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 まだ読めてないけど、中沢新一『ポケモンの神話学』という本を注文した。ずっと読みたかった本。

 資本主義とか新自由主義とか、規律社会とか管理社会とか、アサイラムとか、そういうことが関係しているんじゃないかってわたしは睨んでいるけど、
 ここ数十年の子どもには神話的経験が許されていないんじゃないかって心配になる。
 少なくとも、わたしが生きて見てきた22年(もうすぐ22年)の間に、子どもができる経験はどんどん狭まっているような気がして心配。

 一昨年、映画をめっちゃ見る集中講義を取った時に、ある1日のカリキュラムとして「神話・儀礼・子どもの世界」というテーマでアルベール・ラモリス『白い馬』『赤い風船』、それからロバート・J・フラハティ『ルイジアナ物語』を見た。
 どの作品も素晴らしくてお気に入りになった。いつか絶対DVD買いたい! わたしは気に入ったものは手元に収集しておかないと気が済まない独占欲気質なのである!!!!!

 話を戻して。
 そこで思ったのは、子どもにとっての神話的経験というのは、「ひとりでできるもん」なのではないか、と、当時のわたしは考察したのだった。
 これは神話的経験というだけでなく、子どもから大人になるためのイニシエーション(通過儀礼)という言葉も、同じ範囲をカバーしている言葉な気がする。

 つまり、大人の手を借りず(ときには大人と敵対すらして)、自分の目的を果たさなければならない経験。そしてその目的は、与えられたもののこともあれば、その目的自体が大人と対立していることもある。

 ということは、「通過儀礼」は大人から与えられたミッションをこなすことで、大人から「君は大人だ」と認められることなのかもしれず、でもその過程では「ひとりでできるもん」が発生するので、その部分は神話的経験ってわたしは言いたくなる。

 でもわたしが惹かれる神話的経験、「ひとりでできるもん」とは、とにかく、
「子どもが、大人の感知しないところで、自分の懐に抱えておけるような、自分だけの経験をすること」なのだ。

 こうした経験は、子どもたち自身をひとりの自我を持った人間として成長させる大きな基盤になる。と思う。

 まあもちろん、広い目で見ると、自分の経験することは自分にしか経験できないので、何だって神話的経験みたいな、「自分にしか感じられないもの」を得るきっかけになるだろうけど。

 ただ、そこに大人たちの監視的な目が入らないか(特にその子ども当人の意識の中に)どうかが、かなり重要だと思うのだ。

 自分の行動に自分で責任を取らなければならず、自分で考えて行動しなければならない、でもその代わり、とても自由で、その自由さが心細いような経験。
 その中で、子どもは責任や自由や勇気や自尊心を学ぶのだと思う。

 でも、当然そんな野放図な場所では、子ども同士のトラブルも起きる。
 そして子ども同士のトラブルだからといって、その中には、決して軽視されるべきものではなく、ちゃんとした仲裁や審判を大人が下さなければいけないものもある。

 でもだからといって、全部監視するの?

 それは、自分というものを持つことに怯える子どもがたくさん生まれるだけなんじゃないかって、それがわたしはすごく心配だ。
 周りの顔色を伺う、自分を押し殺してしまう、そういうのはもったいないし、悲しい。

 というわけで、子どもにはひとりでできるもん的体験が必要だと思うのだが、今はかつてそういう経験の舞台となっていた気がする里山や森みたいなものはどんどん切り崩されているし、当然秘密基地を作ることも禁止されているし(っていうかそんなことができそうな場所もそもそもなかったりするし)、秘密にさせてもらえることがあんまりない。
 ということで、子どもが神話的経験をする場所は、ゲームの中になったんじゃないかなあ、と思う。
 そういうわけで、『ポケモンの神話学』がめちゃくちゃ楽しみだ!!!!

 自分で考えて自分で選択し、自分の冒険を進めていくのがゲームなんだから、そここそが自分だけの体験の場だ。
 しかもゲームの世界に閉じられていて現実世界への影響力はそうでもないので安全に冒険できる……安全に冒険できるように作られているゲームも多いと信じたい。
(もちろん例外も結構あるから気をつけないといけないけど。ソーシャルっぽい要素が強いやつは現実世界そのもののトラブルを起こすことがある。某FPSとかね)
 まあ、とはいえその「安全」を追求しすぎると、とっても管理的になってしまうから良くないんだよなあ……

 最近はそういうこと言う人いなくなったと思うけど、まだ生き残ってるとも思うから言っとくけど、「ゲームで何をクリアしても、現実世界には何も影響しないからゲームは無駄」みたいなクソみたいなことを言う頭の硬い人がたまにいるが、
 ゲームで何かクリアしたこと自体は現実世界の役に立たないのかもしれないけど、ゲームを通して感じたことや得た成功経験、自分で考えて問題を解決できたこと、っていうのは、むしろ子どものうちだからこそ感じておいて損はないことだと思うし、
 っていうか誰のせいでそういうものを子どもたちがゲームの中でしか感じられなくなっちゃってるのか胸に手を当てて考えた方がいいと思いますね。

 ……ということを考えながら、もういい加減後がないなか卒制のことを唸っています。
 あああああああ

 神話的経験、柔軟でしなやかで強い心を作るためにも必要だと思うんだよな。
 夢や希望を見る力とも繋がってると思う。

 もしかすると、この世にたくさんある「大人になりたくない」の中で、その幾らかを占めてるのは、「あの時感じた夢や希望を失いたくない」なんじゃないかな。