にんげんであるまえに、いのち。

 最近平仮名を使うことが多くなった。

 マクルーハンはアルファベットは完全に抽象的な「音素」という概念を記すための記号、そこから音を復元するためだけの、それ自体は意味を持たぬ記号としての初めての文字だ、みたいなことを言っていたけど、それと関係があるのだろうか。
 日本語のことを考えると、ひらがなもカタカナも漢字から生まれているから、実はアルファベットのような「音素を表すためだけの抽象的な形」かと言われると微妙なのよね。

 わたしが自分の一人称を「私」ではなく「わたし」と書くのも、わ、た、し、っていう音の響きを読んだ人の頭の中に響かせたいからで、最近ひらがなをつかうことが多くなったのもそれと同じ理由。音の響きを読んだ人にきかせたいから。
 まあそもそも日本語は子音と母音が分かれない言葉で、ひらがなやカタカナはその子音と母音が分かれない音節(音素ではなく)を表した文字だから、やっぱアルファベットとは違うんだと思う。
 ……読み返してみたらマクルーハンも「音節文字には知覚内容(=この場合は音のことだと思う)と概念(意味)が残されている。例えばpa(パ)は父親(father, papa)を意味するように」って言ってたわ。ひらがなやカタカナは音節文字だから、うん、ゴリゴリに関係あったわ!

 いや、ここまでの話は全部余談なんだけど。

 ここから本題、タイトルの話ね。

 

 わたしたちは、「人間」……つまり、社会的な、職業や役割りを帯びた存在である以前に、いのち、だよね。

 わたしの中にはどうも、そういう世界観があるみたいでさ、我ながらそれって素敵じゃね? って思ったから、ブログに残しておこうと思った。

 わたしは占いが好きで、12星座の性格や宿命の話だったり、四柱推命の命式(あんまり詳しくないけど、十二運星とかワクワクする!)の話だったり、タロットカードの特に大アルカナの話とかが好きなんだけど。

 それはなんだろ、すごく現実的で物質な話を超えた、「生き方」みたいな、魂の色みたいなものを感じさせてくれるからなんだ。

 これは型にはめるってことじゃなくてね、なんだろ、やっぱり元型みたいなものを感じるから。
 誰の中にもある、乙女座的な部分、建禄的な部分、女帝的な部分、みたいな。
(12星座って、あまり知られてないけど、普通に星占いで言われる「あなたは何座!」みたいなのは太陽星座の話であって、本当はどの星座の成分も一人一人の中や周りにあるんだよね)

 一般的に「進路」なんて言われて、職業しか想定されてないみたいな「将来の夢」なんかの枠なんて取っ払った、生き方の話。
 むきだしのいのちの話。
 それが、わたしは、知りたい。

 この常識というよくわからない血の通っていない機構で動く時計仕掛けの世界の中で「うまくやっていく」方法なんてさ、児戯に等しいんだよ。ちっともいのちじゃない。時計仕掛けは舞台だけで結構。
 世の中はもっと有機的で、神秘と奇跡に溢れてる。そう思う。

 だからさ、本当に、どんな風に生きたっていいんだよ。
 ……これはまだ、わたしがしっかりとは信じきれてないから、自分に向かって言ってあげている感じになっているけど。

 立派じゃなくたって、引きこもりだってニートだって、良い。

 いのちが輝いていれば。

 心臓さえあれば、きっとどこまでも生きていける。

 

 すごく抽象的になったけど、抽象的ってことは、わたしが告げたいことは、ブログだろうが歌だろうが、きっとそこに集約されるのかもしれない。

 せめてわたしの世界に触れている間は、そう感じてもらえたら、いいな。

 

 そのためには、まず誰よりもわたしが、そのゾーンにいつでもいけるようでいないとね。笑