芸術家の悲しみ

 欧米では、芸術家や広義のアーティストはれっきとした職業だけれど、日本ではそうではない。
「食っていけるのか」という言葉にいつも晒されて、静かに傷ついている。

 その中の一人がわたしだ。

 理想のために苦悩することは、辛いけれど、それもまた栄養であり、必要な体験で、時によっては甘美でもある。液肥のようなものだ。
 けれど、自分が目指す価値を嗤われ、軽んじられ続ける孤独は、心の根をカラカラに乾かしてしまう。

 では、海を渡ればいい?
 ……そうなのかも、しれない。

 でもわたしはあわよくば、自分が生まれ育ったこの国に何か種を播ければと思うから、今のところ、その予定はないけれど。


 悪意があるわけではないのは分かっている。
 関心がないのは誰のせいでもない。
 ただ、無関心に包まれていると窒息してしまうのもまた、確かなことだ。

 ではどうすればいいのか?

 徹底的に孤独になるしかないのだろう。
 孤独の中に孤独はないから。
 群れていても孤独な人間は、孤独になってこそ孤独を払拭できる。
 払拭というか、気にならなくなるというか、
 そこに孤独という概念はない。
 強いていうのなら、自分の世界に入る、と云うのだろう。

 わたしは学校生活が、その「自分の世界に入る」ことを幾度となく邪魔してくるシステムに感じる。
 他人を積極的に無視したいわけではないからだ。
 他人には親切にしたい。冷淡にしたいわけではない。人のことは、好きだ。
 だからといって、心を通わせられるかと言えば、正直なところ、深い部分で通わせることは難しい。
 そんな中で長い間過ごすのは、潜水しているようで、窒息してしまう。

 だから自分の世界に入りたい。その時間を取ることで、息継ぎができるから。

 けれどそのための場所も、時間も、高校までの学校生活には、あまりに、あまりに足りなすぎた。

 その反動で、大学に入っても、「あの時のように戻らないために」そんな、嫌な未来を回避するための行動ばかりしてしまっていた。
 それだけ、苦しかったから。


 自分だけの価値を追求すること。
 目に見えないものを考えること。
 すぐには役に立たない、超越的なものを尊ぶこと。

 それをもっと知ってほしいとは言わない、きっとそれを広めるのがわたしの役割だから。

 ただ、それをやってもいいって思える言葉に、世界に、今まで出会えてこなかったことが、悔しくて、遣る瀬ないだけだ。 


 未来のことを考えろなんて言わないで。
 未来のためになんて言わないで。

 今を生きていれば、未来は向こうからやってくるから。

 そんなことにも気づけなくて、回避行動を続けていた自分が、悔しくて、遣る瀬ないだけだ。