リュック・フェラーリ的小説の書き方

 わたしの敬愛するリュック・フェラーリは、自身の作品について、よく「〇〇の戯れ」と言っていた。
戯れというのは、起きてくること、現象、ハーモニー、ドラマ、イメージ、そういうものを楽しむことだったと思う。偶然性を肯定的に捉えながら。

 彼の言説の中でもう一つ、特に好きなのは、世界にある様々な事物は、おのおののスケジュールでそれぞれのサイクルを反復し続けていて、そのいくつもの円環が出会ったり、離れたり、寄り添っていたり、そういう相互作用が美しい、というお話。

 彼は復調とか、セリエル(十二音技法から発達して、もう音程だけじゃなく強弱とかもパラメータ化して、例えば弱いAの音も強いAの音も別の音として等価に扱うという前提の上で、作曲家が全部コントロールして作曲する方法。これだけ言うと今の打ち込み作曲と何が違うのって感じかもしれないけど、弱いAと強いAを別の音として等価に扱う、というのがポイントで、音は12個じゃなくて無限に増やせて、何でも使えます、だからそれでしかできない音楽がいろいろあるんじゃないか、例えば、同じことが繰り返されない音楽とか、作れるんじゃね!?っていう探求だったんだよ、うまく説明できてるかわからないけど)とかの器楽曲も書いたし、あとわたしが研究するところの、録音された音から作る音楽・音響作品も作っていた。

 だから、彼はムッシュ・フィールドレコーディングだった。ハンディレコーダーを手に街を歩いて、彼はいろいろな音を聴いた。つまり、いろいろな現象、出来事、人や物や動物に出会った。
電車は決まったスケジュールを繰り返して線路を走り音を発し、鳥は毎朝鳴き、元気な声が特徴的な近所のマダムも、毎日、彼女のスケジュールで駅に向かったり、八百屋で買い物をして店主と話したり、ムッシュ・フェラーリとすれ違ったりしたんだと思う(これはわたしの想像で、彼の発言ではないけれど)。
 そういう街の音を聴いた経験が、いろいろな円環が出会い、寄り添い、別れ……それが偶然にせよ必然にせよ起きてくる、それぞれは繰り返しなのに、全体を見ると、一つとして同じことは起きない、そんな彼の美意識につながっていったらしい(これはちゃんと彼の発言である)。そういうのを意図して書かれた器楽曲もたくさんある(フィールドレコーディングから器楽曲のインスピレーションを受けるとは、さすがムッシュ)。
 これはもしかしたら、彼の世界観になっていたのかもとも思う。様々なシステムや、現象や、人生があって、それが出会ったり交流したり離れたり。そういうのがこの世界、みたいな。
 わたしはまるきりそんな考えでいる。だからムッシュ・フェラーリはそういう意味でも偉大なのだ。
 ……いや、まあ基本的に、わたしは外の世界のことは見過ぎないようにしているけど(自分の中を見つめる時間が足りなくなっちゃダメだし、外を見すぎると直感が鈍って、自分自身のことがわからなくなってしまうから)、いざ見るときはそういう見方かなって。

 それがどうして小説の書き方につながるのかというと、小説というのは人と人、人と世界を書くものだから、世界観(文字通り世界の観かたという意味)を確立しておくことがまず必要かなと思ったからだ。
 上に挙げた二つの考え方を参考にすると、だいぶそこが確立されてくるなって。
 たくさんの現象、出来事、意図、その他諸々が折り重なっているのがこの世界で、その出会いと関わりと別れの戯れを描くけど、それを実際に作品として描くのもまた、手を動かすうちに生まれてきた、いろいろな要素同士の関わりの戯れってことなんだろう。

 すべてを自分の頭でコントロールしようとせず、まず意図をもって手を下したとしても、その結果現れてくる偶然を好意的に受け止めること。
 あまり気負いすぎず、出来上がったものを受け止めていくこと。
 まずはその繰り返しで、段々と洗練されたものになってくる、そういうものなんだと思う。わたしの憧れている完成されたものも、きっとそうして作られたのだ。
 今の段階では、わたしが頭の中でこうしたいと思っているようには、手は動かないし作れない。
 それはもう仕方のないことだから、出来上がったものが自然と語ってしまっているものに、耳を傾けていこうと思う。

 だってそうしたら楽しく続けられるもの。
 それが上達や洗練の、一番の近道でしょ?

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