ふと見上げた空が美しすぎて、それを宝石や芸術作品や本や音楽のように手元に取っておくことができないことに、途方もない焦燥感を覚える瞬間があります。
この間ひさびさに実家に帰ったとき、わたしの心にそんな衝動が湧き起こってきました。
こみ上げてくる涙。
途方に暮れる感じ。
世界の大きさ。
自分のちっぽけさ。
いのちの儚さ。
莫大な、硬水の如く飲み干すのがたいへんな、濃い質量の愛。
そんなものをいっぺんに感じて、わたしはついつい泣きました。
こうした郷愁は、なにも、大人になったから、帰ってきてからこそ湧いたものというわけでもなく、
小さな子どもの時から、折に触れてわたしに涙を流させた気持ちなのです。
「ずっと、この時が続けばいいのに。」
わたしを泣かせるのは、そんな幸せの痛みでした。
わたしはずっとこの疼痛を、悲しみや寂しさや傷みによるものだと感じていました。
不登校だった頃、我慢してばかりだった頃の傷みが蘇るのだと。
しかし、それは勘違いだったようです。最近この痛みの正体が、とうとうわかってきました。
この痛みは幸せだったのです。
噛みしめきれない幸せと、溢れんばかりの愛を、どう受け取って、どう使えばいいのかが分からなくて、わたしは途方に暮れていたのです。
わたしはわたしの生まれ育った場所で、たくさんの愛を受けて育ちました。
守られていました。
たくさんの人がわたしのために祈ってくれました。
そして、いつかそんな世界から巣立たないといけないと思い込んできました。
あるいは、いつまでもこうして生きていくにはどうしたら良いのかと焦り、この時間を続かせるためにと別のことに突っ走り、そっぽを向きました。
けれど、わたしは、留まりたいだけ、この愛の中に留まっていてもいいのかもしれません。
わたしがここに留まれば、わたし自身も、誰かにその愛を渡せるようになるのだから、そのほうが、全てのために良いのかもしれません。
大人になったら、社会では、しっかりしなければいけないし、迷惑をかけてはいけないし、自分一人で自分のことをやれなければいけない、と思っていました。
けれどそれは、大人という仮面に紐づけられた建前であって、いのち自体に紐づけられたものではありません。
大人になりたくない、ということばには、人それぞれ様々な本質があると思いますが、わたしにとってのこのことばの本質は、つまるところこれでした。
愛から切り離されたくない、存在するだけで祝福されるいのちであることを忘れたくない、と。
わたしはいつまでも、存在するだけのいのちを愛し、愛される世界に生きるのです。
わたし自身が自分をそのように扱い、わたしの目に映るすべてのひとびと、すべてのことも同じように愛する。
そうして、わたしはこの世界に満ちた時間を取り戻す、そんな力の一つとなりたいのです。