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 ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』を読んでいる。
 わたしたちは、口誦文化からその系譜を色濃く引き継いで発展した文字の文化の上に生きていて、でもエレクトロニクスにより二次的な声の文化の上にも生きている、というのがオングの主張だけど、口誦文化に関するオングの研究は、わたしがずっと抱えてきた物語への蟠りにも、語るための語彙をくれた。

 結局のところ、物語を使って人に言うことを聞かせる、という手法の下品さ、子ども騙しが、子どもの頃の私には耐え難かったのだろう。何か物語を読んで聞かせては、だからあなたもああしなさいこうしなさいと。
 もちろん、物語には、それだけ多くの叡智をしまっておけるというヤバい機能があるわけで、それは物語のとっても伝統的な使われ方なのだが、読書好きで「内面」というものをいち早く獲得した子どもだったのかもしれないわたしには、それがひどく薄っぺらい子ども騙しに感じられたのだ。

 語り聞かせる物語--それは幼児期〜小学校低学年ぐらいまでに読み聞かせられるものや、それ以降も継続して強制的に聞かされる説教的なものまで--は、決まり文句的な筋を持つのがむしろ当然である。
 それは文字のなかった時代の名残だ。
 その時代は決まり文句的な内容あるいはリズミカルな言葉でなければ繰り返されることができず、したがって記憶されることができず、消えてしまうものだから--といった理論を、わたしは『声の文化と文字の文化』から得たわけだが、わたしが物語に感じていたいやらしさも、突き詰めるとここにある気がする。
 つまり、先に話の落としどころが決まっていて、それありきで話を聞かされる退屈さ。
 でもそれこそが、口誦文化の時代には、記憶のために重要だったのだ。

 でも! 語弊がないように書いておくと、その時代にも芸術的で子ども騙しでは全くないものはもちろん存在していたし、今もその続きは存在し続けている。
 だが、その芸術性がどこにあるのかと言えば、話の筋や内容自体の根幹が変わるということではなく、その話が話されるときの、聴衆に合わせた語り口や歌い調子などにある(オング)。
 例えば、強制的に聞かされるものとは言え、「話の上手い」プレゼンや講演には、わたしも何度も引き込まれてきた。それはやっぱり、「つかみ」とか、わたしたちの年代や関心にも合わせた語り口を使うとか、そういうことなんじゃないかと思う。
 また、話芸といえばわたしがぱっと連想するのは落語だが、噺家さんも、そのときのお客さんの年齢層や関心、会場の雰囲気などに合わせ、話す演目も語り口も枕も変えるのだから、これは芸術的だしめちゃくちゃクリエイティブだろう。こっちに関しても、わたしもやっぱりさすがだなあと思ったことがある。同じ噺家さんでも、子どもも客層に入っている場では、小僧が主人公で、内容がわかりやすいだけでなく、内容がわからなくてもリズムや歌い調子だけでも笑えるような演目を話し、大人が多めの場では、現代物で世情を組んだ、ほんのちょっとワイセツな部分も含んでいたり、ちょっとホロリともきたり、といった演目を話し、という具合だった。

 翻って、めんどくさいお説教に芸術的な語り口や歌い調子や機転などはあるわけないから、やっぱりわたしの反感は間違ってないと思う。ぷんすか。
 そもそもこちらを楽しませようとしている演目ではなく、従わせたいがためのものだもの。演説ならまだ聞いてやってもいいけどさ。

 あとは、人間の人生を、物語のプロット(はじめがあってクライマックスがあってエンドってやつ)あるいはお決まりの話の筋(例:正直じいさんには良い報いがあり、いじわるじいさんは酷い目に合う)で圧縮して分かった気になって消費する、みたいな文化に対する苛立ちだ。

 どんなエピソードも、その裏には人間の人生がある。
 そりゃ、大きなかぶの家族は具体的な誰かではないと思うからともかく、そういう抽象的な伝承とか、あるいは映画の登場人物が映画の中で成したような話、と、実在の人物(偉人とかスポーツ選手とか)の人生をごっちゃにするってどうなんだ。
 だからわたしは伝記が苦手である。その人物が偉大であるというオチが先にあって組み立てられた物語って、読んでて辛くないか。
 同時に、実在の人物を引き合いに出した説教も超嫌いである。お前その人に会ったことあるんか。会ったことあったとしても、その人の人生の何がわかるん?

