“わかりやすさ”小考

目次

序論 ”わかりやすさ”の光と影

 ”わかりやすさ”とどのような決着をつけるか。あるいはどのように関わっていくか。
 それがわたしの今後の活動を考えていく上で鍵になってくるような気がしている。
 ひいては今後の人生の上でも。
 あるいは、社会に対して自分のできることを考えるというような、ちょっと政治的な意味でも。

 

 わたしはこれまでの人生の中で、どちらかといえば”わかりやすさ”をかなり嫌い、避けてきた。
 わかりにくいことに飛びついて組みついて格闘し、その末に「わかった! こういうことなんじゃね!?」ってなる気持ち良さが三度の飯と同じぐらい好きというのもあるし、
 答えがないことについて自分なりの答えを見つける、ということの大切さを強く感じているからでもあるし、
 言葉にならないことや言葉になったとしてもわかりにくいことや想像力を働かせなければ思い当たれないことというのが世の中にはたくさんあって、それを知ろうとすることだって大事なのに、人々がわかりやすさばっか求めたらとんでもないことになるという問題意識があるからでもあるし、
 そもそもわかりやすく物事を語るというのは、あくまで話し方のテクニックであって、わかりやすく語られた物事が何らかの絶対的な事実を意味するわけでも、そういう根拠になるわけでもない、つまりあくまでフィクションだから、事実のように考えるのは危険だと思っているからでもある。

 だから、自分の作品についても、わかりやすくアピール/プロデュース/プロモーション/宣伝/説明することを避けてきた。あるいは躊躇ってきた。
 ぶっちゃけてしまえば、音楽とともに動画にする画像としては、多分写真よりイラストを使った方が動画は伸びる気がするし、自分の姿もアバターというか、何かしらの人物イラストと紐づけて覚えてもらった方がキャッチーなのだろう。自分の作品についても、「こういうことを表現しました」って言い切ってしまった方がわかりやすくて良いのだろう。歌詞もテーマももっとわかりやすくした方がいいのだろう(これだけは一番気乗りしないけど)。それはめっちゃ感じている。
 わかっているけど躊躇い続けている。
 わたしは、人々が解き明かしたくなるような謎や、自分なりの実感を見つけたくなるような神秘でありたいし、あり続けたい。
 多分それが、わたしの作家としての方向性なのだと思う(だからこれを念頭に置いて売り出していかないとけないってやつなんだろうが)。

 だからと言って、わかりにくいことでもちゃんと考えろよ!と他者に対して思うばかりでは、やっぱり冷たいんだろうなとも思うし、何の解決にもならないだろうし、そればかりか、自ら分かり合える人の範囲を狭める行いですらあるのかもしれないとも思う。コミュニケーションする範囲を狭めちゃっているというか。
 心の扉ガン閉じ、間口ガン閉じ、裾野を広げることに怯えまくり、といった状態では、やっぱり自分という存在が広まっていくことはできないだろう。
 つまり簡単に言ってしまえばこのままでは売れないことをわたしははっきり自覚はしているのだ。
 でも……

 という葛藤を、ずっと続けている。

 だからここでもう一度、わたしが”わかりやすさ”に感じている危険性や悪い感情をちゃんと言語化して整理した上で、
 でも不親切にならずに他者を拒絶せずに、自分を出して広めていくには、”わかりやすさ”とどんな付き合い方をしていけばいいのか模索していきたい。

 

定義 本文での”わかりやすさ”の定義

 じゃあまず、ここでわたしが述べようとしているわかりやすさとは何かから定義しておこうと思う。

 それは、
 ①因果関係 論理的な因果関係が整理されて配列され、
 ②一貫性 一貫性があり、つまり話が一つの結論に収束する形であり、
 ③簡潔さ ①②に関係しないノイズを削ぎ落とした、
 ④結論を出す 最終的に結論これはこうである!と答えを出すもの
 +オプションで、直感性 感覚に訴えかけ、直感的にパッと全体的なイメージが掴めるようになっているもの(特に視覚表現は強い。図とかイメージ画像とかインフォグラフィックスとか)
 である。

