アングラカルチャーとわたし。

 わたしのサブカル遍歴はこの記事↑で少し書いたけど、改めて振り返ってみる。

 というのもここ今日昨日と泉和良『エレGY』を読み直していて、やっぱ最高だなコイツァ!!!という気持ちになったから。
 サブカル、アングラ、インターネッツ最高!!!!!

 女児アニメ(プリキュア・おジャ魔女・ぴちぴちピッチ)、女児向けコンテンツ(ラブベリ、可愛い塗り絵、着せ替え)
→少女漫画(セーラームーン、ミラクル☆ガールズ)
→ラノベ(キーリ〜ハルヒ〜キノ〜何でもかんでも読む〜ニッチなものしか読まない、最近は池田明季哉「オーバーライト!(電撃文庫)」が面白かったよ)
→やおい(二次創作系)
→個人ブログ(子宮系〜気に入ったブロガーさんがお勧めしているブログなど)

 で、これらは今でも全部好き。
 よく、女の子は趣味を「卒業」し、男の子はずっと好き、みたいな偏見が語られることもあるけど、少なくともわたしはそうじゃなかった。
 今だって塗り絵も着せ替えも女児向け絵本も大好き。あんびるやすこさんのお仕立て魔女シリーズとかたまらんよね!!! らくだい魔女とかも好きだったな〜。
 魔女っ子大好きです。
 魔女っ子は高確率でお姫様も兼ねているのでお姫様も大好き。

 そんな魔女っ子とお姫様の次は少年向けライトノベルにぐいんっと舵を切るわけですが。
 やっぱ「メルヘンで可愛い」が好きなら「ハードボイルドでカッコいい」も好きなわけで。

 初めて読んだラノベはなぜか小学校の図書室に置いてあった「キーリ」で(なんでこれを置いたんだ? 結構グロいし教育に悪いシーンもだいぶあっただろ、他にチョイスの仕様もあったのでは……??? まあお色気シーンはほぼないにしてもグロ)、当時のわたしには難しくて理解できない部分もあったけど、砂っぽい、煤っぽいにおいのする世界観には言いようのないロマンを感じたものだった。
 その後小4になると角川つばさ文庫にハルヒが移植されたので、大手を振ってそいつも小学校の図書室に鎮座するようになり、速攻で借りて読み、それ以降わたしはラノベジャンキーになりました。

 何に惹かれたかって、おそらく「大人の事情なんか知るか!!!!!」みたいな、コドモの本音が書いてある……つまりサブカルだったからなんですね。
 キラキラしてた。ソウルを感じた。
 そのキラキラは魔女っ子のキラキラとは性質は違うけど、根本は同じなんじゃないかな。

「つまらない現実に埋没したくない、もっと冒険したい、はっちゃけたい!!!!」

 ラノベは一応「本」だったし、小学生向けのものでは多分なかったので、ちょっと大人びた本を読んでいるということで貶められることもなく、わたしはサブカルな、冒険心に満ちた世界を楽しめましたとさ。
 中学に入るまでは。

 ここで中学以降の話をしたいけど、その前にラノベと同時並行で好きだったボカロカルチャーについて語っときたい。

 今はもうなくなってしまったけど、かつては「にこさうんど」という、ニコニコ動画の音声だけを試聴しダウンロードできるサイトがあった。
 それ以前からどうにかしてボカロ曲を(アカウントという概念がわからずニコニコ動画にアクセスできなかったので、できなくても)聴く方法をインターネットを巡って四苦八苦しながら探していたのだが、友人に教えてもらってからというもの、そこで聴き漁るようになった。

「にこさうんど」は運営者が逮捕されるようなアレに、今の時代はなってしまったが、当時はまだその辺の法整備がしっかりしておらず、グレー?だった。
 ま、そもそもわたしのしていたことは個人のボカロPが作っていた楽曲を私的にダウンロードしてiPodに入れて聴くことだけだったので問題ないだろう。

