの身体を出ていって、わたしの身体はすこし軽くなった。
きっとまた、わたしは忙しく動き回り始めるだろう。
それはそれでいい。ようは、忙しく動き回る時間も、じんわりと愛を感じる時間も、どちらも大切なのだ。
わたしが、心を亡くさずに忙しく楽しく動き回れるときというのは、要するに夢中になっているときだ。
周りが見えなくなるほど夢中になるときと、万物を愛し、万物に愛されていることを感じるとき。
あえて「万物」と言って、「人を愛する」「人に愛される」と言わないのは、わたしは「人」を意識すると、もう無意識に警戒するようになってしまっているからだ。
わたしは全ての人間の命を、生を、生き様を、愛してはいるけれど、人を信用することはできない。そういう感じだ。
わたしはまた一つ、傷つくことに強くならねばならない。
誰に対しても自分の裸を見せる覚悟をしなければ。
自分を信じるとはそういうことだ。
何が正しいのか、何を言いたいのか、何を言うのか……結果も何も置いておいて、その決定は、わたしがわたしのために決めるのだ。
とにかく、愛を失わないために必要なのは、
愛おしい人間の物語
心地よい静寂
自分のことばに耳を澄ませること
こういうものたちなのだろう。