 要するに、論理的であること、ロジカルな言い回しということだ。aという原因があってbという結果になり、a→bの流れを考察することによりcという結論が導き出せる。こうした言説を数本組み合わせて大きなA→Bという流れを作り、全体としての大きな結論Cを導き出して終わり、という。

 それに加えて、「理由(エピソード)と結果とイメージが違和感なく噛み合っていて、イメージ通り・キャラ通り」というふわっとした印象も含まれる。
 例えば音楽で言うと、その音楽が作られたきっかけと、作られた音楽や歌詞自体と、その音楽のテーマと、その音楽にくっついている明るいとか暗いとかいうイメージだったりジャケットのイラストだったりが違和感なくそれっぽく噛み合っていることだ。

 そういうふうに、因果関係と一貫性と、その2つを成立させるためにノイズになる部分を削ぎ落とす簡潔さの3つを兼ね備えた、そしてちゃんと答えを出してくれる、あとたまに感覚を使ってパッと理解できるような直感性を兼ね備えることもある、そういうものは、「わかりやすい!」「頭に入ってくる!」という感覚を人に与えやすく、やっぱり気持ちいい。
 全体の統一性やイメージを損なう逸脱した部分は削ぎ落とされているし、途中で引っかかるような違和感がないように、あらゆる形の語りがデザインされるから。

 でも、その気持ちよさ、調和感、違和感のなさって、結構怖いなあとも思うのだ。
 あと、不自然だし、所詮は作られたものだよな、とも(作られたものだからこそ便利なんだけどね)。
 だって、実際には現実も人間も社会も世界も、そんなに整然としたものではないでしょ。

 整然としていないものを許せない価値観になってしまったら、整然としていない自分を生きることも、整然としていない世界で生きることも、苦しかったり、イライラしたりすることになってしまうのではないか。
 その結果、自分の中の矛盾の原因となる部分を認められなくて抑圧したり、あるいは自分の世界の統一性を損なう他者を排斥・迫害しようとしたりしてしまうのではないか。

 あるいは、気持ちよく違和感なく調和・統一されたものであるから、というだけで、その気持ちいい語りの向こうに隠された、語られている内容自体が孕んでいる暴力や煽動や他の何かの隠蔽や抑圧や自然化や画一化や……そういうものに気づかず美味しく飲み込んでしまう、ということだって、かなり高い確率で起きるだろう。

 ”わかりやすい”とはある意味、「これはこういうものである」というふうに、そのわかりやすいものの持つ意味が安定しているということだとわたしは思う。(わかりやすいものはわかりやすいので、簡単に解釈が変わったり、人によって捉え方が変わったりはしないだろうしね)
 でも、その安定した意味に安心しすぎたらまずいんじゃないかって、つまりわたしはそういうことを言いたいのだ。

 

わかりやすさ=やさしさ

 それでもまず初めに断言しなければならないのは、”わかりやすい”ということは、この高度情報化社会、物事のスピードがとんでもなく早く誰もが忙しく、膨大な情報を、素早く、的確な判断に基づいて処理することをほとんどの場面で求められる社会において、ものすごく、とんでもなく、重要な価値である、ということだ。
 あと、わかりやすさとは優しさである、ということも。わかりやすい、つまり誰にとっても理解しやすく伝わりやすいということだから、それは当然だ。わかりやすさは温かい愛ある工夫であるという意見に対しては、わたしも全く異論は無い。

 わかりやすさは、とにかく、とても効率が良い。
 聞く側はもちろん、あらゆる話を最終的な結論に結び付けて捉えれば良いので、他の語り方よりもずっと、多くの内容を紐づけて記憶に残すことができる。
 そして話す側としても、結論に向かって論理と因果の筋道通りに自身が持つ話のネタを連結させていけば良いので、整理しやすくて内容の濃い話を組み立てやすい。
 情報の伝達・保存・処理ぜんぶの効率が良いのだ。

