わたしは卒業制作に、オーディオドラマ(+パフォーマンス)を発表しようと思っています。

 ホワイトキューブな部屋を借りて、そこで2chステレオのオーディオドラマをプレゼンテーションするみたいな感じでパフォーマンスをする。

 あのね、来てもらった人に、ただ作ったものを流す、っていうことはなんだかしたくなくて、
 生身のわたしの声を組み合わせて、その時だけの発表を作り上げたいなって思っています。

 オーディオドラマ--ラジオドラマの流れを汲むから、ラジオの流れも汲んでいるものとして、わたしは考えているけれど、そうなってくると、やっぱり「人間の語り」を主軸に置きたいってことから、この発想が生まれたの。
(「ボイスドラマ」として盛んな同人作品や「ドラマCD」と呼ばれることの多いメディア展開は、” 耳で聞くアニメ ” を作ろうっていう発想なんじゃないかなって思っていて、こっちも面白そうなんだけどね)

 わたしはずっと、「ヘールシュピール Hörspiel 」というものを(一応)真ん中に置いて、3〜4年学生生活をしてきたんだけど、
 1,2年生の間はどっちかっていうと現代音楽寄りの、電子音響音楽寄りの(電子音響音楽が何かはこの記事を読むとちょっとわかるかも)アプローチをしてきた。リュック・フェラーリが特に観察対象だった。
 それで3,4年では、もう少し文化研究っぽい、ラジオとかラジオドラマ全体の歴史とかを研究したし、音響とか音楽よりは文学とか演劇の文脈にありそうなものにも手を伸ばしてみた。特に別役実や寺山修司の詩的なオーディオドラマに出会えてよかったと思ってる。
 あと、オーディオドラマという「聴覚だけのもの」にこだわるということで、聴覚文化研究の理論とかもインプットしたりね。マクルーハン、オング、スターンを読んでみた。

 その上で一旦整理してみるとさ、わたしが興味あるのはやっぱり、人間の語りの声で、それを取り巻く音までをデザインしたいっていうことなんだよね。
 わたしが「自分で曲を作って歌う」にこだわってるのと全く同じ。同じというか、「曲を作って歌う」を拡張していくと、「オーディオドラマを作って声を吹き込む」になっていくから、そもそも別々のものですらないの。

 ……正直、作品を作るっていうことは、こういう自分のフェティッシュから始まる側面もあるから、これを、研究っていう、ある程度多くの人に恩恵を与えられるようなものにうまく繋げられるのか、不安なんだけど。

 ここでさぁ、感性の哲学(≒美学)とかに行って、「人の話を聞いてそこから想像を膨らませるとはどういうことなのか」って考察していくことも……できなくはないのかもしれないけど、そういう人間の感じ方の話になってくると、もうそれってわたしとしてはナンセンスに感じてきてしまって。
 いや、絶対詳しく調べたら美学って面白いんだけどね。
 でも軽い気持ちで手をつけたら迷いまくる気しかしないから、まだ触る勇気がないし、
 それに美学って芸術の批評に使うものであって、芸術家が自分の作品を理論づけるときに使うっていうのは本末が転倒してる気しかしないから使えないし。

 あ! でも待って、最近読んでる本の石原千秋『読者はどこにいるのか』で知った話なんだけど、
 小説にはたくさんの余白(書かれていないこと)があって、そこを想像で補うから、読者は小説の内部に入っていくことができる、って。
 わたしがオーディオドラマにこだわる理由はここにあるんだな。
 かなりたくさん余白を作りたいって気持ちがある。
 詩的な、もしくは音響的な要素が強いヘールシュピールが好きなのも、ここだわ。

 そうだ思い出した、朝、わたしは小説について書こうと思ってたんだ。

 わたしは自分の好きなものなんでも小説だと思ってるな、と。
 つまり、小説っていう比喩で考えられるんだなって思ったの。わたしの愛着を。
 わたしは小説を読むように音楽を聴き、映画を見、絵画を見、そのほか芸術作品に触れ、花を見、石(鉱物)を見、服を着て……何事も、そういう風にできるようになることに満足感を感じるんだと。
 つまり所有したいということなのかもしれないけど。
「いつでも開いてその世界を”読む”ことができる」……「いつでもその世界に行くことができる、扉であり鍵」として、あらゆるものを手元に置きたい。

