最近「神話的存在」を聴き返しているけど、
つくづく、
つくづく、
つくづく、
思うのは、
わたし、恋愛関係の曲だと一段と作り込みとキレがやばい。
ということ。
やっぱりそれだけ、クソデカ感情(わたしはこの言葉が大好きです)を抱くし、それを伝えたいっていう原動力を持つことだからだと思うの、恋とか、愛とか、それによく似た気持ちは。
やりたいことって性欲だとか、恋する気持ちと創作の関係とか、もう耳タコぐらいよく言われてることだと思うけど、ああ、やっぱ、本当のことだなって思う。
でも同時にね、「わたしは恋愛のことを歌う女性シンガーソングライターになんて、絶対なりたくない!!!!」って思ってたんだ。
「やりたくないことはやりたいこと」っていう言葉がずっと引っかかってたんだけど。
こういうことだったのかなって思う。
すんごく勝手な好みの話なんだけどね、
女性的=恋愛みたいなのがすんごく嫌だったし、
昔からそういうカルチャーに馴染めてこなかったし、
恋愛についての歌を、どうしても陳腐に感じてしまうことが多々あって。
「え〜、なんかめっっちゃどっかで聞いたことある言い回しじゃん、急募オリジナリティ〜〜〜〜」とか思ってて。
だからわたしが尊敬してるシンガーソングライターは、そもそもはっきり恋とか歌わないの。それ、わかるって思う。
つまりさ、「恋愛」って言ったら一色しかないみたいな、そういう感じがするものに拒否反応があって。
本当はそこからいくつもの色合いを引き出せるのに。
だからわたしは「クソデカ感情」って言葉が好きなんだ。
それは質量のある、中身も複雑な愛情ではあるけど、
必ずしもロマンティックなものだけじゃないし、憎悪とか悲しみとか異物感とか、のっぺりした言葉じゃ語れない内部をたくさん持っている、蜂の巣みたいなものなの。
すごくこう、わ〜〜〜典型的男女の恋愛〜〜〜〜って感じがするものに出会ってしまうと、自分がなりたくない、否定したい、自分とは違う、でもそれになることを期待されているような気がする女性像を感じて拒絶してしまうし、
恋愛を歌ったら自分もそういう風に写っちゃうじゃないかと思って、
それで「恋愛を歌うなんて、絶対にやりたくない!!!!!」って思ってたみたい。
そうは言ってもさ、わたし、最初に出したアルバムが恋愛や人間愛や人情や……その辺のことで色々考えてきた曲たちを収録したアルバム「愛と情」なんだよね。
オイ。
アルバムって形で世に出したいって思えたのは、それだけ伝えたいって思いを込めたかったからだと思うの。
それだけ伝えたいって気持ちが募ったからだと思う。
それってつまり、
恋愛とかその辺について作品にするの、めっちゃ向いてるってことじゃんって思って。
あ〜〜〜〜〜っっっ、まじか〜〜〜〜〜〜〜。
人間間の愛って重層的だから、一色しかない「恋愛」っていう色でのっぺり塗れないと思うんだよね。ジェンダー、セクシュアルマイノリティに関する議論や感覚や現実も、わたしたちの世代ではすぐ隣にあるものだし。
あと、誰かとの関係って考えるときには、絶対自分の内側のことや、自分の世界観や、自分自身との愛情関係などを引き出してこないと掴めないものがあったりして。
感情や感覚が揺さぶられることだから、本当はオリジナリティしかない表現が無数に埋まってる場所だと思うのに。
なんなの!?!?