「効率が良い」なんて冷たい言い回しをしなくても、「とても親切である」と言うのも的確な言葉だと思う。
 わかりやすい、つまり、読みやすくあるいは聞きやすく、複雑なものも噛み砕いて伝えることができる語り方。
 語り手自身も、そういうふうに語ることによって、自分の頭の中を理路整然としていて掴みやすいものへと整理することができる。
 誰にとっても優しいから人気があるのだ。
 危険だ危険だ、怖い怖い、ってわたしは言っているけれど、でも、わかりやすいものを人間が求めるのは当然だとも思う。
 だって便利だし、本来思いやりからできてるものでしかないもの。
 わたしは”わかりやすさ”を恐れてはいるけれど、憎んではいない。わかりやすさっていうのはユニバーサルデザインで、人のための工夫が詰まった温かい叡智だ。コミュニケーションの工夫そのものだ。

 わかりやすさは効率的で、優しい。だから広まりやすい。
 ……そして時にそれゆえに危険である。

 わかりやすく物事を説明するというのは、歯応えのある食べ物を柔らかく調理したり加工したりすることに似ている気がする。
 けれど、だからと言って、柔らかいものばかり食べていたら顎が鍛えられないというのはよくある話で。
 わかりにくいものや、一本通った筋を持たないものを、排斥することなく自身と関わらせていくことだって、人生を豊かにするためには大切なことだと、わたしは信じている。

 でもそれはそれとして、わかりやすさというのはやっぱり、訴えかける力が強くてなおかつ射程も長い、すごいパワーだと思う。
 わかりやすさはパワー。わかりやすいものは最強の矛(ほこ)、剣だ。

 細かいことは置いておいて、人を実際に動かす力があるのも、やっぱりわかりやすさだと思う。つまり高い影響力と説得力を持つということ。
 それが怖いんだけれども。
 でも、そういう強いエネルギーやパワーや影響力を持って人を動かすことは、何かを始めるときには絶対に必要な、大切なことでもある。

 だからひょっとするとわたしは、わたしたちは、わかりやすさを自分が用いるとき、責任を持たなければならないのかもしれない。
 いや、きっとそうだ。

 自分の発するわかりやすい表現が持つパワーに対する責任。
 選択には責任が伴うと云うが、力にも責任が伴う(なんかペルソナ3か遊戯王GXの中盤以降みたいな話になってきた)。

 わかりやすさによって人に影響を与えて人や物事を動かして、その先に起きることについて、あらかじめ受け入れる覚悟をして、口火を切らなければならない。
 もしかすると、今のわたしに必要なのは、その覚悟だ。

 見方を変えれば、物事をわかりやすく一つの筋にまとめるというのは、何かを言うときに、はっきりと言うときに、やっぱり必要とされている責任なのではないか? とも言えるから。
 つまり、小説を書くなら書き上げる、論文を書くなら結論を出す、というふうに、広く自分の作品や見解として発表する際には、やっぱり筋と答えと影響力を持ったものとしてまとめるのが、何かを言おうとする人間の責務なのではないか。
 答えを広く人々に委ねる作品も大切だが、それだけでは責任逃れ、と言うこともできそうだ。

 例えばだけど、一番根幹にしたいテーマを一貫した軸として作品は完成させて、かつ打ち出しつつ、でも一元的にしないために、そこから色んな小さな物語を生やす、というふうにしたらどうだろう。
 小説で例えれば、メインストーリーの他に、短編集やif集もぽこぽこと発表していくという感じ。
 音楽で例えれば、メインのエピソードや紹介文の他に、全く別の解釈やどこか一部分にフォーカスした紹介文なんかもぽこぽこ発表していくような。
 芸術作品で例えれば、中心的な軸はあるけれども、その軸には関係ないノイズも臆せず取り入れたり、
 答えが出ないまま放置する問題も取り入れたり、
 音楽と同じように、やっぱり視点からの関連文をぽこぽこ出したり、
 あえてその中心的な軸と作品が発している直感的なイメージを決定的に矛盾させて、概要文だけ読んでわかった気にならせるんじゃなくて、作品に一歩踏み込んで何かをわかろうと努力させる感じにしたりとか。

