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 どんな時でも自分でいるために、わたしは丈の長いスカートをひらひらさせて歩くぞ。

 

 最近お気に入りの服を着て歩くようになったら、自分の好きな自分でいられるようになった。
 まるで服がわたしを守ってくれてるみたいに、わたしがわたしでい続けることを手伝ってくれる。
 わたしはわたしのままでいいんだって、
 わたしの外に正解があってそれに合わせなきゃいけないわけじゃないんだって、
 自分が好きな服を着ていることを自覚するたびに、お気に入りの服が、わたしをそこに戻してくれる感覚があるの。

 大学入ってから特に自分の性別について自分自身と切り結んだりしてきたもんだから、久しく忘れていたけど、
 お姫様みたいな、お嬢様みたいな服着て、お姫様かお嬢様みたいに上品に振る舞うの、わたしは大好きだった。
 好きっていうかな、そっちが本来の自分みたいに思えたんだよね。
 高校生の時からそれはそうだった。

 だから、制服着てなきゃいけない間は自分の個性……どころか「わたし」が死んでるみたいな感じがして、
 だから必然誰かの正解に合わせないといけない気がして、
 この世界には「正解」が存在していて、わたしたちはそれにならなきゃいけないってことを信じ込んでしまって、
 それで辛かったのかもしれない。

 服とか装身具の、文化人類学的な起源を少し考えても、「防護」や「魔除け」っていうのは大きいと思う。
 あるいは「自分の社会的立場を示すため」。
 どっちも、今わたしが感じていることにもしっくりぴったりくるんだ。

「わたしはこういう存在だ」って、わたし自身が決めたそのことを、忘れないでいるため、示すため、世界に宣言するため、わたしはわたしの思うように装う。

 反対に、着なさいって言われた服を着ることや、好きじゃないけど無難な服を着ることは、自分じゃないものを信じることにどっかでつながっていると思う。
 装いから人を統制するのは、かなり賢いやり方だったってこと。(もっとも制服は、生徒や従業員を守る仮面の盾みたいなものでもあると思うので、丸っきり悪意ではないと思うの。親が子を守るようなもの。ただ、「独立」したい人にとっては辛いし邪魔で仕方がないもの。)

 どんなに緊張する環境に行っても、好きな服を着ていれば、わたしは自分で自分を弁護できる気がする。
「そうだ、わたしが悪いんだ」って、すぐに自分を責めずに、正しさの相対性を思い出して、自分の軸を肯定できると思う。

 この間の記事で大学院に行く自分を想像して、想像だけですごく緊張してしまったけど、
 その大学院でも、最近の自分みたいに好きな服を着て闊歩して、すっくと立っている自分を想像したら、落ち着くことができた。「そんな環境でも、自分自身でい続けられるんじゃない?」って思えた。

 服は皮膚の拡張だ、と、かの有名なM・マクルーハンは言っていたけど、
 ということは、「わたし」と「それ以外」……つまり人間の「内部」と「外部」を分ける、非常に重要な役割を果たす皮膚の拡張ってことになる。
 つまり服は、「わたし」と「それ以外」の境界であり、
 ということは、「わたし」を「それ以外」から守る結界だということ。
 城壁だということ。
 じゃあ、大事じゃないわけがないよね。

 

 自分の好きな服を着ること。

 それは自分の好きなものに埋め尽くされることの一環で、
 そのことが、自分軸を強く、揺るぎなく、しかし柔軟さと優しさと愛のあるものにし、それを保ってくれる。