やりたい語り方と、語りたいことが噛み合っているのかどうか、というのを悩んできたけれども、実は無用の悩みだったのかもしれないと、最近思い始めている。

 だって、語りたい内容をどのように語るかが変われば、確かに伝わり方は変わってくるけれども、それってコントロールできることなのか。
 むしろ、そのようなやり方で語って初めて感じることから何かを発見し、それを増幅・洗練させていくやり方で作品を作っていくものなんじゃないのか。
 つまり、最初から相性の良いフィクションとファーブルがあるのではなく、そのフィクションとファーブルの出会い自体が新しいものを作り出すのだと。

 あるいは、フィクションとは視点(ポイント・オブ・ヴュー)のあり方、つまり世界観そのものなのではないかとも思えてきた。映像に例えると、カメラをどこに設置するのか、操作するのかであったり、どのようなモンタージュで場面を表現するのかということだ。
 その、カメラとモンタージュだって、全てを計算づくで始めるわけではない。試行錯誤の連続である。

 わたしはフィクション(構造)の力を、わかっているつもりで、随分過小評価していたようだ。
 語り方が違うだけ、なんてものではない。フィクションのあり方は、ファーブルの伝わり方を規定していくのである。

 わたしはコラージュのような語り方を好む。様々な場所から素材を取ってきて合わせていく語り方だ。フィールドレコーディングした音、細切れの単語、収集したエピソードなどがそれだ。それらは直線的な語りにはない、多層的で同時多発的な、多元の世界を束ねるような感覚をもたらしてくれる。それがわたし自身の世界観にも合っているからだ。世の中は原因と結果でできてはいないし、様々なことが同時に起きて混ざり合い、漂ってくる。その漂ってきたものを感知するのが、感覚や直感だったりする。

 今までは、このコラージュのような語り方が、このファーブルには合っているのか? 合ったファーブルを選ばなければ……とか、考えていたが、そうじゃない。

 わたしの世界観=コラージュというフィクションが、わたしが語りたいファーブルと出会うとき、そこにはわたし自身も作り出すまでわからない、けれどわたしが言いたいことそのものが生まれるのだ。