【新章】原点回帰。背伸びしていたかかとを降ろして

 またまた新章です。今年のわたしには2ヶ月ごとに新章が訪れる。
 でもそれぐらい思っていることも変わるし、ただ変わるんじゃなくて脱皮をしている、そんな進化の早いわたしがわたしは気に入っているし、何より本来の自分みたいに思えるから、うれしい。

 ずっと背伸びをしていたことに気がつきました。
 特に創作において。

 わたしの創作活動の原点は、……「原点」なんていうほど大したものではなく、
 子どもの頃に架空のお話や架空のアニメ・ゲームを想像するのが死ぬほど好きだったのが始まりです。
 セーラームーン、プリキュア、ポケモン……
 漫画とかアニメとかゲームだけじゃなくて、メディアミックスで生活全部を包み込んでくれる「世界観」「カルチャー」としての「おはなし(?)」が本当に好きで、自分でも落書き帳にいっぱい絵や言葉を書いて、そういうものを作っていました。
 大人の言葉で言うと「キャラクターもの」ってことになるんだろうけど、キャラクターがいる、話しかけてくれる、ということってよりは、
 そのキャラクターが描いてあることによって自分もセーラームーンやプリキュアやポケモンの世界の中に入れたような気持ちになれることが嬉しかったんです。自分もセーラー戦士やプリキュアやポケモントレーナーになれたように思えたの。それがすごく楽しかった。

 わたしは今も、「聴いてる人が、この曲の世界を自分で想像して主人公になれるようなもの」っていうのを意識して曲や音作品を作っているんですけど、この感覚の原点も子どもの頃のそうしたワクワクなんです。

 だけど大人になるにつれて、そんな純粋なワクワクのままにつくるのではなくて、
「こういう風に思われたい」「こういうことを扱わなければ」「こうでなくちゃいけない」というプライドや頭で取り入れたものをたくさんくっつけようとしてしまって、だから創作が辛くなっている自分に気がつきました。

 わたしはどうして創作をしたかったのか。
 それは、すごいと言われるためではなくて、ただ頭の中に世界が膨らむのが大好きだっただけなんです。

 そして、その気持ちのままに、創作……といっていいのか、子どもの空想を楽しみまくっていたら、
 小学3年生くらいで「自分の空想ってだけにしておくのは嫌だなあ、”作品”にしないと、もう気が済まないなぁ」って、自然になっていったんです。

 それがわたしの、すべてのはじまり。

 そういえば、「空想で終わるのはなんかもう嫌、作品として完成させたい」って思うようになったタイミングでホームページを作ろうとしたりもしてたなあ笑。
 結局挫折しましたが。
 あれを今、やり直せばいいんだって思います。

 ……ってかそうじゃん、あの時(8歳か9歳)は父の助けを借りても最序盤でやめてしまったホームページ制作を、
 19歳のわたしは一人で全部やってのけたんだ。
 人の成長ってすごい。(技術の進歩も物凄いけど)

 だからね、大人ぶっていたことに気が付いたし、それが創作を楽しむことを邪魔していたことも分かったけど、
 でも、大人ぶってみて本当によかったって思うんです。

 だってそのおかげで、たくさんのことを知ることができた。
 引き出しが多いらしいです、わたし。この間友達にそう言ってもらえてとても嬉しかったんだけど。
 昔より色んなことが見えるようになったし、それは成長していけば誰もが見えるようなものだけじゃなくて、「自分の創作をよりよくしたい」っていうのを中心においたからこそ見えたものもたくさんあると思う。

 そう、大人ぶってきたのも、それだけ「”いいもの”を作りたい」「自分の作品をよくしたい」っていうやる気の現れでしかなくて。
 だから、すごく偉かったなって、自分のこと思いっきりなでなでしてぎゅーってして褒めてあげたい。

 そんな背伸びの果てに、藝大音環に入りました。
 ただ創作をしたくて、創作のタネになりそうなものを吸収しまくりたかっただけ。

 つまりね、大人ぶることの弊害は、自主規制をしてしまうことなんだ。
「そんなことも知らないの?」みたいな、その場の常識を知らなくて引かれる(そして怒られる)、みたいなのが一番怖くて、そうならないように先回りしてしまう。

 だけど本当は、何のために先生がいるのって話でさ。
 そういう”常識”(そんなものが存在するのなら。まあ、常識とまではいかなくても、なんとなく「許される/ちょっとどうだろう」のラインみたいなのはふんわり界隈に共有されてるんじゃないか、それは100%その先生の主観ばっかりとは言えない、参考にしがいはあるものなんじゃないか。もちろん、そんな意見を聞いた上で参考にしたくなければしなくても良い、とわたしは思う)と、自分の好き勝手のすり合わせをするために、先生の意見を聞くんじゃんね。
 怖がっちゃだめだよな。

