消費はそんなに悪いことなのか 時と愛の話

 厳密に言えば、モノを買うこと、何かを欲しいと欲望すること、モノを宣伝広告することは、そんなに悪なのだろうか。

 わたしはそうとは思えないので、消費すなわちモノを買うこと(これも厳密ではないと思う)や欲望を否定するような言説には息苦しさを覚える。

 

 ミニマルな生き方を悪く言うつもりはないけれど、まだ十二分に生きるつもりがあるのに身辺整理をしているかような、切なさとも危うさともつかない無欲さを発揮しているように思える知り合いが何人かいる。

 そういうのも、なんだか、不安になる。

 だって、欲って生命力なんじゃないのかな。

 

 わたしは消費の対義語は愛着ではないかと思っている。

「新しいのを買おう」と言われて、首を横に振る理由があるとすれば、それは元々使っていたものに愛着があるからだ。

 消費が、常に新しいものを手元に置いていくことならば、愛着はお気に入りのものを並べることである。

 わたしは物欲もその他色々と欲まみれの人間であるし、欲は生命力であり天啓なので大事にしていきたいというタイプの考え方をしているが、わたしが欲することで叶えたいのは後者なのだ。動物が巣を作るように、わたしはお気に入りのものを集めて自分の心地好いねぐらを築きたい。

 愛着を持つこと、また愛着の存在し得る関係をそのモノと築いていくこと、そういうエピソードを積み重ね、共に時を過ごすことが、わたしのモノを欲する理由なのだ。

 

 どうしてそんなにもモノを代謝しようとするのだろうか。この世にそれほど消耗品があるとは思えない。そりゃ、耐久性はそれぞれ、モノである以上何もかもが持っているにしても、代謝のスピードが速すぎるので、そういうのは確かに「消費」と言って差し支えない--どころか、消費そのものだ。愛着を育む時間が足りない、そんな時間は許されていないかのように錯覚する。

 現代日本の若者は、色々と奪われているように感じるが(未来、豊かさ、希望、保障、etc.)、そこから何かを愛することさえ奪われたら、一体どうすれば良いのか。

 

 愛することは、共に時を過ごすことであり、時を節約しないことだとわたしは思う。
 時間の節約は、わたしたちから血の通ったコミュニケーションを奪う。ミヒャエル・エンデが「モモ」で描いたように

 いかに時のない、時計のない、自分の鼓動や呼吸で時間を測る世界にとどまれるか、それがモノの価値を転換するための鍵なのだと思う。

 

 そんな時を過ごせるのは、瞑想が得意な人だったり、することがなくて暇な人だったりするんじゃないかと思うかもしれないけれど。

 我々は誰もが時を忘れる術を持っている。

 夢中になることである。

 

 人々が時を忘れ夢中になる時間を大切にすると、世界を変えられるのかもしれない。