久しぶりにブログを書く。
このところわたしは、将来が不安やらバイトが暇やら頭の中がごちゃごちゃやらで、朝には涙腺が開きっぱなしで午後には回復するという典型的なメンタルの崩し方をしている。
実はここ数ヶ月、自分はこれまで徒然なるままにブログを書きすぎていたんじゃないか?と思うところがあり、更新を控えていたのだが、ブログも書かない曲も作らない時間はわたしにとって、自分のバランスを崩す生活だったみたいだ。
わたしは今年度に入るまで?ずっと直感で生きてきたし、自分のペースで、この先もこうやって生きていきたいと思っていた。それは今だって当然諦めていない。でも、それはそれとしてこれからどうするのか(具体的には、どうやって食い扶持を稼いでいくのか)を考えていかないといけなかったし、直感だけではいけないんじゃないかって思った。
結果、卒業制作の中間発表はあんまり納得いかない出来になったし、宵部憂の活動も中途半端になった気がするし、この先どうするのかの答えも全然出せていなくて、それで沈んでいるのだ。
ただ、現実を見て、強くなって生きることも、わたしにはできないと思っていたが、そんなことはないということがわかったのは収穫だった。わたしには生きていく方法がないと思っていたけど、そんなことはなかった。
なかったんだけど、問題はじゃあ、そうやって生きながらも、自分の世界を守っていくにはどうしたらいいのかが、ものすごく難しく感じる点だ。
これだって、努力でなんとかなる部分なのかもしれない、というかなんとかしていくしかないんだけれど、
自分の内側から突き上げてきたり流れ込んできたりする、生まれて自我を得て人間はいつか死ぬと言うことに気づいたばかりの自分と何にも変わっていない剥き出しの感性の叫びを、殺さずに、どうやって生きていけるのか。
なぜかというと、その感性の叫びに耳を傾けると、わたしはどうしたって足を止めたくなってしまうからだ。
村上春樹曰く、繊細な感性のままでは生きてゆかれないから、人々は社会生活の中ではある程度その感度を麻痺させるのだ、ということらしいが、そんなオン/オフみたいな器用なことを、わたしは習得できるのか。習得できるとしてそれはいつになるのか。
わたしだって、オフにはできる。でもオフにしたら最後、わたしはあの感覚を忘れてしまいそうで、それがものすごく怖いし、実際そうなりかけて、今、ものすごく怖い。
甘えているのかもしれない。贅沢なことを言っているのかもしれない。きっとそうなんだろう。でもわたしは、この感覚を譲りたくない。このために生まれてきたような気がするから。
こんなことならやはり、学齢期のうちにもっと”今”にフォーカスして好き勝手に生きるんだった、と思ったけれど、それは今更言っても仕方のないことだし、頭が柔らかくてなんでも吸収してかつ真面目でなりたいものがあるわたしは、あの時はああしてしまうほかなかった。
とにかく、自分というものがすぐに揺らぐのが辛いし、相手が悪いんじゃなくて自分の特性として、自分でも知らないうちに簡単に人に剥き出しの自分を触られているみたいになるのがしんどい。
就活の苦痛も、それもあったのかもしれない。
わたしは、働くことと生き方を結びつけたくなんか、ない。
未来に近道なんて無く、どんな風に生きるべきかなんて無く、ただ目の前のことを淡々と幸福に生きていけばいいだけ、だと思うのに、気付いたらわたしは焦っている。
夢に囚われている証拠だし、なりたい自分に囚われている証拠だ。夢とか理想とかじゃなくて、好きなことの積み重ねの果てに「あわよくば」があるだけだっていうのに。
気を抜くと、わたしを覆ってくれる柔らかいヴェールのような結界は擦り切れていて、その向こうから「このままでいいのか?」という冷たいささやきが迫ってくる。
わからない、わたしだって、成長することや、世界を広げることや、できなかったことができるようになることを諦めたいわけじゃない。
けれども、いつだって未来のために最善の行動ができるわけじゃないし、……そんな風に生きていくのは嫌なはずなのに、どうしてかそうするべきだと思い込んでしまう。
こんなふうに考えてしまうのは、より良くなりたいという一心で、他者の言葉を突き返すことができなくなっているからだ。
やっぱり、「わたしのことはわたしが一番わかっている」そう言い切ったわたしは、間違っていなかった。
もう少しニュアンスを厳密にするならば、「わたしのことはわたしが決めたい」なのだけど。
自分が大丈夫か大丈夫ではないのか、自分は病なのか病ではないのか、ということに関しては、結論はついに出た。
わたしは大丈夫だし、病ではない。
不登校だとか親がとか、その辺の問題はすっきりした。わたしは十二分に自分の思いを吐き出せた。だから今は、それでも両親がわたしのことを全力で大切にしてくれていたことが骨身に染みている。そのことで最近また涙腺がボロボロだもの。わたしは自分の欲しかったものがわかり、自分の気持ちを言うこともできた。もう、恨んでもいないし、欠けたものを埋めて欲しいとも思っていない。
だから今わたしが難しいと感じているのは、自分の世界をどうやって守っていくか、その一点のみなのだ。
時間について、もやもやしていることがあるので、「“わかりやすさ”小考」みたいな感じで、またまとめて書いてみようと思う。
……と、こうして書いていくとだいぶ気持ちが落ち着いてきた。
多分、やっぱり、つくづく、わたしは言葉を間に受けすぎなのだ。
どんなに理念的には線形の未来志向のビジョンを描いていても、実際それを実行に移していくのは人間の営み、つまり人生と身体のペースでしかないのだから、成長を志向した物言いをする企業だろうと、循環を志向した物言いをする企業だろうと、言葉が違うだけで、実態としてはそれほど違いはないような気がする。
駆り立てられているようだとわたしは言うが、実際にはわたしがわたしを駆り立てている。
他人から投げかけられた言葉がわたしの中で反響し、気づかぬうちに所与の事実になってしまう。
いやでもわたしはわたしの内側の、この残響時間の長い構造を、自分ではどうすることもできないのだ。
スルーする努力、なんて、無理だ……
これ以上は考えたって仕方のない部分になってきた気がする。だって、いつ何時、どのような言葉に出会うのかは、誰にもコントロールできないのだから。
ただ、わたしはそういう、未来のためにとか、より拡大をとか、より成長をとか、そういう先のことを持ち出してくる話が嫌いで、聞いていると毒が回ってしまうということを、ちゃんと忘れないでいたい。
そうしていれば、少しは身が守れるのかもしれない。
とかくわたしは、先のことを考えるなんて無理なのだ。それは、卒業制作でもすごくよく学んだ。今に集中することだけが、わたしの安堵であり、わたしにできることだ。
自分を毒するような情報が目の前にやってきた時、特に人から語られた時、わたしはそれに突っ掛からずにはいられない。
なぜなら、そうしなければわたしは自然と納得してしまって、結局毒されてしまうからだ。
波風を立てたいわけではないけれど、真っ向から否定したくなる。否定までいかなくとも、「わたしはそう考えないですけど」とは言うだろう。
それを態度で表した結果が不登校なのである。
わたしだってわたしがわたしであるために譲れないのだ。
ああ……ああもう……