最近リュック・フェラーリが面白い。
多分これから先、私は彼を北極星として創作を行っていくんじゃないかなんて思っている。北極星というのはつまり、必ずしも彼に従って、彼を目標としていくのではなく、ただ、彼がそこで光っていてくれるから、自分はどこへ進むべきか(だから必要に応じて彼とは別の方向に進むことだって当然ある)分かって、そう進んでいける、というような存在なのだ。
リュック・フェラーリは1929年パリに生まれた作曲家だ。同時代の作曲家には、ジョン・ケージ、ヤニス・クセナキス、ピエール・シェフェール、ピエール・アンリ等々がいる。彼の時代にはミュジック・コンクレートとセリー音楽が現代音楽の大きな2本の柱になっていて、そのため彼は様々な葛藤や冒険をあるいは余儀なくされ、あるいは自ら楽しんでいた。
私がフェラーリを知ったきっかけ、彼に惹かれたきっかけは、彼が「逸話的音楽」という言葉を使ったことだ。授業で彼についての概要を聞く機会があり、「逸話」と「音楽」という言葉を使った、物語と音楽について追究したい私には一度聞いたら忘れられないタームが出てきたので、そのタームを使った人物について調べてみようと思った。ら、そのフェラーリとかいう御仁はとんでもなく面白い人のようだということが分かった。
で、ここで「逸話的音楽」について詳しく語ってみるけれども、興味のない方は読み飛ばしてくださっても構わない。
ミュジック・コンクレートとは、録音された音の素材を使って作る音楽(というか”音響作品”と呼んだほうがいいかもしれない、私たちが一般に考える「音楽」とは正直言ってだいぶかけ離れているし)である。リュック・フェラーリは上述のピエール・シェフェール、ピエール・アンリらとともに(そこにはクセナキスもいたわけだが、特にこの2名がセットで有名なのだ)、このミュジック・コンクレートの実験および創作を行っていた。
しかし結局、アンリとフェラーリはシェフェールの元を去ってしまった。というのも、シェフェールは「録音された音が何の音であるか分かるように使う」とか、「何の音であるかが意味を持つような作品を作る」ということをミュジック・コンクレートの禁忌、美学に反する行為だと考えていたからだ。シェフェールは、雑音や日常音=楽音に比べればとるに足りないものとされてしまう音でも、録音して「その音自体」として注意深く、美的神経を働かせて聴くことで、音楽の素材となることができる、それこそがミュジック・コンクレートの意義である……という風に考えていたっぽく、そのためにはその音が持つ音としての特徴が大切なのであって、ある音の鳴るに至った背景や社会での意味を持ち出すことは、音を聴覚的な刺激として聴く妨げになるから、むしろ邪魔である、と考えていたっぽい。
つまり逆に言うと、アンリとシェフェールはその「録音された音の意味」を使った創作をしてみたかったのである(シェフェールやアンリについてはこれから詳しく調べる予定なので、間違っていたらぜひ優しく訂正して頂きたい……)。
というわけで、シェフェールと袂を別ったフェラーリは、録音した音を使い、その音が持つ、その音が鳴るに至った背景であったり、どこで録ったどのような音であるかといった”音の意味”を重要視してミュジック・コンクレートや、その他の作品を制作し、これを「逸話的音楽」と呼んだ。
音が持つ逸話を大切にする態度は、この後、彼の生涯にわたる制作テーマの一つになった。
……というのがフェラーリの「逸話的音楽」についての概要である。あれだよね、エピソードをその内側に持った音っていうかなりロマンチックな感じいいよね(あえて直感的な表現)。エピソードをその内側に持った、とか、意味を込めたもの、ってなんだか花言葉のついた花とか石言葉のついた石とかに似ててロマンチックだと思った。
彼は「逸話的音楽」の他にも面白い発想というか制作テーマをたくさん打ち出していて、その面白さはとてもこの記事一本では語りきれないけれど無限に語れる気がする。
とりあえず以下の二冊を読んでみてほしい。まじ面白いから。
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リュック・フェラーリとほとんど何もない―インタヴュー-リュック・フェラーリのテクストと想像上の自伝
フェラーリの友人で音楽学者のジャクリーヌ・コー氏の著。フェラーリが自分の作品についてコーによるインタビューを受けて語っている(そこにコー氏のまとめ文などがつく)方式なので、フェラーリがものを作るとき何を考えていたのか、本人の口から出た言葉(の翻訳!)を読むことが出来る! すごい!
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リュック・フェラーリ-センチメンタル・テールズ──あるいは自伝としての芸術
フェラーリが書いていた、「自伝」(必ずしも一般的な意味の「自伝」と一致するものばかりではない、そこもまた面白い)をはじめとするテクスト(の翻訳!)が集められている。巻末には役者による「リュック・フェラーリ小伝」と、翻訳協力者による「ドイツにおけるヘールシュピール小史」もついている。すごい!
というわけで読んでみてくださいね。
あと最後にこれだけは語りたい、彼の、「実験音楽」というジャンルに真摯なところ(本人はそうしているつもりはないと思うけど)も大好き。
リュック・フェラーリは、自分のアイデンティティを固定化してしまうこと、誰かに「正解」を教える、教条的な立場になることを強く拒否していた。一つの理想に捉われることを拒否し、形式や思想、理念と向き合い、それが自分を縛るものであるならそれを破壊し、それが自由を保障してくれるものならそれと融和する。その態度は、創作の根幹である”自由”を何より大切にするものだと思うし、それが「実験音楽」の本懐なんじゃないかと思う。
だから彼がひいた道筋はかけがえのないものなんじゃないかと。やっぱり北極星としたくなるにはそれだけのゆえんのある人ということだ。
というわけで、私は彼についての研究・分析から着想を得て自分の創作をガリガリ進める……ということになっていきそうだ。
やっと掴めた自分のペースを大切にしつつ、惑星のように堂々と、坦々と、夢中になって、活動していきたいと思う。
というわけで今年も宵部憂をよろしくお願いします。