このブログでオースターの話をするのは何度目かもしれないけど、またポール・オースターの話をしようと思う。

 わたしはアメリカの作家、ポール・オースターの小説が大好きだ。

 日本での翻訳の第一人者である、柴田元幸氏の名訳のお陰でもあり、わたしは彼の世界にどっぷり浸かることにくびったけである。

 オースター自身、コロンビア大学で文学を学んだ後各地を放浪した経験があることからもなんとなく感じるが、
 オースターの小説はどれも、「全てを捨て、現実から遊離し、己の意識と肉体のみでどこかに行ってしまいたい」という抗えない誘惑と作家気質の主人公との葛藤が描かれているように感じる。

 それから、誰かのエピソードや物語を、読むこと、聞くこと、書くこと、話すことへの愛着、
 言葉と言葉の不思議な縁(由来や省略形だったり、響きやイニシャルが一致していることだったり、自分の名前などからの連想だったり……etc.)を楽しむ心……
 そんな言葉や物語への愛着が、彼の文章からは余す所なく伝わってくる。

 だから、ずっと書けない書けないと悩んではいるけれど、文章を書くことが大好きな人間の端くれとして、わたしは彼の言葉にこの上ない心地よさを感じる。
 いわば、とても共感できる人から昔話を語って聞かせてもらっているかのような心地よさに包まれるのだ。
 そんな小説を、わたしもいつか書きたい。……かもしれない。

 心地よい文体に乗って小説の世界を歩いていたら、だんだんと、その世界は、美しく崩壊し始める。
 オースターの小説は大抵、主人公が感じる争い難い誘惑が現実に力を持ったみたいに、主人公が現実を離れずとも現実の方がどんどん歪曲し、崩壊していってしまう。それと同時に、主人公もまた、ゆっくりと、あるいはごく自然に、しかしとても不可思議な形に狂っていく。
 ただ不思議なことに、その崩壊にはあまり悲壮さを感じない。
 これはオースターの文体が持つ不思議な透明感と幻想性、不在感のせいかもしれない。まるで主人公の頭の後ろから物事を眺めている幽霊のような、三人称小説でお馴染みのあの謎めいた「視点の主」に自分がなり切ってしまったみたいに、感情移入というものは湧いてこない。
 ただあるのは、「こんなにも何もかもが変わってしまった」「一体どこからこうなったのか? 一体どうして?」という、呆然とするような気持ちだけだ。

 書きながら気づいたが、だからオースターの小説には、「思えば、この時のこれがきっかけだったのだろう」とか、「思えば、全てが始まったのはここからだった」のような(抜き出しではなく大意だが)、過去を振り返って変化の開始地点を求めるような記述が多かったのかもしれない。
 そもそも人が何かを「書き記そうと」(オースターの小説は、主人公や語り手が過去を振り返って現在の自分に至るまでを書き記す、というような構成が多い)思うのは、「一体どうしてこうなってしまったんだっけ」と過去を整理したいから、という理由も多いし、自己を認識するために人間には物語が必要だ、というのは、心理学などの世界でも常識みたいな物らしい。
 確かに、全然物語ではないこの世界、この人生を物語にしていくためには、動機が必要であり、その動機が自己整理というのは、めちゃくちゃ理にかなっているし自然だ。

 哲学的でもあり、綴られていく主人公の内面の変化に小説内の現実が呼応していくような、奇妙だけど美しい旅路。
 その感じは、ミニマルミュージックの抑制されているはずなのにダイナミックな展開や、現代音楽の、一見全く意味がわからないけれど実は独特の秩序に従って組み立てられている危うい均整を思い起こさせて癖になる。
 今わたしは頭の中で、リュック・フェラーリの「Didascalies」を思い出している。

 心地の良い時間、というのが、音楽にしても音を使った作品にしても物語にしても、わたしが作りたい作品の鍵なんだろう。

 そんなわけで、また敬愛する作家の敬愛する作品たちを、今度は分析的に読み直している。
「オラクル・ナイト」は、小説内小説内小説である『神託の夜(オラクル・ナイト)』が、まずは小説内小説『オラクル・ナイト』の中の現実とリンクしてきて、ついにその『オラクル・ナイト』の内容が、わたしたちが手にとって読めるところの「オラクル・ナイト」にリンクしてきて……みたいな重奏的な構造を作っているんだな、とか、
「ガラスの街」や「ムーン・パレス」の「崩壊」が、あまりに漸進的に起こるので、自分の中で勝手に段落を分けながら読んでいかないと話の構成が全然わからないな、とか。
 たのしい。