想像力

 想像力は言葉の外にある。直感であり、感覚である。
 ビジョンであり、世界である。
 言葉で知ることはある意味、テクニックだ。構造だ。

リュック・フェラーリ的小説の書き方

 わたしの敬愛するリュック・フェラーリは、自身の作品について、よく「〇〇の戯れ」と言っていた。
戯れというのは、起きてくること、現象、ハーモニー、ドラマ、イメージ、そういうものを楽しむことだったと思う。偶然性を肯定的に捉えながら。

 彼の言説の中でもう一つ、特に好きなのは、世界にある様々な事物は、おのおののスケジュールでそれぞれのサイクルを反復し続けていて、そのいくつもの円環が出会ったり、離れたり、寄り添っていたり、そういう相互作用が美しい、というお話。

 彼は復調とか、セリエル(十二音技法から発達して、もう音程だけじゃなく強弱とかもパラメータ化して、例えば弱いAの音も強いAの音も別の音として等価に扱うという前提の上で、作曲家が全部コントロールして作曲する方法。これだけ言うと今の打ち込み作曲と何が違うのって感じかもしれないけど、弱いAと強いAを別の音として等価に扱う、というのがポイントで、音は12個じゃなくて無限に増やせて、何でも使えます、だからそれでしかできない音楽がいろいろあるんじゃないか、例えば、同じことが繰り返されない音楽とか、作れるんじゃね!?っていう探求だったんだよ、うまく説明できてるかわからないけど)とかの器楽曲も書いたし、あとわたしが研究するところの、録音された音から作る音楽・音響作品も作っていた。

 だから、彼はムッシュ・フィールドレコーディングだった。ハンディレコーダーを手に街を歩いて、彼はいろいろな音を聴いた。つまり、いろいろな現象、出来事、人や物や動物に出会った。
電車は決まったスケジュールを繰り返して線路を走り音を発し、鳥は毎朝鳴き、元気な声が特徴的な近所のマダムも、毎日、彼女のスケジュールで駅に向かったり、八百屋で買い物をして店主と話したり、ムッシュ・フェラーリとすれ違ったりしたんだと思う(これはわたしの想像で、彼の発言ではないけれど)。
 そういう街の音を聴いた経験が、いろいろな円環が出会い、寄り添い、別れ……それが偶然にせよ必然にせよ起きてくる、それぞれは繰り返しなのに、全体を見ると、一つとして同じことは起きない、そんな彼の美意識につながっていったらしい(これはちゃんと彼の発言である)。そういうのを意図して書かれた器楽曲もたくさんある(フィールドレコーディングから器楽曲のインスピレーションを受けるとは、さすがムッシュ)。
 これはもしかしたら、彼の世界観になっていたのかもとも思う。様々なシステムや、現象や、人生があって、それが出会ったり交流したり離れたり。そういうのがこの世界、みたいな。
 わたしはまるきりそんな考えでいる。だからムッシュ・フェラーリはそういう意味でも偉大なのだ。
 ……いや、まあ基本的に、わたしは外の世界のことは見過ぎないようにしているけど(自分の中を見つめる時間が足りなくなっちゃダメだし、外を見すぎると直感が鈍って、自分自身のことがわからなくなってしまうから)、いざ見るときはそういう見方かなって。

 それがどうして小説の書き方につながるのかというと、小説というのは人と人、人と世界を書くものだから、世界観(文字通り世界の観かたという意味)を確立しておくことがまず必要かなと思ったからだ。
 上に挙げた二つの考え方を参考にすると、だいぶそこが確立されてくるなって。
 たくさんの現象、出来事、意図、その他諸々が折り重なっているのがこの世界で、その出会いと関わりと別れの戯れを描くけど、それを実際に作品として描くのもまた、手を動かすうちに生まれてきた、いろいろな要素同士の関わりの戯れってことなんだろう。

 すべてを自分の頭でコントロールしようとせず、まず意図をもって手を下したとしても、その結果現れてくる偶然を好意的に受け止めること。
 あまり気負いすぎず、出来上がったものを受け止めていくこと。
 まずはその繰り返しで、段々と洗練されたものになってくる、そういうものなんだと思う。わたしの憧れている完成されたものも、きっとそうして作られたのだ。
 今の段階では、わたしが頭の中でこうしたいと思っているようには、手は動かないし作れない。
 それはもう仕方のないことだから、出来上がったものが自然と語ってしまっているものに、耳を傾けていこうと思う。

 だってそうしたら楽しく続けられるもの。
 それが上達や洗練の、一番の近道でしょ?

