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 明日7月10日は、「哀と傷」発売から一周年。
 ついでに今年の7月10日は新月でもある。

「すべての傷を過去にする」って決意で、自分に向けてのコンセプトはそれで、このアルバムを作った。
 それが混じり気ないわたしの願望だった。
 もう痛みを抱えたままでいるのが嫌で、そんな自分であるのが嫌で、一時期は「憂」という名前まで捨てたこともあった。
 それでも、自分に刺さった毒針を抜くのは、そんなに簡単なことじゃなかった。
 とりあえず、人に甘えたり、感情をぶつけたり、抱えてきた「嫌」を言わないまま葬り去れるような都合の良いことじゃなかった。

 それで最近、ようやく全ての毒針が抜けたような気がするの。
 昔あった辛かったこと、その時助けてもらえなくて恨んでいるということを親に伝えた。ら、もう恨みもなくなったし、きっと怯えることももう無い。
 辛い時期を共に過ごしてくれた友人とお別れをした。たくさん彼女を傷つけてしまったけど、それはもうわたしに何かできることじゃないし、彼女と居続けることは、わたしにとってもよくない。過去を引きずることになる。わたしはどこかで彼女を傷付いた自分自身みたいに思ってしまっていたと思う。そんなの良いわけがないから、お別れするしかなかった。
 辛くない未来を手に入れるために、現在を未来に向かって走るのをやめた。今のわたしは今のためにある。頭をぐるぐると回して、生存戦略を考える必要もなくなったから。
 この21年間の中で、やっと、わたしは怖いものがなくなった。
 わたしは、自分が無力ではないということに気づくことができた。

 わたしの傷も、辛くて、それでも生きていて、それでも前を見続けて、まっすぐ自分の足で立ち続けたことも、全部このアルバムの中にある。
 わたしは、自分の作品は、ある意味自分の生きたことのアーカイヴであり、過去の参照点だと思っているから、当然だ。
 その時々、当時のそれぞれの気持ちは、一曲一曲を聴けば鮮やかに思い出せる。わたし自身が聴いたときはそうだし、ほかの人が聴いた時には、何か想いが詰まった情景の中に飛び込んだようになれたらいいな、と思って、曲を作っているから。

 でも、わたしの個人的な感触、人生のアーカイブという側面だけに立つと、今はもう、過去のことだ、って、そんな感触がある。

 自分の中で「終わっていない」ことって、それが対外的には、客観的には「終わった」時間の中のことでも、今のことのようにその生々しさや感情が湧き上がってくるものだと思う。
 あとは、「終わっていない」ことだから、当然、懐かしいとか、そんな過去も愛おしいとか、そんな甘やかな感情が湧く隙は無い。

 でも、今のわたしは、それらすべての感情を--そして「哀と傷」のすべての曲を、愛おしいと思えるようになった。

「終わっていない」ときは、わたしにとって歌は、言い方悪いけれど武器のようなものなのだ。これはDTMをはじめた高校生の頃から変わっていない--恥ずかしいことに。言葉で言っても伝わらないことを、言葉にしたら抑圧される(とわたしが思い込んでいる)ことも、歌でなら思う存分叫び、誰かに聞いてもらえるんじゃないかと思ってきた。それは歌うことで直接人を刺したり撃ったりするだけじゃなく、爆弾を送りつけたり毒を持ったりするようなものもある。曲自体は攻撃的じゃなくても、作る時に根底にあるマインドがそれだから、それは武器なのだ。

 別に、人を刺すために作られた曲が悪いなんてことはない。じゃないと「刺さる」曲を良い曲とは言えないだろう、でもわたしは「刺さる」曲がめちゃくちゃに好きだ。だからそれで良いのだ。
 ただ、自分自身作り手としては、「刺さる」曲を作る時っていうのは、結構しんどい時も多いから。
 それはもしかしたら、自分がそれだけ刺されたものを抜いて、自分の手で磨いて、皆の前に晒したものかもしれないから。で、その抜いた後の傷はまだ塞がってない、ってことなのかもしれないから。
 だからその傷が瘡蓋になって、瘡蓋が傷跡になって、傷跡すらもなくなった今、傷があったことを愛おしめるなら、作り手にとっても最良の終わり方だと思う。

 わたし自身、自分にめちゃくちゃ「刺さる」曲に出会うと、その曲を作った人が、未来には幸せになってますように、って勝手に祈ることがある。人を刺すようなものを作る人は、それだけ何かが自分に刺さってきたものだから。それは感動みたいな良い意味もあるだろうけど、やっぱり傷もあるだろう。曲だけじゃない、絵画でも、文章でも、なんでもそう。
 あなたが磨いて見せてくれたこの棘も、この作品も、わたしは愛しているし、わたしはその向こうのあなたがどういう人間なのかはわからないけど、でも、幸せになってほしい--わたしはそう祈ることがある。

 だから、わたしも今、過去の作品を愛おしめて、楽になれたことが嬉しいの。
 きっとこの先この曲たちを歌うことがあっても、それは言えなかったことを言うためや、癒えなかったことを癒すためじゃなくて、過去の自分に大丈夫だよって言ってあげるために、歌うことができそう。

 わたしが今まで発表してきた曲の中には(「哀と傷」には入ってない曲)、実はまだ「終わってない」曲もちらほらある。それがいつか「終わる」ことも、今から楽しみになってきた。

 わたしの音楽のコンセプトの一つに、「人生と共にある曲」というのがある。
 作り手にとっても、聴き手にとっても、思い出深い曲というのは、人生を過ごしていくうちに、自分の中でのその曲の意味合いや立ち位置が少しずつ変わっていくものだと思う。
 わたしは今、作り手側としてそれを経験できている。聴き手側としてもたくさん経験したことだけど、両方できるお得さを噛み締めている。

 一年越しに、わたしの願いは叶った。
「哀と傷」に閉じ込めた哀しみや傷は、やっと、本当に過去のものになった。
 でもそれは、一年前のわたしが、「この哀しみも傷も、絶対過去のものにする」って決めて、このアルバムを作ったからこそわかることだ。
 願いが叶うまでに一年待ったんじゃない。一年前に蒔かれた願いが、今実ったのだ。

「哀と傷」、好評販売・配信中です。
CD→https://shobuwi.booth.pm/items/2227049
DL→https://wishobu.bandcamp.com/album/sorrow-and-wounds
配信→https://linkco.re/UZfhxNMU?lang=ja

 あなたも、自分を信じて生きてね。
 今の自分が願ったことは、絶対に叶うから。

 絶対大丈夫だから。

「『大丈夫だよ』って昔の自分に言ってあげられる自分になりたい」っていう願いも、叶いはじめているみたいです。