恋愛の形象が、まだまだ全然豊かじゃないと思うこの国。むかつく。
あとはさ、「恋について歌う女の子」になりたくないからっていうのもあるんだけど。
まあそこに関してはー、誰がわたしをどう見るかって、コントロールはできないから、わたしはわたしでやりたい表現をやっていくしかないよね。
多分、わたしの恋愛に関する形象は、少なくともただ可愛いだけじゃないはずだし。どう考えても。
だから心配するだけ無駄というか自意識過剰というか、逆にいうと自分のことそれだけ可愛いって思ってるんだなってこと笑
あとは、わたし自身が「恋について歌う女の子ってなんでみんな同じこと言うの???」って感じて退屈してたってだけだと思う。
だったら、わたしは大丈夫だなとやっと安心できた。
恋愛について歌っても、わたしは全然(わたしから見て)つまらなくなってない。
むしろクオリティが上がる気がする。
わたしがつまんないなーと思う「典型的恋愛(異性愛)」ってどういうものなのか、一回分析してみたいなって、これは文学評論・文化社会学好きの血が騒いでるけど、これはまあおいおいやっていくとして。
ここで一つ、昨今のジェンダー議論・フェミニズム理論の雰囲気(としてわたしが勝手に感じ取っているもの)についてわたしが感じていることを書いておくんだけど、
もちろん、今まで女性が、
他者との関係において自分を位置付けていて、「自分」とか「自己の内面」というものを引き受けられてこなかったとか、
「男女」として、男性との関係の中でしか自分を考えてこられなかったし、生きてくることもできなかった、
というのは、本当にそうだなって思う。
ただじゃあ、そこで、異性愛の女は男性について考えなければ自立できるのかって言ったらそれも違うよなあって思って。男性と自分を《常に》敵対・対立の位置におけば自立できるのかと言ったら、それは違うでしょって。
男性に愛されたいって思っちゃいけないわけじゃないよねって。
「男に恋する女」「男を想う女」っていうのは構築的に押し付けられてきた役割ではあると思う、でも、異性愛の女性の場合は、それが女としての自分を作っているのも確かだし、それを完全に切り落としてしまえばいい話なのかな。それってなんだか去勢的な感じがする。
去勢したら男は男じゃなくなるのか(なんでそういうことにしたがるのか)って話と似てるけどねじれの位置にいる、女を去勢したら女は第二の性ではない女になれるのか、っていうか。
近代文学で、「近代的自我」を手に入れた男性が女性について考えることを創作や自己捜索の題材としたように、
(男性社会に認められなかったとしても)現代の女性はもう自我を手に入れているんだから、男性について考えまくっていいと思うし、その考え方は必ずしも敵対の位置から考えなきゃいけないってわけじゃないと思う。
(敵対してもいいと思う。敵対しなきゃいけないわけじゃないよねって言いたい)
男や恋愛について考えることから自己捜索、大いに結構じゃないか。
で、ここの「男性社会に認められなかったとしても」っていう部分が本当に厄介だけど、
わたしはもーぶっちゃけ頑なに認めたがらない奴は切り捨てていけばいいじゃんって思ってるかな……
関わらなきゃいいじゃんって思うし、「そんな奴とも関わらなきゃやっていけない・上に行けない領域」は近い将来勝手に沈む船だと思うので、別の船に乗ればいいかなって思う。
難破しない方法は、今自分が乗ってる船を立て直すだけじゃなくて、別の船を作って整備して大きくしていくやり方もあるよねって。
もちろん、今ある構造を変えていこうとする動きには敬意を払うし、というかそういう言論や行動をしている人たちがいるから、わたしも今こんな意見を言えているわけなので、黙れとかやめろとか言いたいわけじゃないからこの言説をそういう風に使われたくない。
ただ、「戦い続けるしかない」っていう感覚に疲れたら、「別の船作ろうよ〜」っていうやり方もあるよ、って示せるような人間に……ゆくゆくはなりたいな、と壮大な夢を持ってる。
わたしだって社会変えたいよ、だってこの世に生きた証を少しでも多く深く刻みたいもん。
ただそのやり方は、戦う以外にもあるかなって思うだけ。
それはそれとして、戦ってきた人たちがいるから自分がこうしてるってことは間違いないから、敬意は払わなきゃだけど。
んーでも、戦い続けてほしくて戦ってた人たちもいれば、戦いを終わらせたくて戦ってきた人たちもいたんだろうなとも思う。
そんな感じかな。
……という風に、恋愛について歌うの向いてる気がするけど恋愛について歌いたくないっていう話からジェンダー・フェミニズムの議論まで持っていけるぐらい、色々語ることがある人間なので、これはやっぱり恋愛や愛や性について歌っていかないといけないし、オリジナリティのあることたくさん表現できる人間だなって自覚しました(熱い自画自賛)。
自分なりの、「男に恋することもある女でもある自分=そういう人間=現代の異性愛の女としての人間」を模索していってみようと思います。
自分の中の女性性と仲良くできなかったとき、本当にしんどかったからさ。周りがみんな敵に見えたし、恋愛なんてとてもできなかったし。
わたしだってまだまだ、葛藤したり、日々バランスを模索し続けている、その最中でしかないけど。
自分の苦しみに気づくことって、他人を敵にすることとイコールではないと思う。
もちろん、他人に思い切り怒ったり恨んだりする時間もとても大切だけどね。
でも結局他人は他人で、変わらないから。
どこかで愛ある距離を選択しないといけない。
境界線の内側には、惜しみない愛を。
外側には、爽やかな愛と冷淡さを。
神社からわざわざ出向いて神通力を及ぼすのは、祟り神だけだよ。
結局人間は、神様も、愛したい人しか愛せないから、
愛したい人を愛せばいい。