マクルーハン父子『メディアの法則』講読メモ3

ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』インスクリプト 2015年

 の講読メモです。

 水色の箇所は本の内容ではなくわたしの感想や推察です。
 灰色の部分はわたしの注です。
 緑色の部分は、文章の内容としては脇道だけれども、わたしの興味を引いたので抜粋した部分です。

 この記事ではコメントを許可しているので、わたしが何か間違ったことを書いていたり、問題のある書き方をしていたり、耳寄り情報があるなどの場合は、コメントに書き込んでお知らせいただけると大変助かります!

序論(p.10~22)

 人間が手を加えた人工物は、ある種のことば(語)=経験をある景色から別な形式へ翻訳する隠喩(メタファー)である
 本書は、こうしたことば(人工物あるいはメディア)の語源研究と釈義を提供
注 釈義とは:文章・語句などの意味を、解釈・説明すること。また、その内容。(コトバンクより)

「古い学」は、ルネサンス以降の伝統 内容(コンテント)と伝達(メッセージ)の中身についてだけの科学
「新しい学」(ヴィーコをひいている)--「人間が関わるメディアと技術に関する研究は、人間の本性の研究から始めなければならず、感覚の研究に没頭しなければならない」

ヴィーコ『新しい学』の引用より
「この社会は人間によって造られたものであるから、原理はわれわれの人間精神そのものの変化容態の中に求めることができ、またそうでなくてはならない」

 視覚空間はアルファベットの使用によってもたらされたもの

 聴覚空間を理解する上で、ロゴスやミメーシス、形相因の本質について大きな混乱があった
 視覚空間の世界観で解釈されてしまった
 →ロゴス、ミメーシス、形相因の形式の解釈が2つ存在することになった
  一方は口述的な、まとまりを欠いたあるいは試験的な試みとみなされ、
  他方は視覚的な構造を持つとされた
注 形相因とは: アリストテレス哲学の四原因の一つ。事物をして事物たらしめる本質規定。(コトバンクより)

 あらゆる状況は、注意を引く領域(図)と、注意を引かない大きな領域(地)からなっている(ルビンの概念、1915年頃)
 図と地は戯れあっており、一方が他者を引き出す
 図は地から現れ地に退く
 地はあらゆる他の全ての図を同時に含む

(感覚を持つものが注意をどこに向けるかで図は移りゆく)

 図が知覚される「条件」=「ものの見方」
 地をそれ自体として研究することは不可能 地は常に環境的で、閾下にある
 ↑を研究するために取り得る唯一の戦略は「反=環境」を構築すること=芸術家の活動
 芸術家は、感受性を再訓練・刷新できる存在(だから「地」「環境」=知覚できないものを知覚できるようにすることができる)

 地→図
「出来事はそれが起きる前に影を投げかける」
 (メディア)図(技術や人工物)を引き起こすための条件であり、図が及ぼす効果と逆効果の全環境でもある。
 だから地は、新しい文化様式にならねばならない
 古い地が新しい状況(文化様式、社会情勢…)に内包されてしまうと、美的な図として見えてくる
 ↑一般の人から見てこうなるずっと前に、現在の地はどうなっているのか見えるようにするのが芸術家の仕事
  新しい文化様式を感じ、新しい文化様式によって生まれた感受性の形式を探求する=「未だことばになっていないものに攻め入」る人類のアンテナ

 聴覚空間と触覚空間は不可分
 聴覚と触覚のゲシュタルトは、特有の空間の形状をつくりだす
 図と地は動的な平衡状態にあり、両者を分けている間を超えて圧力を掛け合っている
 共鳴した間 共鳴ー聴覚空間の様態 間ー触知性、圧力、境界
(↑「それぞれの感覚のやり方で、境界を持ちつつも干渉しあっている」ことの表現?)
注 ゲシュタルトとは:部分からは導くことのできない、一つのまとまった、有機的・具体的な全体性のある構造をもったもの。形態。「かたまり」みたいな? 部分に分けられないかたまり。

 触覚空間は、対象と対峙することではなく、対象とともに生きることを要求する(リュセイラン『光ありき』から引いて)

 テトラッド
・それは何を強化し、強調するのか?
・それは何を廃れさせ、何にとって代わるのか?
・それはかつて廃れてしまった何を回復するのか?
・それは極限まで押し進められたとき何を生み出し、何に転じるのか?

「古い学」は動力因
注 動力因とは:事物の運動、生成、変化を引き起こす力、動因となるもの。(コトバンクより)
 人間とは何か?=ことば/言葉とは何か?=何が起きているのか? を探るための形相因ではなく、「何が起きているのかはどうやって考えたらいいのか?」という動力因子、ということ……?