 わたしは、一元的になってしまうのを、つまりわかりやすくなるのを恐れるあまり、何かはっきりとものを言うことができていなかった。

因果関係と一貫性はフィクション

 だけどやっぱりはっきりとここで言っておきたいのは、因果関係も一貫性も、ものを言うために作られた、言説の中にしか存在しないフィクションに過ぎないということだ。

 因果関係は、様々なバイアスがかかって判断されることだから、間違うことも多い。
 たとえば、流石に冬の雨の中で雨ざらしになっていたら次の日風邪を引くのは当然の因果だと思うけど、失恋したから体調を崩す、というのはどうだろう?
 まあそれも理由の一つではあるけど……とか、いやいや、失恋は関係なくて最近すごいハマってるゲームがあって昼夜逆転しちゃったからさ、とか、反論だって色々思いつく。誰もが納得するとは思えない。
 あと、バイアスの例としては生存バイアスってやつがあって、成功者はなぜ成功するのか? とか、生存者はなぜ生存できたのか? って話も(そういう話が無意味であるとか参考にならないと言うつもりは全然無いが。それが歴史に学ぶってやつの一つだろう)、こうしたからこうなった、っていうのはあくまで「成功した」「生存した」という結果ありきで判定される因果関係なので、その正確さはいかほどのものなのか疑問が残る。あくまで神話に過ぎないこともある。
 因果関係はこういうふうに、複合的な原因の一つしか抜き出せなかったり、あるいはひょっとしたら(当人的には)そこまで関係がないかもしれないことを、他人が納得しやすいように無理やり繋げてしまうことと相性が良かったり、そういう怖さがあるのだ。

 理由があって結果がある、というのは、わかりやすいし安心するけれど、実際はそこまでこの世界は単純じゃないのは言うまでもない。
 世の中には、理由がわからなかったり一つに決められなかったり、運とか縁とかたまたまだとしか言いようがないことや理不尽なこと(災害、病……)だってたくさん存在する。
 そんな中で因果関係というのは、神様に変わる神様みたいな存在とも言えるんじゃないかなって思う。
 近代〜今を生きている人間にとっては、「神様のおぼしめし」と言うよりも、「こういう原因があったから」と言った方が安心できるんだろう。

 でもそうは言っても、確かに、どこまでも複合的でこれと決めることはできなかったとしても、何かの原因や理由の一部に過ぎなかったとしてもそれを解き明かそうとすることが無駄だとは、わたしももちろん思わない。
 わたしが批判したいのは、因果関係を、動かしようのない、実際に存在する、確かなものだと捉える態度、それだけだ。

 一貫性だってフィクションだ。
 やっぱり色々な出来事を俯瞰して見て、そこから共通点を見出す、ということに過ぎないから。
 それに、一貫性にこだわるあまり、柔軟な考え方ができなくなって、「試す→失敗→手を変える」っていうことができなくなる病も蔓延している。これもすごく怖いことだと思う。この病と一緒にしばらく暮らしてしまうと、失敗すること自体が怖くなって、何かを試すこともできなくなって、うまくいくと予想できることしかできなくなって、世界が広がらなくなってしまうから。
 あるいは、自己矛盾を嫌うあまり、自分の思う自分に合わない部分を抑圧したり罰したりしてしまうこと。自分だけじゃなくて、そうした抑圧や排斥が他者に向くことも怖い。
 一貫性は言説の中にしか存在しない。
 一貫性を保つために現実をねじ曲げる……いや、というか、現実において一貫性を持とう/保とうとすること自体が、人間や社会に大きな負荷を与える過ちである。そうわたしは感じている。それは何かをある観念にそぐう形へと矯正しようとする行いだ。