自分とともに生きている別世界を、一遍の小説で記述しきるなんて無理さ

 上演する作品だけじゃなくて、小説も、結局その時の自分が手を動かした結果の産物だ。考えるのは頭でも、物を作るのは結局手である。

 ということは、その手を動かした結果の産物たる作品は、アイディアルな(理想的な、観念的な、抽象的な)完成品、こうしたいと頭で考えたものそのもの、になれることなんてないのだ。
作ったもの、できたものを事後的に評価するしかない。

 ってところに、物語を書く上でずっとぶち当たっていて、でもたぶんもうそれは、乗り越えられないっていうか、向き合い続けてももう変えようのない事実だから、身の振り方を考えるべきなのだと思う。

 自分が作りたいもの、こうしたいと考えたもの、を作るにはどうしたらいいのかを、調べたり研究したりしようと、この7、8年ずっと努力をしたりしてきたけど、それで結局一向に筆が進まない(書いてみては挫折している、楽しくないししんどいし自分がどこかに行ってしまうしなんだかしっくりこないし、完成するまで続けられない)ので、自分にあっていないやり方だったのだと思う。
 だから開き直る方向に舵を切ろうと決めた。
 正直まだ迷いはあるけれど、うん。

 そもそも、そういうことが起きるのは、わたしが自分の書きたいもの--わたしの中にある「彼ら」=登場人物、あの場所=作品世界、あの感じ=イメージ、というものへの思い入れが強すぎるから--そもそも、彼らと一緒に生きているからだ。
 わたしは彼らから、その世界から、何でも、いくらでも取り出してくることができすぎてしまうから、つまり可能性が無限すぎるので、一遍の小説だけにまとめられないよということなのだ。じゃあ今回はこの部分を切り出すよ、よろしく、って形にしないと気が済まない。あの人たちの、あの世界のことは語り尽くせる時なんてこないくらい。
 物語を書く時だけじゃなく、一緒に生きているから。
 あの世界は、わたしが生きるのと同時にどんどん変容していく。わたしと一緒に成長していって、いつもわたしのそばにあり、わたしは好きな時にあの世界を観光することができる。一つの場所、別世界なのだ。
 一度や二度の旅行でその町のことを書き尽くせるわけじゃない、そんな日なんて来ない、そういうことだ。
 そんな世界を綴る形は、なかなかフォーマットにできないものなのかもしれない、そもそもそこから無理があるのかもしれない……そんな風にも思う。
いやでも小説って形にする挑戦はしていきたいんだけど。小説という形--文字媒体が好きだし。

 わたしは小学校の時、書き始めてからずっと、結局は小説賞に向かって書いていたから、フォーマットとか「小説らしさ」をまだまだ気にしすぎているのかもしれない。 

 もうちょっと力を抜いて、「結果の産物」を楽しみに書けるといいな、とりあえず書かないことには仕方ないんだから。

 書いたらもちろんここに載せます。

手を伸ばす

 手を伸ばす、という言葉、言い回しを、わたしは歌詞の中でよく使う。
ということは多分、日常的にも、「手を伸ばす」と表現したくなるようなことをしているんだろう。

 昔からずーっとわたしの世界は、わたしの中にある世界とわたしの外にある世界でできていた。いや、誰だってそうだと思うけど。
わたしはわたしの中にある世界がなかなか面白かったし、賑やかだったし、見るべきものがたくさんあったから、外の世界を見る必要性が他の人より薄かったのかもしれないって、最近思う--見ようとしなくとも入ってくるものだけでも、わたしの中の世界は潤った。それに、外の世界ばかり見ていたら、中の世界を見る時間がなくなってしまう。そこの配分が難しいなって今考えている。

