手を伸ばす、という言葉、言い回しを、わたしは歌詞の中でよく使う。
ということは多分、日常的にも、「手を伸ばす」と表現したくなるようなことをしているんだろう。
昔からずーっとわたしの世界は、わたしの中にある世界とわたしの外にある世界でできていた。いや、誰だってそうだと思うけど。
わたしはわたしの中にある世界がなかなか面白かったし、賑やかだったし、見るべきものがたくさんあったから、外の世界を見る必要性が他の人より薄かったのかもしれないって、最近思う--見ようとしなくとも入ってくるものだけでも、わたしの中の世界は潤った。それに、外の世界ばかり見ていたら、中の世界を見る時間がなくなってしまう。そこの配分が難しいなって今考えている。
だから誰かに触れようとか、何かをつかもうとか思ったら、「手を伸ばす」ことが必要なのだ。
”わたしはこれから、ふだんはあまり触れていないもの、近くにはないものに触れるのだ” という意思を持って、「手を伸ばす」ことが必要なのだ。
開いている状態がふつうで、閉じるときに閉じようという意思(スイッチの切り替え)が必要な人と、閉じている状態がふつうで、開くときに開こうという意思が必要な人がいると思う。わたしはバリバリの後者ということで、それが「手を伸ばす」に表れている気がした。
あ、しかし、「手を伸ばす」と「開くスイッチを入れる」は全く同じことではない。「手を伸ばす」は、閉じているふつうの状態から、手を伸ばした対象にだけ開くということ。
開くスイッチを入れて、何に対しても完全に開く、ということは、たぶん残念ながらわたしの身体ではできない。そんなことをしたらわたしの中の世界は圧死させられてしまう。それは、マジで、無理だ。
他人の感じられることは他人が感じればいい。わたしはわたしが感じられることを感じなければいけない、言ってみればそれが社会のためにもなるはず、と思っている。
全体から見てどうかとか、社会から見てどうかとか、他人から見てどうかとかは、他人が感じて考えて判断することなので、わたしがどうにかすることじゃない、と。
逆に、自分の内側にあると思っているものには手を伸ばさない。それは例えば、わたしにとっては真理や真実であったり、夢や憧れだったりする。
一時期、そういうものたちにも手を伸ばしたことがあったし、それだけじゃ届かなかったから、追いかけたことだってあったけれど、結局手繰り寄せることはできなかったし、自分が追いつくこともできなかったし、ただ、疲れ切った自分が残されただけだったから。
考えを変えたのだ。
もしかしたら、それは全部最初から自分の中、奥底にあって、そこを見つめて、手を伸ばすとしてもそっちに手を伸ばしたら--手を伸ばすというより、水底とか、ブラックボックスの中に手を入れるみたいな感覚--そうしたら、引き寄せることができるものなんじゃないかって。
最近はそう思って、それを実践して生きてみている。実際、そんな結果というか、現実が起きている気がする。
自分に集中していたら叶った夢はいくつもあるし、あまりぐるぐる迷うこともなくなった。
もちろん、有意義な迷いは尽きないけれど。
ほんとうは答えなんて出ているのに、自分の答えを肯定できなくてぐるぐる回ることはなくなった。
それでも、わたしの内側だけじゃなくて、外側にだって美しいもの、大切な人、気になる事物はたくさんあるから、わたしは今日も手を伸ばす。手を伸ばすという言葉を使う。
わたしの内をよりよくしていくためにも外の世界は必要だし、わたしがそうして内の世界を育てていくことは、外の世界にも好い影響をもたらすんじゃないのかなあ、なんて思いながら。
わたしを中心に、世界がちょっとでも幸せになるといいな。