 実際には、展覧会や美術館でしか見ることができない芸術作品っていうのも大部分で、
 それなのにわたしは所有してる気持ちを味わいたくて、気に入った作品の写真集や資料集やポストカードを買ったり、フライヤーやパンフレットを保管したりする。
 そこから自分の経験が蘇ってくるような気がするから。
「本」--写真集や資料集やポストカードやフライヤーやパンフレット--を、
「読む」--文字通り読んだり見たりする--ことで、
「その向こうの世界」--自分の記憶や想像と実際にあった出来事や与えられた情報が入り混じった世界--を開くことができる、
 その状態を作りたいからだ。

 でも、小説っていう例えを使うなら、それぞれが一人で好きなタイミングで開けばいいんじゃないかって思うから、あんまり自分の作品を、クラシック音楽みたいに、同じ方向を向いて聴覚だけに集中して、みたいに聞かせたいとは思わない。
 まだここについてはうまく言えないけど、わたしは自分の作品の聴衆に「純粋な耳」で合ってほしいわけじゃないし、こっちとしても「純粋な音」を届けたいってわけじゃない気がする。

 届けるものが音楽なら、音楽でコミュニケーションをするってことで、「耳」と「音」でもいいのかもしれない?けど、
 わたしは言葉や語りを使うし、音響や音楽であっても語りだと考えているところがあるので、
 語りってことは、耳だけじゃなくて、記憶や経験を使って聞くものだし、
 聴衆それぞれに、彼や彼女自身の記憶や経験を使って、余白部分を埋めて、それぞれの形で、わたしの作品の世界や物語を「完成」させるような聴き方をしてほしいから、
「耳」と「音」ではなく、人間同士としての関係を築きたいっていうか。

 ここに関しては、「集中的聴取」っていう文化について調べて正しく批判できたらかっこいいよなと思うけど。
 わーーーんこの段階になって読まなきゃいけない資料がまたたくさん出てくる〜〜〜〜

 人間同士としての関係を築きたいから、生身の自分も喋って、プレゼンテーションしようと思ったんだ。
 でも、ただ「プレゼンテーション」と「作品」って分け方をしちゃうと、結局「作品」は集中的聴取される形になりそうだったから、
 そこも崩していこう、「プレゼンテーション」が「作品」の中に入っちゃおう、「作品」の再生中も、「音と耳」ではなく、「語っている宵部と聞いているひとたち」にならざるを得なくなるようにしちゃおう、と思ったらパフォーマンスになっていった。
 みたいな感じだ。

 録音した作品を聞かせることと、
 言葉の作品を読んで聞かせることと、
 詩や物語の一節を口ずさんで聞かせることと、
 自分が聞いたエピソードを会話の中で語って聞かせること、
 色んな語りの形があると思うけど、それをミックスしていきたい。

 何でミックスすることに意義があるのかはまだ説明ができないけど。分かれてるから「作品」としての地位を与えられてきたんじゃないか、って気もするし……
 ほんとに何でミックスすることに意義があるって感じてるんだろうわたしは!?!?
 去年もこういう色んな形の語りをパッチワークしたしな。

 コラージュとかも、音の作品を作るときもだし、多分視覚的な作品を作る時でもすごく興味がある技法なんだけどさ、(リュック・フェラーリも「コラージュを音でやる」的な発言をしていた気がする)
 組み合わせることが好きなんだろうな。
 わーーー、コラージュのことも調べなきゃいけないやつじゃんこれ????
 何で惹かれるんだろう、

 ああそうだ、コラージュに使うオブジェクトの全部がまた、”小説” だと思ってるからだ。
 元あった場所から切り抜かれる前の文脈と、それだけで切り抜かれた後の文脈を併せ持つ、「オブジェ」(コラージュの素材)。
 それを集めて、複合的な意味を作る。
 ってことは、コラージュとキュレーションって似てるのかな。似てるところも色々あるんだろうな。

 あわわわわわ……こういうの、学期はじめにやっときゃよかったことを今やってる。
 でもしょうがない、こんなに自分を掘れるようになったのは、今になってこそなんだもん。

 こっから先は、コラージュのことや「文脈(芸術において)」のことについて調べないと論じられそうにないから今日はここまで。

 あわわわわわ……

 

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