 だから誰かに触れようとか、何かをつかもうとか思ったら、「手を伸ばす」ことが必要なのだ。
”わたしはこれから、ふだんはあまり触れていないもの、近くにはないものに触れるのだ” という意思を持って、「手を伸ばす」ことが必要なのだ。

 開いている状態がふつうで、閉じるときに閉じようという意思(スイッチの切り替え)が必要な人と、閉じている状態がふつうで、開くときに開こうという意思が必要な人がいると思う。わたしはバリバリの後者ということで、それが「手を伸ばす」に表れている気がした。

 あ、しかし、「手を伸ばす」と「開くスイッチを入れる」は全く同じことではない。「手を伸ばす」は、閉じているふつうの状態から、手を伸ばした対象にだけ開くということ。
 開くスイッチを入れて、何に対しても完全に開く、ということは、たぶん残念ながらわたしの身体ではできない。そんなことをしたらわたしの中の世界は圧死させられてしまう。それは、マジで、無理だ。
 他人の感じられることは他人が感じればいい。わたしはわたしが感じられることを感じなければいけない、言ってみればそれが社会のためにもなるはず、と思っている。
 全体から見てどうかとか、社会から見てどうかとか、他人から見てどうかとかは、他人が感じて考えて判断することなので、わたしがどうにかすることじゃない、と。

 逆に、自分の内側にあると思っているものには手を伸ばさない。それは例えば、わたしにとっては真理や真実であったり、夢や憧れだったりする。
 一時期、そういうものたちにも手を伸ばしたことがあったし、それだけじゃ届かなかったから、追いかけたことだってあったけれど、結局手繰り寄せることはできなかったし、自分が追いつくこともできなかったし、ただ、疲れ切った自分が残されただけだったから。
考えを変えたのだ。
もしかしたら、それは全部最初から自分の中、奥底にあって、そこを見つめて、手を伸ばすとしてもそっちに手を伸ばしたら--手を伸ばすというより、水底とか、ブラックボックスの中に手を入れるみたいな感覚--そうしたら、引き寄せることができるものなんじゃないかって。
最近はそう思って、それを実践して生きてみている。実際、そんな結果というか、現実が起きている気がする。
自分に集中していたら叶った夢はいくつもあるし、あまりぐるぐる迷うこともなくなった。
もちろん、有意義な迷いは尽きないけれど。
ほんとうは答えなんて出ているのに、自分の答えを肯定できなくてぐるぐる回ることはなくなった。

 それでも、わたしの内側だけじゃなくて、外側にだって美しいもの、大切な人、気になる事物はたくさんあるから、わたしは今日も手を伸ばす。手を伸ばすという言葉を使う。
 わたしの内をよりよくしていくためにも外の世界は必要だし、わたしがそうして内の世界を育てていくことは、外の世界にも好い影響をもたらすんじゃないのかなあ、なんて思いながら。
 わたしを中心に、世界がちょっとでも幸せになるといいな。

物語への愛と憎

 久々にテレビドラマを見た。
 物語っていいなあと思った。
 現実は誰がいいやつとか悪いやつとか、正しいとか正しくないとか決まっていないし、はたから見る人にとってわたしは主人公として見えても悪役として見えてもおかしくない。
 それなのに物語にしたら、一定の説得力を持って、主人公の正しさを人に伝えられるんだもの。

 物語って難しいなあと思った。
 何が正しいとか正しくないとか、そんな答えを出してしまいがちだから。
 物語の中では、正しいと主張されたほうが正しいのだ。
 でももはやいま、現実は、正しいとか正しくないとかがそんなに重要じゃないんじゃないかと思う。少なくともわたしは、正しく生きるより楽しく生きたい。誰に対しても正しいことなんてできないし、正しく生きようと思ってもがいたら、苦しんで、心を曇らせて、身体を壊したから。
 わたし自身ずっと、物語を聞かされて、その中の正しい登場人物のように、あの人のようになりなさいって、物語を使った呪いをかけられてきたから(お説教の常套手段なのかもね)、そういうのが嫌いなのだ。

