自分とともに生きている別世界を、一遍の小説で記述しきるなんて無理さ

 上演する作品だけじゃなくて、小説も、結局その時の自分が手を動かした結果の産物だ。考えるのは頭でも、物を作るのは結局手である。

 ということは、その手を動かした結果の産物たる作品は、アイディアルな(理想的な、観念的な、抽象的な)完成品、こうしたいと頭で考えたものそのもの、になれることなんてないのだ。
作ったもの、できたものを事後的に評価するしかない。

 ってところに、物語を書く上でずっとぶち当たっていて、でもたぶんもうそれは、乗り越えられないっていうか、向き合い続けてももう変えようのない事実だから、身の振り方を考えるべきなのだと思う。

 自分が作りたいもの、こうしたいと考えたもの、を作るにはどうしたらいいのかを、調べたり研究したりしようと、この7、8年ずっと努力をしたりしてきたけど、それで結局一向に筆が進まない(書いてみては挫折している、楽しくないししんどいし自分がどこかに行ってしまうしなんだかしっくりこないし、完成するまで続けられない)ので、自分にあっていないやり方だったのだと思う。
 だから開き直る方向に舵を切ろうと決めた。
 正直まだ迷いはあるけれど、うん。

 そもそも、そういうことが起きるのは、わたしが自分の書きたいもの--わたしの中にある「彼ら」=登場人物、あの場所=作品世界、あの感じ=イメージ、というものへの思い入れが強すぎるから--そもそも、彼らと一緒に生きているからだ。
 わたしは彼らから、その世界から、何でも、いくらでも取り出してくることができすぎてしまうから、つまり可能性が無限すぎるので、一遍の小説だけにまとめられないよということなのだ。じゃあ今回はこの部分を切り出すよ、よろしく、って形にしないと気が済まない。あの人たちの、あの世界のことは語り尽くせる時なんてこないくらい。
 物語を書く時だけじゃなく、一緒に生きているから。
 あの世界は、わたしが生きるのと同時にどんどん変容していく。わたしと一緒に成長していって、いつもわたしのそばにあり、わたしは好きな時にあの世界を観光することができる。一つの場所、別世界なのだ。
 一度や二度の旅行でその町のことを書き尽くせるわけじゃない、そんな日なんて来ない、そういうことだ。
 そんな世界を綴る形は、なかなかフォーマットにできないものなのかもしれない、そもそもそこから無理があるのかもしれない……そんな風にも思う。
いやでも小説って形にする挑戦はしていきたいんだけど。小説という形--文字媒体が好きだし。

 わたしは小学校の時、書き始めてからずっと、結局は小説賞に向かって書いていたから、フォーマットとか「小説らしさ」をまだまだ気にしすぎているのかもしれない。 

 もうちょっと力を抜いて、「結果の産物」を楽しみに書けるといいな、とりあえず書かないことには仕方ないんだから。

 書いたらもちろんここに載せます。