 話を戻して。
 タグ検索というシステムは神だ。
 わたしは曲を聴きあさり、好きな曲を見つけては、その曲がどうして好きなのか--使っているボカロなのか、その音域なのか(「レンの低音」が死ぬほど好きだ)、音楽のジャンルなのか、製作者の特色なのか、その曲から感じられる情感なのか(「燃える」「泣ける」「聴き入る」など)、などなどの要素を抽出し、それに関係していそうなタグをクリックしてまたどんどん曲を漁り、といったことを繰り返し、ボカロ街道を細い路地に至るまで舐めていった。
 りっぱなボカロ廃人の出来上がりである。

 ボカロ曲たちは、今までわたしが聴いたこともないような新鮮な刺激をわたしに与えてきた。
 それまでわたしは、音楽はやっぱり好きだったが、歌番組に張り付き、いいなっと思った歌手やミュージシャンのCDを、親がたまにCD・DVDのレンタルショップに連れていってくれた時に「これ借りる!」って頼むか、あるいは親に買ってもらった、イヤホン端子からなんでも録音でき、イヤホンでそれを聴けるというおもちゃで、テレビないしはCDプレイヤーのイヤホン端子にプラグをぶっ刺しそのおもちゃに接続し、直に録音してそれを聴く、みたいな具合で--つまり「J-POP」というカルチャーの外に出ることはできなかったのである。

 ところが、ボカロ曲はそうではない。
 当時の9~12歳のガキだったわたしなんかよりずっと大人の、色々な音楽経験や視聴経験をしてきた人たちが、それぞれの音楽的ルーツ--そして本人の中でそれがカオスにミクスチャーされていることすら普通にある--で作っている音楽たちは、わたしにとってオリジナリティそのものでしかなかった。
 そりゃハマる。

 当時からわたしは、「ボカロの曲じゃないやつはどっかで聴いたような感じがするんだもん」みたいなことを言っていたと思う。生意気である。
 でもそれは、子どもなりにボカロ曲のフロンティアスピリットとか、アングラスピリットとか、サブカル魂みたいなものを感じ取っていたんじゃないかと思う。

 そんな曲たちとラノベは、不登校時代のわたしの心の支えであり、居場所だった。

 小4のときこの曲↓をようつべで聴いていて、ラスサビの歌詞でパソコンの前でボロボロ泣いたのを覚えている。
(当時のわたしが開いていた動画とこれ↓はおそらく同じものだ。転載年も2009年だし。)
(ご本人がYouTubeにアップされているものも見つからなかった上、本家のニコニコの動画が埋め込めなかったので転載のものになってしまうが、ぜひニコニコで本家の再生数を伸ばしてほしい。)
本家はこちらhttps://www.nicovideo.jp/watch/sm4350922

 でも中学に上がると、ラノベは「本」とは見做されなくなり、代わりにちゃんとした本を読めという圧力をかけられるわ、ボカロは中高生のメインカルチャーになってしまってアングラさがなくなるわで、わたしの居場所ではなくなった。

 代わりにわたしが見始めたのが個人サイトである。魔法のiらんどとかフォレストページなどの無料個人サイト作成サービスのアレだ。そこでやおいカルチャーに浸るようになった。
(なお、音楽は邦楽ロックを聴くようになり始めたのだが、それは音楽遍歴の話になっていくので、また今度。)

 やおいカルチャーは、心の闇の井戸みたいなものだと思う。
 性のことや愛のこと、そしてそれと切り離せない自分の悲しみ、そういったものが、好きなカップリングに仮託して語られている--そういうやおい小説が、たくさんこの世にはある。

 だから、何食ったらこんな文章書けるんだとか、何食ったらこれをこの熱量で書けるんだとか、そういう作品にたくさん出会ってきたんだよね。

 とても、精神分析っぽいっていうか。
 そういう、人間の心の一番深くて柔らかくて弱くて暗くて、みたいな場所から湧き上がってくるのがやおいなんじゃないかって思う。

 もちろん頭空っぽにして読めるあっっっまいのとか笑えるのとかえっっっっっちいのとかも大好きです!!!!