『今日をつかめ--落伍者としての重役』企業文化の中で起きている変化
 ハードウェアからソフトウェアへ、仕事を持つことから役割を演じることへ、中央集権主義から分権主義へ
『メディアの理解』「加熱したメディアの反転」の章
 ある状況が極端に押し進められると、どんな状況も一転して補完的なものに変わってしまう(=何かを埋めようとする形態になる?)こと
 身体器官や意識の拡張物(ある種の能力向上)としてのメディアの問題 使用者に深い影響をもたらす
『グーテンベルグの銀河系』は、他の感覚に対する視覚の優位性について
『消失点を越えて--詩と絵画における空間』感覚の研究を芸術の領域に持ち込み、警句、探査、並置を研究手法としていかに用いるかの実践
注 探査とは:事象についての筋の通った矛盾ない解説ではなく、その事象の本質を解明するための知的探査 =考えてみる、やってみること? 間違っていても、反証ができるものであっても良い、むしろその方が良いような
  並置とは:物事を秩序立てて順番に分析するのではなく、事象を同時的に考察する手法 マクルーハンがよく用いる「モザイク的アプローチ」や「パターン認識」も同じ

 進化のために過去を捨て去ってきた
 ポスト文字文化を受け入れつつあるため、アルファベット文化に根源や共鳴を見出すことから遠ざかっている
 文字分化以前は、文化に蓄積された知識を伝承するのは詩人たちの仕事だった
 筆記が始まって以降、ロゴスは粉々に砕かれ、口誦時代の権威は失墜した
 その回復が「自由学芸七科」=「三科:修辞学、文法学、弁証学/四科学:算術、天文学、幾何学、音楽」

 なかでも「三科」は言語についての技術と科学
 修辞学は発話(スピーチ)の学 基本原理は聴衆を変容させること どう話すか
 文法学は書かれたテキストの解釈と語の系譜=語源研究 どう読むか
 弁証学は思考としての言葉、言葉と思考の内容、正しい思考の体系を扱う 抽象的で、修辞学と文法学に影響される どう考えるか 論理学と哲学からなり、古い学の源

 修辞学と文法学は双子の科学
  図と地の要素が具わっている・外部感覚に提示される言葉と関わっている(発話/文字)
  相互補完的なものである、自然と聖書(=ものと言葉/ことば ちょいフーコーに目配せしちゃった笑)/発話と文字 を縦糸と横糸のように折り合わせる
「ことば」あるいは「発話」を意味する「ロゴス」
 ということは、ロゴス自体聴覚的なことばである
 これ以降、「聴覚時代」「聴覚空間」のことばはひらがなで、アルファベット以降の言葉は漢字で書こうかな

「古典派(アンティクィ)」--修辞学と文法学 「新しい学」 ヴィーコ、ベーコン 「詩的知恵」
「現代派(モデルニ)」--知識と思想と試みの組織化 「古い学」
 三科がひとつになった歴史学は存在しないが、今必要になっている
 現象学の問題 現象学とは弁証学によって文法学を作り出そうとする、地を表面に押し上げようとする試みだから 現代派-「古い学」のやり方で、修辞学や文法学の両分であるものを回復しようとしているから その領分とは、「ことば/言葉とは何か」ー「ひとと外界の関わりとはどのようなものか」ということ?

 理論科学は知識と理論に始まり、概念に基くから、図によって進行し(注意を向けた=向けられるものについて研究する)、推論において不完全な点を突き止め、軌道修正の手段を持たなければうまくいけない。
 経験科学は無知と偏向に始まり、知覚内容(パーセプト)に根差すから、図と地によって進行し(注意を向けたものと、それに注意が向く条件を作っている環境を研究する)、感覚の偏向を見つけ出し、それを補正するための手段を持たなければうまくいかない。
 自分たちで自分たちの考えを常に軌道修正・時代に合わせて改良できるようにしなければならない
 コミュニケーション理論=効果と知覚偏向にかかわる理論
 ベーコンの「四つの偶像(イドラ)」、ヴィーコの「公理」=知覚領域に関しては、個人的あるいは文化的な盲目や無感覚の形式

宵部によるおまけ

 アリストテレス哲学 運動の四原因

 1質料因 生成、変化の素材、原料となるもの。(コトバンクより)
 2形相因
 3動力因(始動因、作動因)
 4目的因 事物が何のために存在するか、行為が何のためになされるかを示す目的が、その事物の存在やその行為を理由づけるもの。(コトバンクより)