 ……なんか、要するに説教聞くの超嫌いムカつく! っていう結論に落ち着きそうだ。
 物語が悪いわけじゃなかったのだろう。今まで警戒心MAXで扱ってしまってごめんよ、物語……。お前もたくさんの人間に好きなように使われて辛かったよな……

 つまり一番嫌だったのは、「こんな人間になりたければ〇〇しなさい」「こんな人間になりたくなければ××しなさい」という、お説教だったんだ。
 とくに後者。

 人が人を裁く、それもまともに自分の頭で考えてない偏見で、という醜さを子ども時代に見すぎたことが(これはわたしが特殊な環境で育ったということではなく)、とても辛かったのかもしれない。
 この世はとても生きづらく、人がすぐに裁かれ、「あんな人間にならないように」と言われてしまう場所なのだ、と思ってしまったのかも。そのショックで、物語ごと恐ろしくなってしまったのかも!

 そしてわたしは、「その人を裁く」ということが、物語る人の偏向にではなく、物語の構造に宿っていると、今のいままで考えていたのだ!

 過去の自分を振り返ってみると、「物語ること=正解を出すこと、だから恐ろしい」と何度も言っているのもわかる。

  ……なんか、こうして見てみると、面倒臭い部分がいっぱいあってイライラするのに好きだから別れられない彼氏の話をしてるみたいだ。
 でも本当は、物語のせいじゃなかったかもしれねえ。

 

 だからわたしは、自分が物語ることも恐ろしかった。
 わたしの物語を、わたしの世界を、わたしの価値観を、美意識を、プロットや筋で薄っぺらく受け取られたらどうしようって。薄っぺらく要約されたらどうしようって。

 でも、それもやはり、物語のせいではない。
 物語という形は、人間が自分の中に入ってきた情報を処理するやり方にすぎない。

 わたしの語りを聞いて、わたしからすると「薄っぺらく」解釈した人の物語の網の目は、わたしの好みに合わない網の目だった、というだけの話なのだ。

 じゃあ、物語が恐ろしいものではないとしたら、わたしは何を語るのだろうか。
 わたしの物語からどんな「教訓」や「お説教」が引き出されようと、それはわたしではなく、そんなもんを引き出す側の問題なのだとしたら、わたしは何を語るのだろう。

 上にも書いたが、物語とは、多くの叡智を一気にそこにしまっておける、ヤベーガジェットだ。一連の、ひとまとまりの知識を一緒くたにできる。実際、暗記の天才は、無理やりにでも物語を作ってそれに関連づけていくつもの物事を覚えるらしいしね。
 自分の物語、例えばフィクションを語るとしたら、わたしはそこに、いくつものわたしが得てきた叡智と、自分の好きなものを散りばめたいな。

 

 ……ってこれ、いい加減手を動かさないといけない卒業制作につながる思索のつもりだったんだけど、やっぱ直接的につながるかはわかんないや。

 卒業制作はそれこそ、「人生なんて物語の形にできるわけないだろ、最も印象的な経験は全然物語的じゃねえだろーーーーー!!!!! 語りたくても語れねえことがあるだろーーーー!!!!!」という初期衝動を持っていたんだけど、わたしもぐんぐん成長しているから、また違った落とし所になりそう。
 だから物語を解体していこうとしていたんだけど、違う方向に髪先を引っ張られている。

 でも、そろそろテキストを書き上げないといけない。あ、焦る。

 とりあえず今は、「物語と記憶」に興味が移った……という感じかな。「語り得ないこと」も、記憶をめぐる話だしね。ほ、とりあえず方向性は見えたぞ……

 あ、焦る……
 卒論や卒制を頑張っている全国の大学4年生、一緒にがんばろーね。