 この世の恋愛というものがうまくいかないのも、一つには物語のせいだと思ってる。物語の中の恋愛は、理念的な恋愛は、一つの事例でしかなくて。それを理想だと思って同じようにしようとするからうまくいかないってことも多いんじゃないかって。大なり小なり。
友情と恋愛感情はどう違うのって、物語によって定義されてるだけじゃないのかな。

 でも、物語って素敵なんだよ。
 優しかったり優しくなかったりする世界で、優しかったり優しくなかったりする人たちが、いろーーんなことを考えて、いろーーんなことを感じて、いろーーんなことをやって、いろーーんなことが起きて、また考えて、ちょっとずつ何かが変わっていく。
 そこが難しくて、現実では、無数に、無限に、それが重なり合っていて、しかも繰り返されている--時間的にも空間的にも意味的にも広がりが無限で。どう理解することも解釈することも保存することもできて、それがさらに重なりと繰り返しの一部になって……
 それが面白いのに、一つの物語として描こうとしたら、その中の一つの見方を出してこなきゃならない。でもさ、ある出来事Xに対して一つの見方を打ち出したら、必ずそうじゃない見方もあるわけでしょ。そんで、そこから自分にとって良いものを選んでいい、ってわけでしょ。それが面白いのに。
それで、なんか、全然うまくできないや、っていうのが今の悩み。

 むかーしむかし、書けない書けないって筆が止まる前の、何も考えてないといえば何も考えてないけど、邪念なくものを書き続けられていた小学校高学年の時の文章を、もう一度読み直してみてもいいかもしれないね。それで何かが見つかるかもしれない……しれないなあ。

 好い加減、物語が書きたいんだよ。
 だけどそのためには、この、物語という存在への愛と憎に対して、今のわたしなりの決着をつけなきゃならないんだよ。

 でもちょっとここに書き出したら整理できてきたかも。
 ありがとう。

色名。

 色名には、まずそれは青なのか紫なのか赤なのか、というカテゴライズがあって、そこに形容詞や説明をくっつける呼び方と、
そもそもその色をした物体Aがあって、そのAをそのまま色の名前にする呼び方がある。

 後者の呼び方は、それがどんな色かをわかるには一旦そのA自体を思い浮かべなければならない。つまり、風景のある色だ。すき。
色とは色だけで存在できるわけではなく、ものAによって現れてくるものであるし、そうすると自然とものAが置かれている環境や背景や、ものA自体が持っている性質なども、色には閉じ込められているのではないか--
ものA自体の名前を色名にすると、色の持つそんな側面が強まるように思われる。
風景のある色、色の外側すら含んでいるのがその色、みたいなね。
鳥の子色と言われたら、ひよこを思い浮かべて、そのひよこの体温に手を伸ばして、鳥小屋の独特のにおいが鼻腔に残っているのを引っ張り出して、あの薄暗さとそこにいる命、っていう画を思い出して味わうことができるでしょう、それをひっくるめて鳥の子色だなって思うのです。暖かくて、でもちょっと儚い、大切に守っていかなければいけない、淡くてまろやかな黄色。

 でも前者の方のエモさも良い。
海を越えてくる青だからウルトラマリンブルー、とか。
色の固有名詞があるからこそ、色へのロマンや愛や欲望や探究心を感じて、そこにすごく共感できる。
綺麗な色を見ること、見せること、作り出すことに色んなものをかけたくなるその気持ちを感じてぐっとくるのだ。
海を越えてまで手に入れた色。
他に例を挙げるならライムグリーン、ライムの香り、すっぱさ、果肉のみずみずしさ、それももちろん宝物みたいだけど、その緑色に強烈に惹かれたんだ、みたいな言葉だ。
 色ってなんでこんなに、惹きつけられるんだろ。