 現実は、物事も人も、何もかも筋が通らない。カラスは黒い鳥なのに白いカラスもいるという具合に(注:この話はヘンペルのカラスとは一切関係ない)、世の中は広大で反証だらけだ。
 だから、物事を語る上で差し出される一貫性は、あくまで便宜上作られたものであることを了解した上で、話したり聞いたりしないと、現実が全く見えていない人になってしまう。
 世の中は反証のデパートであり、語られる理屈には無数に例外があって、それでもあえてその語りをすることによって語り手は何かを主張したがっている、ということをわかった上で話す/聞く、というのが必要なのだ。

 でも一応言っておくと、わたしはこういう、一見関係ない物事にも筋や一貫性や何らかの関係性を何とかして作ろうとする人間の営み自体は嫌いじゃない。
 嫌いじゃないどころか、とても興味深くて面白いなと、好意的に思っている。
 わたしの詩がしばしば断片的なのもそういうことで、そういう語られないことを繋げようとする、その繋ぎ方に、その人の人生や価値観や無意識が浮上してくる部分も大きい気がして、その十人十色な感じが楽しいと思うからだ。

 やっぱりわたしが怖いと思うのは、ただの言説を事実だと信じてしまうこと、そして現実を言説に合うように矯正しようとすること、それだけだ。

 それさえなかったら、むしろ、ものすごくたくさんの人が自分なりの一貫性や因果関係を見出して語っていけば良いと思っている。
 そしてその集合、ものすごくたくさんの理屈や語られる真実全ての集合が世界であり、多様性だと。

 事実は存在しない。あるのは経験(感覚や感情とも言えそう)と言説(フィクション)だけだ。

 だからわたしは、
 ①これはフィクションです 自分はフィクションを語るのだと自覚した上で、
 ②わかりやすく 便宜上わかりやすさ(因果関係、一貫性、簡潔さ、結論、直感で筋がわかること)を整えて、
 ③責任 そのわかりやすさの持つ力を知った上で、そのもたらす結果に責任を持ち、
 ④付録カオス アフターケアも考えて、随時提供あるいは準備しつつ、
 ⑤勇気 思い切って、
 口火を切らなければならない。

問いを差し出す作品、答えを差し出す作品

 頭だけで作った作品なんてちっとも良くない。
 これは受け売りだけどわたしの持論でもある。

 いや、芸術(狭い意味でも広い意味でも)というのは、人間が人間らしく考えて、作って、作ったものを観てまた考えて……を繰り返してきたことをこれからも続け、過去のものを守り、今のものについて考え、新しいものも作って未来にも絶やさぬよう繋げていく、って、そういうことだから、
 頭だけで作ったもの(とわたしが感じるもの)であっても、それもまた「人間が人間らしく考えて作ったもの」ではあるので、存在意義は十分あると思う。
 ただわたしの好みじゃないだけ。
 好みじゃなくても存在意義はあるのだ。そういうものもまた、わたしの好みのものと等しく、作られて、観られて、そこから新しい考えが生まれて、守られて、批評されて、新しく作られて、これからも続けていかれなくてはならない。

 でもそれはおいといて。
 どうして頭で作られてるように感じるものが好みじゃないかって言うと、芸術においてわたしが大切にしたいのは、論理や理解や正しさや整合性や結論は置いておいて、「感じる」ことや「思い馳せる」ことや「ひらめく」ことや「信じる」ことだからだ。

 それさえできれば筋(つまりわかりやすさ。論理性や物語性)っていらないんじゃないか、だって筋って怖いもん。そんなふうにも思っていた。
 ここまで書いて考察を進めてきた今も、この考えは変わってはいない。

 ただ、筋がある”わかりやすい”ものの方がとっつきやすいこともわかっていたけど、怖いからそっちに近寄らないようにしていたのが、少しは付き合い方が見出せてきたかもしれない、というのはある。

 つまり、”わかりやすさ”に怯えなくなった。
 漠然と怖い、危険だ、と感じ、だから遠巻きにするだけだったのが、その恐怖や危険性をちゃんと言葉にして捉えられたから、解決策を考えられた。向き合って、触れ合って、付き合えるようになれそうだ、ということだ。