 そしてわたしは何とか頑張って高校3年生になり、大学受験のプレッシャーと今までのやばかった精神状態の爆発でとんでもないメンタルになり(嘔吐とパニック)、なんとか落ち着いたもののもうこんな暗雲立ち込めるような生き方は嫌だ!と思い、頑張って生き方変えて楽しく進めるような方法はないかと図書館で本を読みあさり、心屋仁之助の本に出会った。

 彼は今、本名でミュージシャンとして活動しているが、もとはカウンセラーだ。
 彼の言うことはとてもシンプルで、「やりたいことやって、やりたくないことやめる」--突き詰めるとそれに尽きることを発信していた。

「こうすべき」「こうしておかなきゃ不安だ」「ちょっとでも失敗したらお先真っ暗」みたいに思っていたわたしは、ハッッッッっとして、とてもほっっっっっとした。
 高校生というのは視野が狭くなりがちだ。……というのはわたしだけだろうか。
 中学受験して中高一貫の進学校に行き、勉強しろと脅され続けた結果、そしてそれを馬鹿正直に真正面から受け取りまくった結果、わたしは「やるべきことをやんなきゃ」という頭になっていたので、生きることは努力としがみつくことだったし、楽しいわけがなかった。
 そんなわたしに、彼の本は福音だった。

 というわけで、わたしはここで精神安定剤を手にしたわけだが、本ではすぐに読み切ってしまう。
 ということで心屋さんのブログを読むことにした。
 心屋さんの言葉にほっとするのはそりゃそうなんだが、それだけじゃなく、彼はブログにコメントで寄せられた人々の悩みにパンっと明るく、ときにブラックに返答し、それをブログの記事とすることがある。それも一記事にいくつもの悩みを。
 そんな人々の悩みを見るのが、どっちかと言ったら主眼だったかもしれない。

 世の中にはたくさん悩んでいる人がいるんだ、
 それぐらい広い世界にわたしは住んでいるんだ、
 そして、どんなに悩んでいてもみんな、「それでも、大丈夫」なんだ、
 とわたしは、そんなブログを読むたびに思えたのだ。

 その後、心屋さんのご友人なので「子宮委員長はる」という名前を知り、
 わたしは生理痛がすげーーーーーーやばいことでも悩んでいたので、彼女の本を読み、ブログを読み、今や大ファンである。

 

 ……なんか、だいぶ脱線したが、一番言いたかったことはこれだ。

 アングラカルチャー、サブカル、インターネッツというのは、かつては、「誰にも言えない内緒話、だけどほんとのこと」を打ち明ける場所だったのではないかと。
 それを、冒頭で埋め込んだ先日の記事「アジールとインターネットとわたし。」では「アジール」と呼んだのかもしれない。

 その感じはまだ、個人ブログや個人サイト、やおいカルチャーなどには脈々と残っている気がするけど、
 ……どうだろう、正直ボカロやラノベにはもう無いような気もしている。いや、ボカロは人によるか。

 という話を、『エレGY』を読み、アンディーメンテに想いを馳せながら思った。
 アンディーメンテはフリーウェアゲーム中心(中心が何かを決めるのは良くないかもしれないが、フリーウェアゲーム関連の雑誌に取り上げられまくっていたことや、フリーウェアゲームの数がコンテンツとして一番多いことからそれでいいだろう)のサイトだが、ということは、フリーゲームを作る界隈にもまだ、アングラスピリットは残っていそうだ。

 ……うん、実はフリーゲーム、やるのも作るのも実況するのもすごく興味ある。

 

 アングラカルチャー、サブカルというのは、つまらない現実に埋没したくない人間には絶対に必要だ。
 いや、あるいは、つまらない現実を生き抜くために必要とも言えるのかもしれないけど。
 わたしは残念ながら、アングラカルチャーやサブカルさえあればつまらない現実も生き延びられる! ……というような人間に成長することはできなかった……
 だからなおさら必要なのだ。
 商業っぽくない、クッッッソ尖った世界が。

「アングラカルチャー」「サブカル」に「エンタメ」を足しても良いかなって一瞬迷ったけど、エンタメは産業になってしまっているから除外した。
 産業っぽくないものをわたしは求めている。

 だからわたしは、きょうび個人サイトと個人ブログとかいうオールドファッションなものを続けているのだと思う。
 でもこれが、一番人に刺さり、自分の味を醸成し、虎視眈々と人を待ち受けられるやり方だから。

「良かった頃のインターネット」を懐かしむんじゃなく、わたしは今でもやるのだ。