ライブをしました。

 昨日(12月28日)、西荻窪ALOHA LOCO CAFEさんでヒップホップのイベントに出させて頂きました。普段ヒップホップやってるわけじゃないけど。
 ラッパーの水月と作ったこの曲↓を一緒にやって、それから何曲か歌わせて頂きました。このイベントで一緒にHateful Societyパフォーマンスしない? それで憂も歌いなよ、って声をかけてくれた水月にほんとうに感謝です。

 そこでほんっとうに色んな刺激を受けたので、頭を整理しつつ、言葉として定着させるためにも、ここに書きます。敬体と常体がが混ざるけどいつものことだし別にいいよね。

 やっぱりまず思ったのは、「音楽をやれる居場所がある」ということの強さとか温かさ。心強さって言ってもいいのかもしれない、(今は)わたしの居場所じゃないにしても、ここまで支え合えるものなんだ、って思った。
 ALOHA LOCO CAFEにはDJブースがあって、店主さんも長年ラップ/ヒップホップをやり続けている人で、そういう活動をやっている人たち(もちろんそうじゃない人たちに対してもひらけた場所でもあると思う、カフェだし)がたくさん集まって交流できる空間になっていた。ソファがあったりふつうの椅子が壁際に並んでいたりバーカウンターがあったり、好きなところに座ってくつろいでも、立ってDJブースに近いところでラッパーのショーケースやDJのプレイを見て聴いて盛り上がってもいいし、居心地もいい。
 こういう経験をしたことがあまりにもなくてどう表現したらいいのか全然分からないんだけれど、宵部憂として(活動名として、つまりアーティスト/表現者として)の自分がいられる場所があって、他の人にとってもそこはそういう場所で、アーティスト同士として人と関わったり、楽しんだりできる、っていう感じだった。それが、この段落の冒頭で「音楽をやれる居場所がある」と表現した感覚です。
 それってやっぱり「界隈」とか「シーン」の力なのかなぁ、って考えている。
 わたし自身が、なかなか、人と関わる手段とか関わり方を自分から探しにいくのが苦手なのもあるけど、今までも今もひとりで活動をしてきていて、いかにも「シーン」とか「ハコ」とか「界隈」の中で音楽をしていくという経験はしていなかったので、もうそこからカルチャーショックだった。
 あ、そう「カルチャー」ね。
「界隈」を支えているのは、一つのカルチャーを共有していることだと思った。ヒップホップっていう文化とか美学とかを、みんながそれぞれのスタイルを持ちながらも、自分なりのやり方で愛して、目指して、続けていこうとする感じ。
 そうは言っても、ヒップホップとはこういうもんだ、と決めてその中に閉じこもる、とかっていうのが全くなくて(少なくともわたしが行ったところの雰囲気では)、だからわたしのような歌う人間のことも、すごく温かく受け止めてくれた。ほんとうに嬉しかったし、楽しかったです。ありがとうございました。あとラッパーたちのショーケースが全部終わった後は、テクノとかエレクトロとかアンビ系の世界観っぽい方達がハードシンセやリズムマシンやエトセトラを引っさげてやってきてプレイし始めて、そうして奏で出されるめっちゃテクノなビート?サウンド?に乗せて、さっきまでシンセか何かを操作していた方がラップし始めて、って感じになっていて、そっち!?ってなった。確かにヒップホップ、ダブの流れも組んでいるし、ダブはクラブカルチャーにも通じているし、テクノとヒップホップってある意味、親戚みたいなものなのかもしれないけど……そういう意味でも自由なヒップホップ、どこまで広がる大宇宙なんだろうと思った。可能性の追求をやめない姿勢ってかっこいいよね。
 だいぶ話が逸れたけど、カルチャーを共通項として繋がっている「界隈」、素敵だねという話でした。
もちろん、カルチャーがあっての界隈だからこそのややこしいこともあるようだけど。バトルで目立つ、盛り上げられるラッパーが売れて、もちろんそれは大事なことだけど、別のスタイルを持つ凄いラッパーが売れないのは違うじゃん、でもじゃあどうすればいいんだみたいな問題とか……。うん、確かにそれはモヤモヤするよね……。……とりあえず、そういうのも聞けて、貴重な経験ができたと思う。