 そこで、ここからは作品論になるが、こういう2つの制作アプローチがあるんだろうな、と思ったことを記しておく。
 なお、この2つのアプローチ・概念は、対立しない。一つの作品が同時にどちらでもあるということも十分あるものとして捉えてほしい。

 問いを差し出す作品と、答えを差し出す作品だ。

 問いを差し出す作品とは、受け手に考えるきっかけを与えるものだ。
 答えを一つに決めず、様々な問いを複合させ、受け手に、感じたことや受け取ったことを材料に、主体的に考えさせるもの。ひょっとしたら問いすら受け手に立ち上げさせるものもあるかもしれない。
 これは、受け手に、自分から問題を発見して考え始める、ということを促せる点で、大切な、歯応えのあるものになっているが、主体的に疑問や興味や問題点を取りに行こうとする受け手にしか伝わらないという弱点もある。
 そしてしばしばこういった作品は、その弱点を克服するために、ロジックや情動、ドラマの力、感覚に訴える方法を使う。
 ……その結果、そういう訴えかけるギミックの方ばかりを消費されて、やっぱり受け手の主体的で参加的な思考・鑑賞というのは起きず、結局その場限りのものとして終わってしまうこともあるが。
 でもわたしはやっぱり、こっちの作品(とわたしが感じるもの)も、とても好きだ。いや、それどころじゃなくて、やっぱりこっちの作品の方が好きかもしれない。そこは変わらないかもしれない。押し付けがましくないところがわたしにとってはちょうど良い。
 それから、言葉にもならない、答えも出せないことを表現できるという点で、痒いところに手が届くやり方に感じるから。
 人生には、世の中には、わかりやすく説明や表現ができないことが溢れていて、それが「ある」ということをまず伝えることが必要で、そのためにはわかりやすくすることでは行き届かない領域がある。それを伝えられるのは、芸術ぐらいにしかできないんじゃないか--わたしはそういう哲学で芸術をやっているから。
 あるいは、芸術でしか作り上げられない、他のやり方では表現できない存在があるという哲学。

 だけどやっぱり、筋や答えやわかりやすさは、より多くの人に興味を持ってもらい、作品の領域に立ち入ってもらうためには大切なことだ。
 鑑賞者へのホスピタリティ(わかりやすさ、親切さ)と解釈の自由度(わかりにくさ、豊かさ)。これって多くの作家が悩むことだけど、本当に難しい。

 答えを差し出す作品とは、作品の中で一つの答えを出した上で、その答えの良い点も悪い点も含め、また受け手に考えてもらうものだ。
 答えを差し出すことは、その全てが、受け手に自分に同意してもらうための行いではない。「盛大にボケるから自由にツッコんで!(美学者のナンバユウキさん曰く、論文にはボケの論文とツッコミの論文があるらしい。わたしが思うにボケの論文とは、とにかくまず言語化するというもので、ツッコミの論文とは、そうしたボケの論文が言語化してくれたことを下地に精査し解像度を上げていくものだと思う)」「叩き台をとりあえず出したからここから色々議論が湧いたら楽しい!」とか、そういうものも大いに含まれるのだ。
 わたしはこの観点が足りていなかったので、答えを出すことに漠然と怯えていたように思う。
 答えを出すことは、押し付けがましいと感じられることはあるかもしれないが、それでも、必ずしも人を黙らせ従わせることではない。
 あるいはそうなってしまいそうなら、人が話したくなるような、改良を加えたくなるような工夫を加えればいい。つまりあえてスキを見せるのだ。触りたくなるツッコミどころを作ってあげるのだ。
「問いを差し出す作品」のような、わかりやすくない要素や感覚的なもやもやしたものや答えのないものや問いの材料を取り入れていくこともまたそうだろう。
 ツッコまれない作品を作ろうとしてしまうのは、学生がやりがちな癖かもしれない。確かに、学生の作品に対してなされるツッコミは、考察不足や技術・演出の未熟の指摘の域を出ないことが多いだろうから、それも学ぶ姿勢として立派なことだと思うけれど。
 ただ、将来的には--ツッコミも含めて議論が湧き起こる作品というのは、歴史的に意義があるものだと思うのだ。だから、芸術作品を作って、歴史の一部として何か役割を果たそうと思うなら、ツッコまれることを恐れ続けるわけにはいかないんだろう。

