女性が「やおい(二次創作BL)」を書くことについて、その向こうの心理や社会学について研究してみたいかもしれない、と思った。文学にはどんな哲学があるんだろうか。エクリチュール--書かれたもの--だけでなく、その文章を書くという行為に関する研究や分析の方法論はあるのだろうか。調べてみたい。
その不便さやコミュニティ的な特徴から、社会運動とも相性が良さそうなZINEというメディアが、最近とても気になる。
他者の痛みを感じ取る時、やっぱり身体(性)が重要である、というような言説にも触れた。
でも、その身体も、現代ではかなりサイボーグ化してきている。
前に、声もまた人体の延長としての「道具」であり、本質的にサイボーグ的である・サイボーグ化する性質を持った人間が、初めて自分の身体で取り扱う延長装置=サイボーグ的身体の一部だという話を聞いたことがある。
わたしは大学では、録音された音や声を使って作品を作ろうとしているので、「サイボーグ」は声に関するキーワードとして覚えておきたい。
また、「見る」ことと「消費する」ことの密接な関係について、同じゼミの人たちの発表を聞いて考えた。
では、「聞く」ことは、「消費する」ことへの対抗手段にはなるんだろうか。ならないんだろうか。なるとしたら、ならないとしたら、それはどのようにだろうか。
「初音ミク」は史上初の「(少女型)アンドロイドの声」だったので、人形愛のような欲望を人々に抱かせた、という文章を読んだ。
人間に近づこうとする、けれど人間ではない存在への愛情。
それが「声」という領域に現れたことは、とてつもなく画期的だったのだなと理解した。
SNSでの情報発信(とくにタイムラインがあり、フロー型のもの)は、一時的な話題性や拡散には繋がりやすいが、それがその発信者や扱っている問題への長期的な支持につながりやすいとは言えない。
とすると、やっぱりその人固有のページ(ポートフォリオorギャラリーになってくれるページやブログなど)やその問題専門サイトが必要になってくるんだろうなとふわっと思った。
あと、「見てほしいという感情」「見られるという快楽」の話もゼミで出たけど、
わたしは見てほしいわけじゃなくて、わたしがここにいることを知って、共感したら愛してほしい、つまり友が欲しいのだな、と再確認した。
そう、友が欲しい。
迷走することもあったけど、根本はそれだった。
どうやったら友は増やせるんだろう。
「見せる」ことも、友を増やすためには必要だけど、たくさん見せる必要はないしそれでしんどくなるのも違うし、何より「見せる」ことだけじゃ不十分だ。それ以外にも重要なファクターは色々あるはず。
とりあえず、今プロジェクト〈天蓋〉というものをやっているので、それが第一歩になったらいいな。