性のブロックが外れた話。

 sensualな人になりたい。

 ずっとそう思っていたことを、思い出しました。

 わたしはずっと、自分の顔や身体のことはむかしから好きだったし、美しいと思っていたけれど、誰か多くの人に見られることには抵抗を持っていました。

 舞台の上に立つ、人前に立つ、と言う状況でのそれは平気ですが、早い話が、ネット上にそんな自分の姿を見せる事には、ずっと抵抗があり、抵抗があるまま「その方が良いのかも」と一時期晒したりしていて、本当に迷走していました。

 それと、やっぱりどこかで、認めたくないですが、「ネットに自分の写真を晒すバカな若い女」(これも実際のところ、だいぶ悪意を込めて作られたイメージに過ぎません、わたしはずっとそれに踊らされていたわけです)になりたくない、と言う気持ちも強かったんだって、気付きました。

 今ならわかります。

 わたしは「人に〇〇な目で見られたくない」「見られたくない」と言って、
 つまり人の目を気にして、自己表現をしようとしていなかったのです。

 ずっと昔から、
 なんならお互い物心つく前ぐらいから、親同士が知り合いで、わたしたちも知り合いで、小学校高学年くらいから徐々に、特に仲良くなった……ようは幼馴染みが、最近、ネット上で顔を出して活動をはじめました。

” 吸血鬼になりたい。”

” 誰にも、人間なんかに負けない、可愛くてカッコよくて最強の存在になりたい “

 彼女は、自分の表現したい世界観、自分のなりたい自分を指して、はっきりとそう言いました。

 そのために、彼女は、何よりも怖かったであろう関門を飛び越えて、動きはじめたのです。

” 自分の世界を表現したい。”

” 自己表現として、写真で表現したい世界観がある “

 彼女は言いました。

 彼女のTwitterはこちらです→https://twitter.com/sesshouda

 わたしは胸を衝かれたような気持ちになりました。

 やっぱり、自分の姿を主体的に見せる(魅せる、にもつながります)ことは、自己表現なのだと。

 どうしてわたしはそれをしたいと思えないのだろう。

ただ、ここでわたしは踏みとどまりました、もう以前のわたしとは違うのです。
気が乗らないなら乗らないで好いじゃない、それも個性じゃない ” と。
無理やり頭の中を書き換えたり、自分に言い含めたりせず、” 気が乗らない ” という自分の気持ちに寄り添いました

 そうしたら、彼女……わたしの本心が、いきなり言い出したのです。

” Twitterのヘッダー変えたい “

 と。

 何に変えるのって聴いたら、あろうことかこの写真でした。

 この写真自体は、わたしも幼なじみに影響されて、好きな服を着て写真を撮るっていうことをしてみて、だから、手元にあったものです。

 それを、自分が一番納得のいく、一番自分が出したいものに近い、一番美しいと思う形に切り出したものです。

 でも、これをヘッダーにしようとしたとき、とんでもなくグルグルする迷いに、わたしは呑みこまれました。

” エッチだなって思われたらどうしよう “

 と。

 結論から言うと、「エッチだなって思う奴の頭の中がエッチなんだよ」って話なんですが、可笑しい事に、わたしはかなり深刻に悩みました。

 YouTubeの調子が悪い時のグルグル並みに迷いました。

 わたしは元来、「生っぽさ」が好きなのです。

 それは肌の肌理(きめ)感触だったり、
 汗に湿った感じだったり、
 呼吸の温度湿度だったり、
 衣擦れの音だったり、
 汗の匂いそれと混じった香水の香りだったり、
 内容はわからないけど穏やかに言葉を交わしているのがわかる、隣室から漏れ聞こえてくる声だったり、
 カーテンに映る影の揺れだったり、
 体温だったりします。

 たぶん、そういうものを感じられる画が好きで、わたしはずっとそれになってみたかったのです。

 あと、冒頭にも書いたsensualセンシュアル)とは、日本語では「官能的」と訳されますが、それは「煽情的」とは少し違って、「五感に訴えかける」といった意味合いが強いです。

 上に書いたような生っぽさ、生命自然息遣いといったものに五感を開いていく、その先に生 – 性 も含まれる、ということです。

 わたしはそういった自然状態みたいなものと、自分の中の女性性をつなげて感じ取っていて、それを表出させてみたかったのです。

 これからもそういった表現は続けていくと思います。

 でも、この上に書いたようなことを、わたしはずっと閉じ込めていました。

” そんなことをしたら付け入られる “

 と、誰かの思惑通りに、貞淑に、つまり性を抑圧した女であろうとしていた

 それが窮屈になって、「女である自分」をどう受け入れて良いのかもわからなくなってしまった。

ここで言う「女である自分」、また後述する「女性性」とは、ペルソナとかアーキタイプみたいなもので、男性の中にもあるもの、としてこの記事では言葉を使っています。アニマってやつもその一つだと思います。「少年である自分(女性であっても)」「子どもである自分」「大人である自分」「ハムレットである自分」「先生である自分」「歌手である自分」「オフィーリアである自分」のように、” 自分らしさ ” や ” 自分が演じる事により醸し出せる独特の個性 ” の様々な側面のうちの一つと考えてください)

 自分の女性性が受け入れられませんでした。

 そうしてやっと見つけた、自分の本来の女性性は、
 自分の外にある、誰かが作ったもの、表現したもの、あるいは押し付けようとしてくるもの--
 そのどれとも違う
 部分的に見れば似ているところもあるかもしれないけれど、本質は全く違う、
 徹底的にオリジナルな存在でした。

 誰かの作った「女性」なんて概念が、ちっぽけに思えるぐらいに。

 わたしはやっと、わたしの半身と和解することができたのだと--あるいは、やっとそのスタートラインに立つことができたのだと思います。

 ずっと探していたわたしらしさの欠片を、わたしはまた見つけることができました。

 タイトルにも書いた ” ブロック ” とは、自分の、本来無限に広がっているはずの可能性を狭め、拡大を邪魔しているものを指す、スピリチュアル用語……なのかな? です。

 その中身は、過去のトラウマであったり、どこかで耳にしてしまった既成概念であったり、ネガティブな思い込みであったりします。

わたしは自分の女性性を拒絶し、見失っていたせいで
(それはジャミングしてくる外界が悪いんですけどね怒 社会の中の「女性」の概念には、今も変わらずFxxK YOUです)
大きなブロックを抱えていたんだなー、と、今回の件でよく分かりました。

 これからもわたしはヘッダーの感じで視覚的な表現をやっていくのかもしれないし、飽きて全く別様になるかもしれませんが、

 ” 人にどう見られるか ” という、最初にして最大の関門をそのたびに飛び越え、

 もっともっと自分の可能性を広げていけたらな! って思っています。

” そこを飛び越えて死ね。 “

” 死なせないから。 “

 ってやつです。↓

 最近自分の中でまたこの曲の意味の一つがわかって、

 そこを飛び越えて死ね、死なせないから、とか、

 あなたに会いたい、言いたい、って言っているのは、本当の自分が自分に訴えているんだろうなって思いました。

 もちろん、あなたがこの曲を聴いて感じたこと一つ一つが全て正解です。

 わたしにとっての最近の正解はこれでした。

 あなたは、どう思いますか?

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