展望 わたしのこれからの作品制作

 わたしは、一つの筋はあるようだけれども、その実いくつもの枝葉に分かれている、そんな作品を作っていたい。
 神はひとつの存在でも、実際は無数の化身や神使や聖典や解釈を伴うように、広く人を惹きつけるエネルギーと、複雑で不定形な多様性を同時に孕んだ作品を作れる作家でありたい。

 そのためにはどうしたら良いんだろう。

 幹(筋)を作って、様々な可能性(登場人物、要素、エピソード、意見……)を、その幹の中で走らせていかないとな。
 たとえ何か答えを出したって、それは一つの言説、一つの答えに過ぎないんだ。

 ……もしかしたらわたしは、わたし自身がよっぽど、他人の答えや言説に怯えていたのかもしれない。

 ならば尚更、「わたしはそうじゃなくてこう思う」って、言えば良いのかもしれない。
「色んな意見があるし、色んな可能性があるけどね」と同時に。
 ちゃんと考えて、言語化して、作品にして。

 もちろん問いを差し出す作品も作り続けていくけどね!
 解釈の自由さと、人間の価値観の多様さは、やっぱりとても興味深いから。
 特に歌は、無意識の産物として作っている曲も少なくないので、そういうものは解釈が面白いの。まるでお告げを読み解くみたいに、わたし自身作っているから、聴く人だって。

 だけどそういうものだって、幹と枝葉のような、総本山と分社のような、そういう体系を作ることはできるはず。

長い! わかりやすくまとめろ!

  • わかりやすさのことを漠然と怖がっていたけど、何が怖いのかが言語化できたことによりすっきりしたよ!
  • わかりやすく伝えることは親切だし多くの人に届くし強い説得力や影響力を持てる技術だからやっぱり大切にしたいよ!
  • でもわかりやすい話というのはあくまで話であって、現実はわかりやすくないということは忘れないでいたいし、いてほしいんだよね!
  • そのためにあえて撹乱したり、わかりにくい部分やノイズも取り入れた作品をこれからも作っていきたいな!
  • だけど、問いを投げかける作品と答えを投げかける作品があって、どっちにもそれぞれの良さがあるから、一旦作品として答えを出してしまうことに怯えなくてもいいのかも!

終わりに--言語化と感情の瓶詰めの狭間で--

 でも、ここまで考えて思ったけれど、わかりにくいことをわかりやすく伝える工夫ってのも、やっぱり続けていかないといけないよなあとは思った。
 ある意味、わかりやすく説明したら本来の意味からずれてしまう、っていうのは、やっぱりまだまだ「わかりやすく、でも正確に」伝える技術が未熟だってことなんじゃないかと。

 わたしは直感レベルで「何かがおかしい」「これじゃいけない気がする」「わたしはもっとこういう感じが良い」っていうふうに悟ることはできるけど、それを言葉にするってなると、まだまだ語彙力が足りないし、わかりやすく語ろうとするともっと訳が分からなくなってしまう。

 もちろん、わかりやすく説明できないものを、わかりやすく説明できないままの状態で大切にすることは必要なことだから、これからも大切にしていきたい。説明できないもの、簡単に理解することなんてできないことがこの世にはたくさんあって、でも知ろうとしていくことは豊かなことだって言い続けることは、わたしの使命の一つだと思う。

 でも、言葉にしようとすることだって、また大切なことだ。

 きっと、わたしの中の、繊細で察しが良い部分が、参考にできるものがそう簡単に周囲には見つからないぐらいオリジナルな気づきを得てしまうから……いや。
 他の誰かの言葉や表現なんて自分のもやもやを表すための手段にしかならないほど、自分のオリジナル性に、自分の中のオリジナルなものに、わたしは既に気付いてしまっているから。

