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 小学校の時、学校行かなくなった理由は、いくつかあるんだけど、
 その中でも結構強かったのが、
「駄目だ!!! こんなにみんな先生の言うこと聞いて、先生の言うことが正しいみたいな感じで、それを疑う人もおかしいんじゃないって言う人もいない環境が続くのだとしたら、絶対この先に戦争になったんだよこの国は」っていう思いがあったから。

 先生の言うことと真っ向から対立するような、先生のアンチテーゼになるようなことを言ってくれる大人がいなかったから、
「先生はこう言ってる、でも他の大人はこう言ってる、ふんふん、何が正しいんだろう」って考える機会もなかった。

 先生がこう言ってたから、お母さんがこう言ってたから、ってばかり言う同級生に、めちゃくちゃムカついていたんだよね。
 なんで先生が正しいと思うわけ? なんでお母さんの言ってることが正しいと思うわけ? その根拠は? 先生だってお母さんだって間違うこともあるどころか、そもそも正しいことを言うってなんで思ってるの?
 でも、もういちいちムカついていてもキリがないし、どうしようもないから、「……そういうもんなんだなぁ」って諦めて、冷めてた。
 小学生の時からね。

 だから「誰にもわからないだろうけど、わたしはわたしが正しいことを知ってる」って、頑として学校に行かなかった。

 誰か異を唱える必要があると思ったの。
「こんなのおかしいと思います」っていう人もいないと、おかしいじゃん。それって全体主義じゃん。いろんな意見があってこそ民主主義でしょ?
 でも、残念ながら、当時のわたしには何が嫌なのかを言葉にする術がなかった。
 だって「学校」とか、「働く」もそうかもしれないけど、色んな要素が複雑に絡まっているし、人によって感じ方も考え方も違うでしょ。
 だから雲を掴むようで、「これがおかしい」って指摘することはできなかったし、疲れすぎてそんなエネルギーもなかった。
 ただ、言う通りにすることは「このシステムでいいと思います」って言ってるのと同じことだと思ったから、絶対言うことを聞かなかった。
 だから学校で出された課題も手をつけられなくて、先生に呆れた声でため息をつかれたのは、かなりダメージだったけど、でも絶対に従わなかった。

 大人になって、まだまだ勉強途中だけど、あの小学校から続くこの国の嫌な感じは、古いものは明治維新から、戦後→レッドパージ、新しいものは新自由主義まで、色々な要因が絡まってるんだなってことを、ちょっとずつわかるようになってきた。学んだ。語彙や、概念として掴めることが増えてきた。

 わたしは自分を見つめることを大切にしたいけど、「小学校から続くこの国の嫌な感じ、果ては戦争、それからコロナ禍でのオリンピックに繋がったような嫌な感じ」っていうのは、わたしの人生にもがっつり絡んでくることだから、やっぱり引き続き勉強したり、物申したりはしていくと思う。

 だからこの日付は、みんなにとってそうであるように、わたしにとっても重い日付。

 わたしの母は、自分は子どもの頃、あまり幸せじゃなかった、だから自分も子どもを産むかどうかはわかんないなって思ってた、その子が幸せかどうかわからないから、子どもも子どもなりに大変なことはわかってたから、でも、だから、あなたが産まれた時、この子に幸せになってほしいって思ったし、今も思ってるよ、みたいなことを言ってくれる。

 その背景には、対外的には良いところもあったんだけど、家の中では酒やタバコやギャンブルで荒れて暴力を振るうことも日常茶飯事だった祖父……当時は普通だったのかもしれないけど、今の言葉で言えば機能不全家庭の特徴に当てはまりまくっている、祖父母と母兄弟の家庭環境があって。

 さらにその背後には、シベリア抑留にもあっていたという祖父……もちろん祖母だって戦火を受けた。
 戦争のことが、がっつり絡んでくる。

 だから戦争って全然過去のことじゃない。
「政治」や「軍事」といった領域にだけ閉じ込められているようなものじゃない。
 家庭や家族や人間関係っていう場所まで、絡んでくる問題だと思う。
 つまり日常まで。

 現代では、でも、そうはならないのかな……
 確かに、今の日本で考えたら、被害者より加害者になる心配をしなきゃいけない状況だと思うし、少なくともそういう状況の方が先に来そうだし、そうなった場合は専門の人だけが、実際の「戦場」は知るところになるのかもしれない……
 そうなったら、「戦争に加担している」っていう意識を持つ人は、すごく少なくなりそうだし……それは、あんまり、想像したくないっていうか、嫌だな……

 イラク戦争の時も、どうだったんだろう。

 ……そうだね。
 戦争が起きてるなんて感じでは、全然なかったね。
 開戦当時3歳だったけど、なんとなく覚えてるよ。
 戦争なんて遠くのことみたいだった。
 でも、本当は全然遠くのことじゃなかった。

 現代のリアルな「戦争」っていうのは、その程度の感覚で、近くにある感じもしないまま近くにあるものになっているんじゃないかって思う。
 でも、平和を願うっていうんなら、そんな戦争だって正しく気づいて悪いって言わなきゃいけないと思うんだよ。

 昔の戦争の話から学ばないといけないのは、戦争の悲惨さもそうだけど、
 偉い人の言うことを聞かないといけない構造が、いつしか軍国主義の全体主義になって、ほとんどの人がそんなことしたくないのに戦争になった、っていうところに尽きると思う。

 だから、「そんなことしたくない」を、どんどん言っていかないといけないってこと。
 人の「そんなことしたくない」を叩かないこと。

 それが平和のためにまず必要なことなんじゃないかって思う。

 確かに誰かが何か声を上げることで、平穏は崩れるかもしれないけど、
 平穏じゃない話し合いを繰り返すことが、大きな暴力を予防することになるんだと思うから。

 意見が合わないことや、かならず異を唱える人がいることは、むしろ平和のために大事なことなんだと思う。
 ん? 敵対性の美学みたいな話になったのかな?
 うん。細かい意見のぶつかり合いが、でっかい戦争を遠ざけるんだと思うんだ。

 だから言いたいこと言っていかなきゃね。
 そして、自分の感じてること、自分の「待って。何かおかしくない?」に敏感でいなきゃ。