わたしが尊敬している友人が、わたしに「写真はやらないの?」と聞いてくれた。
わたしは、写真に関して、どのような美学がどうあるのかというのがよくわからない、だからあんまり意識したことがなかった、と答えた。
友人は「もしあなたが写真をやることがあったら、見たい」と言ってくれた。
それ以来、少し写真という世界に興味が湧いて、写真や写真家のインタビューに注目する日常を過ごした。
そもそもわたしが写真というものに対して苦手意識を持っているのは、眼差しの暴力性を気にしすぎているからというのもある。
見る、もしくは写真に撮る、ということが、なんというか、「晒す」ことにつながっているようで恐ろしいのだ。
でも、それはそれで、被写体のことを過度に弱く見積もったものの考え方なのかもしれない。
小林紀晴『写真と生活』という、写真家へのインタビュー集を途中まで読んで、少しだけ写真とは何なのかを触ることができたように感じたけれど、
つまり、写真を撮るとは、被写体の力強さをカメラで吸い取る(吸い取ったからといって、被写体からその力強さが失われるわけではない)ということなのかもしれない。
そう考えたら、今度は被写体であるということがどういうことなのかに興味が湧いてきて、写真や絵画のモデルを務める人のインタビューを読んでみたくなってきた。
わたしはどうしても、写真を撮ることが盗み取ることや消費することと結びついてしまっているように感じてならない。しかし、むしろその考え方こそが、見られることよりも見ることの方を特権化する態度ありきのものなのかもしれない。
そう考えると、写真を撮ることというのはむしろ、被写体の主張を感じ取ることであるので、実は極めて謙虚な、謙虚さが何よりも必要な仕事なのかもしれない。映像もそうだ。
フィールドレコーディングもそうだ。
もちろん、「透明な文章」というのが実在しないあくまで理念的なものであるのと同じように、写真家の眼というのも決して「透明な眼」ではない。むしろ、写真家は透明な眼になれないからこそ、その人の感性のフィルターを通して世界の声を画像に宿らせる。
「良い写真」というのは、画像で決まるのではなく、画像に何を宿らせたかによって決まるのだろう。
同様に、被写体を晒し、消費し、盗み見るのは、驕ったカメラのすることなのだろう。
すなわち、被写体に向き合わず、画をなぞり、画像を画像以上にしようとしないとき、そこにはただの拡散と複製があるのみになってしまう。
これは録音にも感じることだが、複製は複製であるだけで価値が失われることは決してなく、
ただ、複製する時に価値もまた複製されると誰かが信じて心を込めなければ、それはただの複製にしかならず、そういうものにはアウラは宿らない、と思う。
良い写真とは、写真家のエゴが正しい感性のフィルターとして働いて(つまり画像をコントロールするようには動かず)、被写体の力を引き抜いて画像に宿すとき、うまれるのかもしれない。
写真に限らず、良い作品というのは作者のエゴからは生まれない。
もちろんエゴ無くしては生まれないのも真実だが、わたしが思うに、良い作品にはどこかしら戯れがある。
戯れというのが、自然や偶然や一回限りの何かとコミュニケーションをし、解釈の自由さや説明されるのではなく感じるがゆえの体感というものを鑑賞者に与えるのだ。その戯れの部分までを作者のエゴで縛ってしまうのはもったいない。それが、「作品を信じる(主に説明しすぎないとか明らかにしすぎないという意味で)」ということなのだと思う。
不定形な戯れの中に、掴み取ることのできる何かはしかしあって、それが鑑賞者が作品へ入っていくための入り口となる。しかし、入り口の先がたった一つの出口に向かって、しかも極めて狭い道しか用意されていなかったら、それは少しつまらないし、突き放されたように感じる。
作品を作るということは、作家にとって、ひょっとするとエゴとの終わりなき戦いなのかもしれない。
わたしは卒業制作だけでなく、3年次の作品もかなり迷走していたと思っているが、それもこれも、エゴとの付き合い方に七転八倒したが故である。
感覚的すぎたらダメだと思い込んでしまったのだ。
実際には、わたしはこうして感覚を言葉にすることはできるので、それほど心配いらなかったのかもしれない。
感覚と理論、創作と学問を両立していくことを、大学4年間ずっと目指してきたが、結論、それは無理で、どちらかを選んだ方がずっと安心できるということをわたしは学んだ。
苦い思い出を残した部分も多々あった大学生活だが、非常に実りのある経験ではあった。だから、巣立たなければいけないのはとても寂しい。