 まだまだ勤勉さと努力が足りないってことがわかった。

 自分の中のもやもやをしっかりと掴み取ろうとする勤勉さが。
 簡単に言語化をあきらめているかもしれない。
 いや、どこまで行ったって言語化できない感覚はあるし、その感覚の重さは変わらないし、言語じゃないもので伝える意義は間違いなくすごくあるし、言語だからって伝わるとは限らないんだけど。
 でも、言葉にして伝えることに対して、わたしは拗ねていたかもしれない。

 そして自分の中のものを、もっと伝わるように伝える努力が。
 いつもそういうふうに喋っていたら疲れてしまうから、ここぞっていうときだけにするけれど、
 ここぞっていうときには、もっと工夫できると思う。筋道立てるとか、具体例を出すとか。
(具体例を出すのが嫌なのは、その具体例から別の論点に飛んじゃう/論点ずらされる可能性があるからなんだけどね)

 

 わたしは”わかりやすさ”だけじゃなくて、”言語化”って言葉にも少し恐怖を感じていたことをここに告白しておく。

 言語化を信じすぎると、言葉になっていないものは存在しないって考えになってしまうじゃないかっていうのが恐ろしくて。
 言語化できないものが言語化されていくまでに寄り添える人間でありたいし、
 あとは何だろう、どうしてか、何でも言語化してしまいたくないっていう気持ちがあるのだろう。
 言葉はその”もやもや”の写し絵でしかないから。って、そんな気持ち。
 大切な想いだからこそ、言葉にしてしまいたくないって思うのだろう。

 そのもどかしさのために、わたしは作品を作る。
 言葉では伝わらないものを言葉以外で伝えたいが故に。

 感情の瓶詰め。

 だから、わかりやすさや言語化ばかりで触れ合うコミュニケーションは、少ししんどいとも感じてしまう。
 難しい。
 表情やニュアンスや親密さや一体感や感動や、わかり合っているという感覚はフィクションで、あるいは個人同士であることを脅かし自他の境界を溶かすもので、言語や論理によるコミュニケーションだけが”確か”で”良い距離感”のもの、なんてことは、わたしには思えない。

 だってわたしは、あえて言葉にしたくないものに触れてほしくて作品を作っているから……

 それでもわたしは、だからと言って、自分の近くだけで自分の作品を抱えたくもない。
 もっと羽ばたいてほしいと思うのもほんとうだ。

 そんな、他の形では表現できない想いそのものを、どんなふうにラッピングして、ひとびとに届けることができるのだろうか。

 

 --答えは「作品による」としか言いようがないけれども、
 でもわたしは今、この小考を書く前ほど、”それっぽさ”や”イメージ”や”キャラ”に対して嫌悪感は持っていない。
 ”わかりやすさ”や”言語化”や、”それっぽさ”や”イメージ”や”キャラ”とも、わたしはきっと、素敵なダンスを踊れるはずだ。
 そういう希望がある。

 わたしはもっと、自分を理解したい。
 自分の想いを、自分の作ろうとしているものを、キャラを、本望を。
 もっと深く。

 そうしたらきっと、納得もいって、うまくいく。

 そんな気がするのだ。

 

 こんなとんでもなく長いブログを読んでくれてありがとう。
 わたし、またこういうブログを書くと思う。

 思いついたことをひとしきり書いて満足するんじゃなくて、書きながら考察を深めるってことを、これからはしていきたいの。

 どこにもいけない違和感や本音を、自分の健康のために吐き出すこと。今までやっていたのはそれだったけど、
 これからはそれをもっと深めていける、深めていくべきときに来てるって感覚がある。

 わたしはずっと、うまく人に伝わらなくてもどかしいという気持ちと格闘してきたけど、
 だから、ブログはその練習場所にもなるんじゃないかって思うんだ。
 自分のもやもやを言葉にする。整理する。伝える。その練習に。

 --もちろん、言葉にしたくない大切な気持ちは、これからも作品で伝えるよ!
 だからそっちも含めて、これからもよろしく。

 

 本当に読んでくれてありがとう。
 愛してます。

 

 宵部