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わたしはずっと、生まれてからずっと、物語のおかげで生きて、安らいで、学んできたけれど、同時にずっと物語に呪われ続けていたことに気づいてしまった。

わたしは物語を盾に、都合のいい理想を押し付けられ続けてきた。

古来より物語は道徳を説くために使われてきた。
わたしは次々と事件の起こる物語から、身を守るにはつかの間の喜びを得てはいけないのだと誤った学びを得てしまったし(それは物語を面白くするには不可欠の仕掛けだが、現実は必ずしもそうできているわけではないのに)、
何より、自分が物語の中の人物たちのように逆境を乗り越える力を持っていないこと(と、わたしは成長していく中でいつの間にか信じ込まされていた。これは物語のせいではなくて、他の要因と複雑に絡み合った結果だけれど)、”ふつう”でないこと、美点を持っていないことに絶望した。
その美点とは努力だったり、忍耐だったり、勤勉だったり、社交性だったり、義理堅さだったり、行動力だったりした。
いつの間にか、わたしは物語の世界からも閉め出されがちになった。

それが恐ろしくて、ほんとうは、心の奥底では、自分の物語が誰かを楽しませることを拒んでいたのだと気づいて、途方にくれた。

物語を書くということは、何か結論を出すということだ。
物語の中で誰かを救うということは、正しさを決めるということだ。

少なくともわたしの物語がそういうふうに読まれてしまう可能性をなくすことなどできはしない。他人を操作することなどできないのだから。

わたしは恐ろしかった。
わたしの物語が、誰かを押し潰しはしないだろうかと。
誰かを理想化するために、操作し改造(ほんとうは他人を変えることなどできないから、結局それはただの歪曲になってしまう)するために、思い通りに従わせるために使われはしないかと。

それが怖くて、分かりやすい物語も、面白い物語も、ほんとうは心の底では書くことを拒否していたのだと気がついた。

「……めでたしめでたし。だから、あなたもこの主人公のように〇〇しなさい。そうすれば……」
という決まり文句がちらついて、そのたびに、わたしはあの、誰もわたしに共感してくれず、どこにも居場所がないような感覚を味わう。

教訓は人を呪う。
人間は教訓を守って生きていけるほど賢くできてはいないからだ。
それなのに……

わたしが物語に呪われてきたのは、物語がずっと教訓の影を従えてきていたからだ。


わたしは、この呪いとどう戦えばいいのだろう。