crescent
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 あのときニ●ニ●動画で声真似動画を投稿していたお姉さんは、今どうしてるのかなあ、って、急に思い出した。
 いつごろ見ていたのかは分かんないけど、ニ●ニ●ということはアカウントを作れるようになってからだから中学2年ぐらいかな?
 そのときもわたしは中学生活は結構楽しかったんだけどマインドがナチュラルに病んでいて(「わたしがいなかった方が両親とも楽に生きられてただろうな……不登校とかしちゃうしわたし何もできない子どもだし……せめて洗濯物たたんどこ……」とか思ってた)、2013年でしょ、震災以後トランプ以前のちょっと温かめのインターネットを心の居場所にしていた気がする。
 わたし自身は何も発信とかしてなかったし、ツイッターのツの字どころかSNSのエの字も知らなかったけど、個人サイトを回ってみたり、好きなアニメのファンアート(文字だったり動画だったり。絵はあまり見なかった。理由は特にない。単に言葉や聴覚偏重タイプなんだと思う)を見漁ってみたり、ちょっとホラーゲームやゆめにっき派生ゲームの実況を見てたり、「レムレスブルーの午前2時」というフリーゲームをプレイしてめちゃくちゃ衝撃を受けたり、といった青春時代を過ごしていた。

 アジールとアサイラム、という言葉を、最近授業中に友人の発言から知った。「アサイラム」という言葉は『薔薇のマリア』シリーズで目にしたことはあったけど(モリー・リップスはわたしの憧れる二次元キャラの一人だ)、詳しい意味を知ったのは初めてだった。
 どちらも、昔の日本で言うと縁切り寺とかのお寺のような、治外法権の場所を示す言葉だ。王朝や幕府のような、その時代の主要な権力が統治しきれなかった場所。
 でも、「アジール」は中が見通せないものであり、「アサイラム」はむしろ見通しの良さが徹底される--管理的な場所を指している(ので、『薔薇のマリア』に出てくるモリー・リップス・アサイラムはアサイラムというよりアジールだと思う。名前はアサイラムでも。)。

 つまり何が言いたいかというと、あの頃のインターネットはアジールだったんだと思う。でも、今のインターネットはアサイラムみたいだ。

 わたしが自分でドメインを買って、何かのブログサービスを利用せず、自分でこのウェブサイトをやっているのも、アサイラム化したインターネットからちゃんと引きこもるためだ。
 アジールとアサイラムという言葉も、その区別も、概念として知ったのはごく最近のことだが、インターネットがちっともカオスでも身を隠せる場所でもなくなり、はみ出し者たちの休める場所ではなくなったことを、わたしはちゃんと肌で感じていた。

 つながりたいけどつながりたくないという感覚だ。わかるかな?

 別に、どこかブログサービスやSNSを利用することが悪いというつもりはない。そんなつもりは全く無く、ただ、わたしの体感では、それではまだ「社会」に属している感じがして居心地が悪いのだ。
 われわれ若者にとって、ネットはもう一つの現実であって、身を隠す場所では全然ない。ひょっとしたら、2021年最先端の身を隠せる場所はVTuberのアバターの背後だったりするのかもしれない。

 とにかく、誰かが作ってくれたサービスを使う以上、自分が話す内容はその誰かによって監視されているし、監視されているということは見通しが良いということだし、見通しが良いということは、身を隠せている感じがしないのである。
 そこに新たな「世間」が存在しているだけで、「世間」から距離を置けた感じが全くしないのである!
 それもそのはず、人は監視されていると思うだけで、自分の中に「世間」を想定して話し始め、それによってその「世間」がその人の心の中だけじゃなくて実際の言説の中に立ち現れてしまうからだ。
 じゃあ個人サイト時代はどうだったんだ、あれはホームページ作成「サービス」じゃないか、でもちゃんと隠れ家だったじゃないか、あと昔のアメブロも隠れ家だったんじゃないか、今のアメブロはそうでもない感じがする、何が変わったんだ……みたいなことは自分でも思うんだけど、そこまではちょっと、詳しくは調べてみないとわかんないです。ごめんなさい。今度時間があったら調べてみたい。調べたら書くね!
 でもとりあえず今思うのは、個人サイトはサイト同士のつながりはあったけど、やっぱり一つ一つのサイトとして独立していたから、「世間」みたいなものを感じようがなかったんじゃないかと思う。アメブロは、ランキングシステムによって「アメブロという世間」ができていて、わたしがそこに適合すんの嫌だなって思っただけなのかもしれない。確かに、あの世界はまだ透明性がそこまでないような気がする。昔のニコニコも同じような感じだったけど、今はニコニコは「ニコニコという世間、ニコニコという空間」としての一体感ってあるんだろうか……? ここがわたしがあんまニコニコ見なくなった要因なんだけれども。難しいね。以上です。

