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 目の前にいる相手(これもダメな相手はダメなんだけど)と分かり合うことは、なんとかできても、「社会」を変えることなんてできるのかなあ、って最近ずっと考えている。

 もちろん、変えられるのか変えられないのかなんてとりあえず置いといて、声を出すことはとても大切なこと。それは当然だから、また別の話ね。

 ただ……

 自分の言葉で何か影響を与えられる相手だったらとっくに変わってるよな、って。
 何かの問題について、最初から言葉で気付いたり変われたりするひとは、そもそもその問題の根幹を成している層ではない、って話はよくあるじゃない。

 どんなに言葉を重ねても分かり合えない人というのはいて、そういう人に、諦めず手を替え品を替え言葉をかけ続けても、変わらないものは変わらないし、自分が消耗して削れていくだけなので、見切りをつけることは肝心だと思うのです、自分の心と身体のために。
 その人はきっと、「いま、わたしの伝えたいことに気づくタイミングじゃない」んだと思う、そういうときって。

 だからって、そんなこと言ったって許せないことがいっぱいある。看過できないことがある。許してはいけない気がすることがいっぱいあるから、ほんと、何も簡単なことなんてないんだけど。

 自分自身のことならさ、「それで、どうしたい? どうしよっか?」で決められるからシンプルなんだけど、社会の理不尽に怒ることには、まあ当たり前なんだけど最適解なんてない。

 話の通じない人とどうコミュニケーションしていったらいいんだろうね。
 相手がひとりとして存在してくれていたら、ちゃんと話を聞いて、コミュニケーションができる気がするけど、何かの全体の一部になろうとしている人だったら。
 そいつぁ結構きびしい。
 ”話の通じない人”って、そういう人なのかもしれないな。

 ああ、だからあの友達は「大衆から個人を切り離す」って言っていたのか。

 でも、大衆や全体の一部になりたいという気持ちは、きっと不安や傷から来ているのだろうとも、わたしは知っている。

 その不安や傷とはつまり、「自分には、基本的人権が、生まれながらに備わっている」と信じられないことだ。

(基本的人権=生まれながらに人間に備わっている権利のことなので、いまわたしは二重表現をしたんだけど、それぐらい「基本的人権」の意識が抜け落ちているのです……)

 自分は自分一人で十二分に存在していいのだと、好きに生きていい(ただし人の人権ももちろん尊重する必要がある)のだと、何に従わなくても、自分で決めていいのだと、そしてそれは当然の、生まれ落ちた以上誰もが持っている「当然」「所与」だと、どうしてか、わたしたちは忘れているんだか、忘れさせられている。

「権利」という言葉に対して、「権利が欲しいなら義務を果たしてから言え」なんて言葉が横行する世間だもの。

 ちがうんだってば〜!!! 基本的人権の話なんだってば〜〜〜〜生まれながらにして人間が持っている当然の権利の話、「生まれながらにして人間が持っている当然の」権利!!! 
 権利はだから、「獲得」するものじゃない。
 だから本来は代わりに差し出すものなんていらない(何かを得るためになら何かを差し出せねばならない論理で言うと)。
 権利を主張するとは、全部「取り戻す」ための行為なのだ。

 もう一度繰り返すけれど、権利はそもそも獲得するものじゃない。「何か対価を払ったから獲得できる」ものではない。
「そもそも全員が持っているもの」なのだ。
 それが権利だ。

 ということを、基本的人権意識を、自己肯定感を、自己愛を、繰り返し繰り返し伝えていくことが、長い目で見ると平和を作るんだろうなと思っているので、そういう活動をしていきたい。

 しかしそれはとっても長い目での話だし、予防注射みたいなことかもしれないから、何か問題が起きた時にそれに対処する方法は、また別に考えなきゃいけないことなんだけど。

 それが、ぜんぜん、糸口も何も見つからないなあって。
 日々探していきます。