「 そう何度だって殺せ
恐れるものなど何も無いから
今の僕には 」
「殺す」という言葉を使うことを躊躇わなかったわけない。
「新緑」の明るい曲調の中で、一際異彩を放つ言葉だったと思う。
こういう言葉遣いは「一期一会」の最後でもしたけど、
わたしは生を決然と生きるためには、死ぬ気の覚悟や殺す気の覚悟が必要な場面が間違いなく存在すると考えていて、
そういったことを歌いたいときには、「死」や「殺す」という言葉を使わざるを得なくなる。
もっと柔らかい言葉にしようとした。
もっと誰にでもスッと受け入れられる言葉にしようとした。
色々考えた。
でも、どうしても「殺せ」じゃなきゃダメだった。
他のヌルい言葉には変えられなかった。
何か前に踏み出すとき、
それまでのまとわりつく絆(ほだし)を断ち切るときには、
「殺す」という言葉でなければ弱過ぎて太刀打ちできないほどの障害を乗り越えなければならないこともある。
だから、「殺したっていい」「傷つけたっていい」「自分を生きるためなら」とすら言う必要があった。
だって、自分を生きられない人って、大抵「人を傷つけたくない」と思っているから。
そのために自分を抑えている人が大半だから。
でもね、そんなの意味ないよ。
あなたの生命が芽吹くこと、あなたの魂が輝くことを、結局は皆が望んでいる。そのために起きる全てのことは、「目先の傷つき」でしかないんだよ、って言いたかった。
死にまつわる言葉を使うことで、何だって良い、って、最大限の力で背中を押したかった。
「人を傷つけない範囲で、好きなことをしましょう」--とか、
「人に迷惑をかけない範囲で、自由にやりましょう」--なんて、笑止。
人を傷つけてしまうことも、迷惑をかけることも、人間が生きていたら必ず起きてしまうことのはず。
それが運命だし、人生だし、世界の仕組みだと思う。
むしろ、破滅的な災厄というのは、そういう「目先の傷つき」のことを考えて人々が自分を少しずつ抑圧していった結果、その抑圧が社会的な規模で爆発して発生するものだと思ってる。
だからね、目先の殺す覚悟や死ぬ覚悟は、最終的には幸福な生を生むんだってわたしは信じているの。
それにね、誰かが本音を生きるために行動したことにより、周囲が「目先の傷つき」を受けたからといって、それってマイナスなものなのかな。
むしろ、鍼治療とか壊疽の切断みたいに、癒しや歪みの回復になるんじゃないかと思ってる。
病を終わらせて--つまり「殺し」て、本来の生を生むんだと思う。
タロットの「死神」のカードだって、ただ死を意味しているわけじゃなくて、「何かがキッパリと終わって、何かがまた始まる」「生まれ変わり」を意味している。
死の夢だって、「自分の根本的な変化=生まれ変わり」「転機」の象徴だって言われてる(もちろんこれついては死への不安の現れっていう心理学的な意味もあるだろうけど、夢占いとして読むならこっち)。
だから、死にまつわる言葉はわたしにとって最大威力のお祓いだし、癒しだし、応援だし、お祈りなの。
というわけで、自分の歌詞の意味について詳しく語ってみました。わりと自分の思想の根源が暴かれて面白いやら恥ずかしいやらです。
そんなわけで、最大威力の祈りを込めた新曲、ぜひ聴いてね。
(もう一回貼り付けるよ、聴いてほしいから!)
何があっても、わたしはあなたを応援しているからね。
宵部憂