きのうの断片。きのう、つまり6月18日、2020年

 公園という場所の可能性について考えるきっかけがあった。みんなの場所、災害用、環境保全……だから音楽フェス(その裏では管理費の調達やエコ運動や災害対策の啓蒙などが動いている)と相性がいいというか、音楽フェスモデルができたのかーって。
 フェスや祭りは、スポンサーがいっぱいいて、そのスポンサーたちもいろいろと出し物をするので、より盛り上がるんだなーって今更気づく。

 きのうはずっと朗読について考えていた。
 歪められた声、歪められた語りだと思う。
 そもそも文章を、小説語を読むってなんなんだ。詩でもいいけども。
 それらは話す言葉とは全然違う言葉で、つまり声を吹き込むものではないのではないか。
 話し言葉じゃないものに声を吹き込むってなんなんだ。
「朗読」の読み方が苦手だ。しかし、確かに美しい朗読というのもある。あるけども苦手だ。
「朗読の基礎」に反する、発声や読み方の癖こそ、読み手その人の声や存在感を規定しているんじゃないかと思う。そう思うと、「基礎訓練」でそれを馴らしてしまうのも、それはそれで惜しい気がするのだ。
 ちょうど、演劇やダンスの身体が、訓練された役者・ダンサーのものではない身体や動きに注目したみたいに。
 人間の声や話し方っていうのはそういうものじゃないだろ、って、朗読を聴いていると思ったりする。
 とはいえ、それが「朗読」という活動だと言われると、確かにそうかもしれないんだけど……そうじゃない朗読があってもよくない?と思う。
 歪められた声、歪められた語り、でもだからこそ興味が尽きないんだけどね。

 ホメロスの詩をいつかは読まなきゃいけないと思う。
 それと、シャルロット・デルボが非常に気になる。日本語で読めたりしないかなあ……

 音を使った手紙、というのを、エジソンはフォノグラフを発明したあたりで思いついたらしいけれど、今この言葉の響きを聞くと、逆に新しいというか神秘的に感じる。ロマンだ。

「音を作り出す」発明は、最初は発声器官の模倣によって作り出そうとされていた。でもエジソンは、それを耳の模倣(鼓膜によって空気の振動=音を感知し、それを再生できるようにする)で解決した。これが画期的だったんだって。

 生き生きした登場人物とどんでん返し、これはやっぱり面白さの鉄板だよね。とある論文にもそういう実験結果が出たって書いてあった。なるほどなー。