ライブをしました。

 昨日(12月28日)、西荻窪ALOHA LOCO CAFEさんでヒップホップのイベントに出させて頂きました。普段ヒップホップやってるわけじゃないけど。
 ラッパーの水月と作ったこの曲↓を一緒にやって、それから何曲か歌わせて頂きました。このイベントで一緒にHateful Societyパフォーマンスしない? それで憂も歌いなよ、って声をかけてくれた水月にほんとうに感謝です。

 そこでほんっとうに色んな刺激を受けたので、頭を整理しつつ、言葉として定着させるためにも、ここに書きます。敬体と常体がが混ざるけどいつものことだし別にいいよね。

 やっぱりまず思ったのは、「音楽をやれる居場所がある」ということの強さとか温かさ。心強さって言ってもいいのかもしれない、(今は)わたしの居場所じゃないにしても、ここまで支え合えるものなんだ、って思った。
 ALOHA LOCO CAFEにはDJブースがあって、店主さんも長年ラップ/ヒップホップをやり続けている人で、そういう活動をやっている人たち(もちろんそうじゃない人たちに対してもひらけた場所でもあると思う、カフェだし)がたくさん集まって交流できる空間になっていた。ソファがあったりふつうの椅子が壁際に並んでいたりバーカウンターがあったり、好きなところに座ってくつろいでも、立ってDJブースに近いところでラッパーのショーケースやDJのプレイを見て聴いて盛り上がってもいいし、居心地もいい。
 こういう経験をしたことがあまりにもなくてどう表現したらいいのか全然分からないんだけれど、宵部憂として(活動名として、つまりアーティスト/表現者として)の自分がいられる場所があって、他の人にとってもそこはそういう場所で、アーティスト同士として人と関わったり、楽しんだりできる、っていう感じだった。それが、この段落の冒頭で「音楽をやれる居場所がある」と表現した感覚です。
 それってやっぱり「界隈」とか「シーン」の力なのかなぁ、って考えている。
 わたし自身が、なかなか、人と関わる手段とか関わり方を自分から探しにいくのが苦手なのもあるけど、今までも今もひとりで活動をしてきていて、いかにも「シーン」とか「ハコ」とか「界隈」の中で音楽をしていくという経験はしていなかったので、もうそこからカルチャーショックだった。
 あ、そう「カルチャー」ね。
「界隈」を支えているのは、一つのカルチャーを共有していることだと思った。ヒップホップっていう文化とか美学とかを、みんながそれぞれのスタイルを持ちながらも、自分なりのやり方で愛して、目指して、続けていこうとする感じ。
 そうは言っても、ヒップホップとはこういうもんだ、と決めてその中に閉じこもる、とかっていうのが全くなくて(少なくともわたしが行ったところの雰囲気では)、だからわたしのような歌う人間のことも、すごく温かく受け止めてくれた。ほんとうに嬉しかったし、楽しかったです。ありがとうございました。あとラッパーたちのショーケースが全部終わった後は、テクノとかエレクトロとかアンビ系の世界観っぽい方達がハードシンセやリズムマシンやエトセトラを引っさげてやってきてプレイし始めて、そうして奏で出されるめっちゃテクノなビート?サウンド?に乗せて、さっきまでシンセか何かを操作していた方がラップし始めて、って感じになっていて、そっち!?ってなった。確かにヒップホップ、ダブの流れも組んでいるし、ダブはクラブカルチャーにも通じているし、テクノとヒップホップってある意味、親戚みたいなものなのかもしれないけど……そういう意味でも自由なヒップホップ、どこまで広がる大宇宙なんだろうと思った。可能性の追求をやめない姿勢ってかっこいいよね。
 だいぶ話が逸れたけど、カルチャーを共通項として繋がっている「界隈」、素敵だねという話でした。
もちろん、カルチャーがあっての界隈だからこそのややこしいこともあるようだけど。バトルで目立つ、盛り上げられるラッパーが売れて、もちろんそれは大事なことだけど、別のスタイルを持つ凄いラッパーが売れないのは違うじゃん、でもじゃあどうすればいいんだみたいな問題とか……。うん、確かにそれはモヤモヤするよね……。……とりあえず、そういうのも聞けて、貴重な経験ができたと思う。