 あと、これはもう勝手な宣伝みたいなものなんだけど、水月のショーケースは、声だけでもなく、身体だけでもなく、ほんとうに曲の中の世界の水月が(そして彼は曲の中に自分自身のリアルを詰め込むので、その「曲の中の世界の水月」はズレなくある時点の彼自身だったり、彼自身の感情そのものだったりするのです)そこに「いる」という感覚になるもので、やっぱり凄いよほんとうに、と思った。
 でも、やっぱりちょっと心配になったりもする。スタニスラフスキー・メソッド(ハリウッドとかで使われる演技法の一種。与えられた役について深く分析・考察して、俳優の方も自分の経験だったり、感情だったり、持っているものと役のそれらを擦り合わせて演技していく)じゃないけど、歌うたびにその感情そのものになる、その時の自分に戻る、っていうのは、やっぱり曲によってはかなり負荷がかかることだと思うから……
 真摯に自分の創作や表現や探求と向き合いながら自分を守る方法って、それも一つ、表現活動を続けていくのなら考えていかなきゃいけないことだよね、きっと。わたしも含め、水月も含め、いろんな人がうまく見つけられるといいな。

 たくさん見たショーケースの話は、一つ一つ語っているともうキャパオーバーしてしまうので割愛するけれど、全部を見た感想としては、一人一人が自分のスタイルを持っていて、それはまるっきりその人の個性(演出したい個性、でも良い)や生き方や人生や感性やエトセトラと直結していて、全然飽きなかった。人間の面白さ、ずっと見てられる感じ、美しさ、ここに大爆発だなって感じ。
 それはやっぱりラップだから、ヒップホップだからというのは大きいと思う。表現してることとやってることが食い違ってちゃ話にならないから、生活するのだって表現することだ、っていうの、よくある話かもしれないけど、ここまではっきり出しちゃうのって他になかなか無いと思う。
 イリュージョンはなくても(ラップには「リアル」であれ、という美学があるようなので、イリュージョンの真逆を行っている、でももちろんイリュージョンを目指すラッパーも数は少なくともいるだろうけど、わたしも一人そういう方は一方的に知っている)エモさはあるし、味わいの自由はあった。人の話の聴き方が自由なのに近いのかも。
「人生と音楽が直結している」のが一番はっきりとした、清々しい、分かりやすい形で(分かりやすいことがいつも悪とは限らない)現れている気がした。
……あと少し話がそれるのだけど、ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-の企画のうまさというか、ハマってる感じ、ブレイクの秘訣の一つもそこにあるような気がする。
オタク(あえてこう表現します)には、二次元キャラクターの人間としての厚みを、深く深くとんでもなく深ーく考察するオタクというのがいる。二次元キャラクターには、設定(過去)や物語中の行動(現在)が与えられている。その設定とか物語を「人生」として捉え、どんな人間かを考える、みたいな感じだと思う。そしてそういうオタクはその考察を元に二次創作をすることも多いのだけれど、二次創作人口は女性が占める割合がめっちゃ多いらしい。あと、イメソンを考える文化とかもある。ソングだけじゃなくて、イメージ〇〇には色々あるけど。わたし自身もそういうのめっちゃ好き。
で、これを前提として思うのは、ヒップホップというカルチャーの、人生と音楽がつながっている感じ、これを「エモさ」としてみると、そういうオタク、ないしそういうエモさが好きな人たちの需要と、超ばっちり!噛み合ってるんじゃないかなって。
キャラソンってエモいけど、それをヒップホップのスタイルでやると一層エモい気がする。だって本当に人生そのものと、歌っている本人の生き様繋がっているという前提で作られ、聴かれる音楽ジャンルだもの。
もちろんヒプマイが好きな人たちがみんなそういうところに惹かれているとも思わないけれど、かなり大きな要素なんじゃないかと思った。

