良い汗かく芸術

自分が何を言いたいのかに本当に集中できていたらきっと、人からどんな反応が返ってくるかなんて気にならないのだと思う。

 

この間久々にカラオケに行って、久々に頭を空っぽにして歌ったら、やっと昔の感覚を取り戻せた気がする。

わたしは歌うとき--に限らず表現するときはずっとそうなのかもしれない--、自分の中から引きずり出したい想いがあって、それを引き摺り出してくれるような役になりきって、演じるように歌う。なりきるというか、憑依するというか、そういう感じだ。

普段の自分では表に出すことができない、無意識に仕舞ってしまっているものを、別人や別のシチュエーションにおける自分という設定をインストールすることで初めて表出させることができる、放つことができるのだ。

憂ちゃんの歌は歌うって言うより演じるって感じがする、って言われたこともあるので、外側からもそう見えているんだと思う。

 

その、自分自身自覚できない隠し球を放つことができる時の快楽といったらない。

自分を解放する快楽、自由を味わい尽くすあの感覚は、人間を遊びや芸術に駆り立てる原初のものなのではないか。

狂気と神がかりはとてもよく似ている。

今ここにいる自分とは別の生にピントを合わせることで、普段の「自分」を演じる状態からどこまでも自由になれる。
普段は封じ込めているものを思い切り解放できる。

 

中学生のとき、合唱部の顧問の先生が言っていた。合唱指導がめっちゃすごい先生だった。

彼曰く、普段は社会の中で人と支え合い共存しながら生きていくために、心にしまっておかなければならない激しい感情も、芸術の中なら思い切り解放できる。そのために人は芸術をやるし芸術に触れるし、芸術の中で鮮やかに表現されたものに心動かされるのだと。

その言葉は強くわたしの中に刻み込まれて、いまだに熱を持ち続けている。

全くその通りだと思う。

感情だけが芸術の表現する内容ではないけど、研ぎ澄まされた感情表現は十分芸術である。

 

わたしは自分の創作を、活動を、結局どのように受け取られるのかが気になってしまったのだが、
本当に気にし続けるべきなのは、というか意識を向け続けるべきなのは、表現し自由を謳歌する芸術をやることの快楽、ただその一点のみなのだと思う。

そうすれば、他人の評価に左右されることもない。
モチベーションも保ち続けられる。

 

わたしが芸術をやるのは、やらずにはいられないからで、表現が快楽だからだ。

いつだって自分の我慢していることありき、解き放ちたいことありき、気持ちよさへの欲求ありきだ。

でもきっと、それこそが一番純粋な形なのだと思う。

 

芸術の純粋性を求める態度は危険だろうか?

わたしはそうは思えない、芸術も聖なるものも、何か一点に向かって研ぎ澄まされた姿によって、人に無限の叡智を与えるものだから。

純粋な美とか、芸術至上主義とか、美以外の価値観に対して芸術が引きこもってしまうことが問題なのは、否定神学的に、「芸術ではないもの」を排除するやり方で芸術を研ぎ澄まそうとしてしまったからであって、研ぎ澄ますこと自体は必要なことだと思うのだ。

不純物を濾していくこと。

ある作品については不純物となってしまったものも、また無意識のスープの中に入れてグツグツさせれば、新たな芸術の核を成すエッセンスになり得る。

 

自分が作る、表現する、その快楽に集中していればこんなにも明晰になれるのに、わたしはしばしばブレてしまう。

 

一番は、生活のことを考えたとき。自分の創作とお金を繋ぎ合わせようとすると、まだ他者の目を気にする回路が自分の中にできてしまう。

本当は、自分のやりたいことと他者に喜んでもらえることを一致させる方法、絶対あるはずなんだけど。

そこを目指して日々また思考を掘っていくしかない。

 

芸術家にパトロンが必要なのって、まさにこういう理由からなんだな笑

いやー、いっぱい欲しいね、パトロン。