 あと、これはもう勝手な宣伝みたいなものなんだけど、水月のショーケースは、声だけでもなく、身体だけでもなく、ほんとうに曲の中の世界の水月が(そして彼は曲の中に自分自身のリアルを詰め込むので、その「曲の中の世界の水月」はズレなくある時点の彼自身だったり、彼自身の感情そのものだったりするのです)そこに「いる」という感覚になるもので、やっぱり凄いよほんとうに、と思った。
 でも、やっぱりちょっと心配になったりもする。スタニスラフスキー・メソッド(ハリウッドとかで使われる演技法の一種。与えられた役について深く分析・考察して、俳優の方も自分の経験だったり、感情だったり、持っているものと役のそれらを擦り合わせて演技していく)じゃないけど、歌うたびにその感情そのものになる、その時の自分に戻る、っていうのは、やっぱり曲によってはかなり負荷がかかることだと思うから……
 真摯に自分の創作や表現や探求と向き合いながら自分を守る方法って、それも一つ、表現活動を続けていくのなら考えていかなきゃいけないことだよね、きっと。わたしも含め、水月も含め、いろんな人がうまく見つけられるといいな。

 たくさん見たショーケースの話は、一つ一つ語っているともうキャパオーバーしてしまうので割愛するけれど、全部を見た感想としては、一人一人が自分のスタイルを持っていて、それはまるっきりその人の個性(演出したい個性、でも良い)や生き方や人生や感性やエトセトラと直結していて、全然飽きなかった。人間の面白さ、ずっと見てられる感じ、美しさ、ここに大爆発だなって感じ。
 それはやっぱりラップだから、ヒップホップだからというのは大きいと思う。表現してることとやってることが食い違ってちゃ話にならないから、生活するのだって表現することだ、っていうの、よくある話かもしれないけど、ここまではっきり出しちゃうのって他になかなか無いと思う。
 イリュージョンはなくても(ラップには「リアル」であれ、という美学があるようなので、イリュージョンの真逆を行っている、でももちろんイリュージョンを目指すラッパーも数は少なくともいるだろうけど、わたしも一人そういう方は一方的に知っている)エモさはあるし、味わいの自由はあった。人の話の聴き方が自由なのに近いのかも。
「人生と音楽が直結している」のが一番はっきりとした、清々しい、分かりやすい形で(分かりやすいことがいつも悪とは限らない)現れている気がした。
……あと少し話がそれるのだけど、ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-の企画のうまさというか、ハマってる感じ、ブレイクの秘訣の一つもそこにあるような気がする。
オタク(あえてこう表現します)には、二次元キャラクターの人間としての厚みを、深く深くとんでもなく深ーく考察するオタクというのがいる。二次元キャラクターには、設定(過去)や物語中の行動(現在)が与えられている。その設定とか物語を「人生」として捉え、どんな人間かを考える、みたいな感じだと思う。そしてそういうオタクはその考察を元に二次創作をすることも多いのだけれど、二次創作人口は女性が占める割合がめっちゃ多いらしい。あと、イメソンを考える文化とかもある。ソングだけじゃなくて、イメージ〇〇には色々あるけど。わたし自身もそういうのめっちゃ好き。
で、これを前提として思うのは、ヒップホップというカルチャーの、人生と音楽がつながっている感じ、これを「エモさ」としてみると、そういうオタク、ないしそういうエモさが好きな人たちの需要と、超ばっちり!噛み合ってるんじゃないかなって。
キャラソンってエモいけど、それをヒップホップのスタイルでやると一層エモい気がする。だって本当に人生そのものと、歌っている本人の生き様繋がっているという前提で作られ、聴かれる音楽ジャンルだもの。
もちろんヒプマイが好きな人たちがみんなそういうところに惹かれているとも思わないけれど、かなり大きな要素なんじゃないかと思った。

……うう、まだまだまだまだ書きたいこと、でもまだ書けてないことあるけど、今日は眠くなってきたので、ひとまずこの辺で。
また明日も書きます。
今日のところは、おやすみなさい。