……うう、まだまだまだまだ書きたいこと、でもまだ書けてないことあるけど、今日は眠くなってきたので、ひとまずこの辺で。
また明日も書きます。
今日のところは、おやすみなさい。

進捗と今日のこと。小説を書いてた。

 新曲がほぼできた。
優しい、優しい曲になったと思う。
どんな人もいたわるような、慈しむような、側にいて、そっと「手当て」をするような、そんな曲になっていたらいいな。

 今日は朝から小説を執筆していた。
もうずっと長編小説を書こうとしては挫折してを、8年くらい繰り返している。8年! ……自分のことなのに、軽く引く。
たぶん色々と難しく考えすぎだし、完璧主義があだになっているのだ。きちんと練りこんでからでないと手を動かせないのは、ある程度変えようのないわたしの特性だろうし、それゆえの長所もきっとあるだろうけど、まずはものを作らないことには何も考えられない、という場合があるのも重々承知している。長編小説なんていう、わたしの身では捉えきれない時間的長さのあるものを作ろうと立ち向かう場合は、きっとそういう場合に分類されるのだ。だから、まずは楽しく手を動かさないといけない。
この「楽しく」というのがポイントで、結局「書かなきゃ」という動機で書いたものは、得てしてつまらない。読んでいて窮屈な気持ちがしてくるし、どうでもよくなってくる。そんな事象こそ一番避けたい。「うわ、これつまらな」--そう思った時、その惰性の文章を書いた自分の労力、苦しみ、全部がダメになる。そんなことを回避するためにも、「楽しく」手を動かさねばならないのだ。

 しかし、いつもは頭がものを書くモードになるまで、文章を書く行為が身体に馴染むまで、ワードを立ち上げてからしばらくかかっていた気がするが、ここ数日連日ここに書き込みをしているせいか、意外と今日はすんなりと、長文を自然に吐き出すことができた。もちろんそれらを編みつなげていって長編小説にすることが大変なのだけれど、千里の道も一歩からだし、どんな美しいタペストリーも一織り一織りから成っているように、長編小説も一つ一つの文章からできている。文章がなければ何も始まらない。だから、文章をすらすらと紡げるようになること、そのモードに入りやすくなっておくことは、一つ小説を完結させるために必要なことなのだと思う。
ここに文章を連ねることは、そういう意味でもすごく役立っている。そんな手応えを少し感じて、嬉しかった。

 とりあえず春には完成させたいなと思っている。予定は未定と言っちゃあそうなんだけど、気持ちとしては。
タイトルは「かくて蜂巣に至るまで」、花と物語と心がテーマで、役者が主人公、演劇--演劇にも色々あるけど、ある種の演劇がひとつ主軸としてあるような作品です。わたしの周りにいる、創作活動をしている人たちの影響を色濃く受けていて、反映されている作品なので、その当の人たちに見せるのが今から恥ずかしかったり。でも励みになるので、リアルの友達には途中のを読んでもらってもいいかも。

 ……なんて偉そうなことを書き連ねたけど、まだまだ正直、うまく出来上がるのか不安で、何も分からない状況。一応キャラクター、つまり書きたい人物はできていて、ということは必然的に書きたいものも決まっているから、そこは迷わないけれど、それをどういう風に構成していったらいいかは悩んでる。やっぱり、ほんとうに、長編小説って時間的なスケールが大きすぎて、なかなか追いきれないもの。
 でも多分、そこもだいぶ経験で勘を掴んでいくものなのだと思うから、これをいい経験とするためにもやっぱり完結させないといけないんだけどめっちゃ悩んでいる。むーーん。
 音楽だったら何度も聴いて、自分の感覚を頼りにブラッシュアップする感じにしているけど、それを小説で同じことをしようとしたら、小説を何度も読むとなるとやっぱり時間がすごく必要だ。っていうか、そのために文章が必要って話もある。……結局とっとととにかく楽しく手を動かして文章を用意するに尽きるな。