 ちなみにここでもう少し掘って、透明性とか「世間」性、みたいにわたしが思うのは、否が応でも他人の思念が入ってくるような感覚があるかないかって話。
 それも、ジャングルを探索してたら行きあった! みたいなのじゃなくて、広告車が横切ってくるような、嫌な偶発性。
 ……シンプルに、比喩とかじゃなくて、ほんとに広告がついてるかどうかか?
 あと、どんな手順を踏めば偶発的な出会いに行き着くのか、というハードルの高低もある気がする。
 昔はインターネットはプル型の情報装置だと言われていたけど、今はおすすめとか広告とか、全然プル型じゃ無くなってきているよね。それも大いに関係している。
 自分の情報と他人の情報を仕切る間仕切りがすごく低いものは、「世間」を感じて嫌になる。でもその世間もフィルターバブルで……なんかめっちゃ不毛だな。

 検索をさせてくれ。それで偶発的な出会いに出会わしてくれよ。頼むぜインターネット。という気持ちだ。
 検索しなけりゃ情報は来ない、という場所なら、わたしは身を隠せる場所、アジールというふうに思える気がする。
 こっちだって、検索されなきゃ発見されないし、検索してくれたら堂々と貴方の前に現れることができる。

 宵部庭国は、どこの国にも属していない、つまり法律もなく冒険や旅の対象であるような「森」の向こうにある設定なので、検索でたどり着く、というイメージはぴったりだ。
 ついでだからこの「森」に何か固有名詞をつけたい。……「魔女の森」とかどうだろうか。直球で「暗い森」とか? ……もうちょっと考えよう。
 わたし及び宵部庭国はその「森」の持ち主ではないけれど、そこで取れた植物で薬や魔法の触媒や工芸品を作ったりはしている、という設定で。

 もちろん、わたしもTwitterなどSNSはやっているし、YouTubeは貴重な情報発信の場だ。それに、個人がここまで便利に情報を人に届けたり、ひいては取り引きまでしたりできるのは、どこかの会社の人たちがそんなシステムを組み上げてくれたおかげである。
 だから、システムが全部悪いとかじゃなくて、わたしが自分が快適に隠者するためのシステムを組み上げればいいというだけの話なのだ。逆に言えば、オープンソースのツールしか使っちゃダメとか、人と繋がっちゃダメなんてことはない。
 ようするに、道具やツールやアプリケーションやシステムはただそういうものなのだから、付き合い方、使いようだよね、というよくある話に落ち着くのだ。
 わたしは、自分の本拠地がこうして自分の領土にあるのが一番落ち着くので、こうしているだけ。

 ちゃんと自分の身を隠さないと、「世間」から距離をおかないと、わたしはつい人の顔色を見て、人のために言葉を書いてしまう。
 そんなの程度問題と言われるかもしれないけど、わたしはもっともっと自分のもとの言葉を取り戻したいから、そのためにはやっぱり、「世間」に合わせない、自分のリズムでの言葉を書く必要があるのだ。
 それが自分オリジナルの文化になり、自分の王国を作り出すのだと思う。

 わたしのブログはわたしの内側の世界の写し絵であって、手紙ではない。
 強いて言うなら、この世で最も遠いところにいるわたしへの手紙、しかも紙飛行機の形に折ってフルスイングでぶん投げるやつ、ではあるかもしれないけど。
 そんな意識であるからこそ、わたしはどんどん素の自分、もとの自分を、この空間に築いていける。

 そしていつか、宵部庭国は、モリー・リップス・アサイラムみたいに、わたしの知らないところで誰かのアジール になるのかもしれない。
 この庭国は現実には領土を持たないし、誰かを物質的に助けることはできないかもしれないけど、宵部庭国という文化が、誰かの心のアジールになるのかもしれない。
 だってわたしは、インターネット文化をアジール にしてきたもの。

 その系譜の中に、わたしの庭国がドーン!と位置できたら……それはすっごく素敵かも。
 わくわくするね。