 なんだかまとまらない話になってしまったけど、今日の活動報告はこんな感じ。
 それではまた。

チェキのはなし

 最近チェキカメラを使うことがあって、いいなあ、としみじみ思った。

 チェキってすごくシンプルなカメラだから、凝った画はなかなか取れない。どちらかというと、「その時の記録」みたいな、ある種のライブ感みたいなのがある。
撮った人と撮られる人(もの)の関係、いつ撮ったのか、みたいなのを含めて完全な写真になれる感じ。
写真の、画面の外があって初めて完成する感じ。
それがすごく開かれている感じがして、いいなって。

 写真っていうのはビジュアル情報の中でもかなり強くて堅固なもので、一瞬で何かしらの情報なり、印象なりを伝えてしまう。それがやっぱり怖いところもある。
写真の中の完成された世界だけが全てに見えて、写真の外に何もない感じがしてしまったり。写真自体の中身を見すぎて、その写真を取り巻いていた関係や環境に目が向かなくなってしまったり。それでも強く「事実」みたいに焼き付いてしまったり。

 チェキの、その画像だけでは成り立てないかもしれない不完全さには、柔軟さや、様々な文脈を受け入れられる器の大きさ、可能性、自由さ、開放感、そんなものを感じた。

 そう、自由と開放感ね。
思い出の記録だから、うまく撮ろうとしなくても大丈夫、凝った構図を作ろうとか気取らなくても大丈夫、みたいな自由と開放感も、チェキカメラを手にして久しぶりに感じられた。

 あと、写真だけでは成り立たない〜とか言ってしまったけど、ふつうに画像としても、チェキの仕上がりって独特の味わいがあるよね。あれも好き。ノスタルジックさに拍車がかかるっていうか。だから一層思い出として大切にできる感じがする。

 これからまたチェキカメラと一緒に出かけてみようかな。
わたしの性格的にすっごくお気に入りの一枚を出かけた先一箇所につき二、三枚撮るぐらいになっちゃいそうだけど、新しい景色に出会えそう。

 

2019/12/21 ふだんを見せる。

色々と考えたけど、ブログもこっちでやることにしました。
わたしの作品とわたしの毎日やってること、思ってることは地続きだから、一緒のサイトに集まってた方がやっぱりいいよなーと思いまして。
思いついたこととか、今日やったこと、感じたこと、もちろん創作活動の進捗も含めて、わたしのふだんの生活を見せようかなーって思います。

今日はとあるパーティがあって、ちょっと準備とかに関わったり、ちょっとした出し物をしたりした。いろんな人と楽しくおしゃべりした。たまにはそういう機会もあったら楽しいなって思った。
なんか朝から下半身が異様にだるくて、大丈夫かなこれって思ったけど。今もだいぶ眠いからこれが終わったら泥のように寝るつもり。

出し物は歌だったんだけど、わたしにとって歌うってどんなことかなあってやっぱり考えさせられた。
自分で言うのもなんだけど、わたしは声が綺麗だと思うし、音程とか感情の込め方(歌いかけ方)とか、多少発声の仕方もそれなりに自分で経験を積んできたと思う。いろんな人に好きになってもらえるんじゃないかなーって自負があるのです。
ただ、それと自分のふだんの活動(シンガーソングライター。あと人の曲を歌ってみたい気持ちもすごくある)をどう繋げていくかは、もっともっと工夫していきたい。
音として綺麗なだけでも違うし、うまいだけでも違うと思うし、朗読に近いものというスタンスでいるから。わたしはね。だからそのスタンスをもっとくっきりさせていくというか、よりよくしていくためには、もっともっと学べることがあるはず。

あと防災訓練もやったけど、やっぱ災害に備えた備蓄をしとかなきゃなって思った。……災害の前に食べちゃいそうだけど。お腹が空いてるのに食べられるものがなくて、手に入れに行こうにも動けない時に。でもやっぱり試みないとね。

眠いから今日はこの辺で。悪文だったら後で、明日以降のわたしが直します。

おやすみ〜