 子どもみたいかもって思っても、思い切って出さなきゃしょうがないし(だって先生に見せる=公に発表するってことじゃなくて、公に見せられる形にするのを手伝ってもらうために先生に見せるのにさぁ)、
 そもそも「こんな自分の考えややりたいことって子どもみたいかも」って思ってるのは自分だけだったり、言い方を大人の言い方で言えばいいだけだったりするもんね。

「どうやったら、大人に大人と認められるんだろう」っていうのを、ずっと追いかけてきた自分に気がつきました。

 これは根底にすごくある。
 お金稼ぎたいのもそれだもん。経済的に自立すれば大人になれるって。まぁ一理はある考えじゃないでしょうか。

 それはきっと、自分が子どもだから、どんなことに気付いても、それが重大なことでも、「世の中そういうもんだ」っていう大人の言葉で潰されてきたことが多くって、
 どうしても、どうしても、聞いて欲しかったんだ。

 自分の世界が膨らむのが楽しい。だから創作が大好き!
 と、
 わたしの話を真面目に聞いてよ。

 この2つが混ざり合って、わたしの創作歴は作り出されてきたんだ。

 

 わたしはずっと、大人として認められたい自分として自分を見てきて、だから過去の自分を責めてばかりいました。
 自分を大事にしていいんだって気がついた18歳のときから、生まれ変わったような気がしていて、どうしてもっと早くこうなれなかったんだろうって。
 新しいことに気づくたび、どうしてもっと早く気づけなかったんだろうって思ったり、
 過去の自分が選択を間違っていたと思っていたり。
 すこし大人になった自分にはできるのに、どうして過去の自分にはできなかったんだろうって。そんなの当たり前なのはわかってるんだけど、もっと早く分かることができていれば、って、悔やむことをやめられなくて。

 だけど違うんだ、

 今のわたしは、過去のわたしの願いを、過去のわたしがすごくワクワクするような形で叶えてしまうことができるの。
 そして叶えられる願いも、叶えられる形も、わたしがまた成長していくたびに、もっともっとすごい規模になっていく。

 そう思ったらさあ。
 過去は、無駄にした時間でも何でもなくて、無為に苦しんだ時間でもなくて、有為に苦しんだ時間でもなくて、
 わたしの使命で、クライアントで、動機で、かみさまなんだ。

 

 わたしは自分のこと、すごく何もできないなって思ってた。
 でも、子どもの頃の原点から考えてみて。

 わたしは自分の歌で感情を表現できるようになった。
 自分の歌に自分で伴奏を与えることができるようになった。
 小説はなかなか完成させられないけど、音作品で「物を語る」ことについては結構研究して、幅を広げた。
 自分のつくったもの、思っていることを発信できる場所もたくさんあるし、その練習も積んだ。
 自分が作りたいものを作るために必要なものを、自分で調べて掴めるようになった。

 子どもの頃にやりたかったことを、わたしは既に、だいぶできるようになっている。
 なっていたんだ。
 そんな風になれるなんて、思ってもみなかったことを。

 わたしは自分の成し遂げたことをすごいって思えない目になっていたけれど、やっとその魔法は解けたかもしれない。
 原点がわかったから。

 わたしって、実はかなりすごかったのか。

 

 集中してゾーンに入って夢中になってワクワクしてたまらない時間こそが重要だというなら、
 それを何時より誰より体現できていたのは、3~9歳ぐらいまでの、創作(?)やってるときのわたしだ。
 あの時こそわたしの模範だ、
 童心を思い出さないと。

 設計図を書いて、お父さんに実際に動いてもらって、段ボールで「パソコン」を作ったり、(当時はまだパソコンと言えば箱型だった。ディスプレイ部分の箱は上部に切り込みが入っていて、そこに自分の描いた絵を入れて「画面」にすることができる。当然絵は切り込みから入れ替えられるから、画面を切り替えられるという画期的な仕組み。)紙の工作とかアイロンビーズとかで、
 自分の「作品世界」に登場するガジェットを実際作ってしまうやつを、色々やったのも覚えている。
 当時は別に本当に作れなくてもいい、設計図を書いただけで満足って思っていたけど、なんかお父さんに話したら本当に作ろうって感じで動いてくれて、できちゃったんだよな。

 それだって、今は大人の工作にできるわけでしょ。
 時間や労力やお金はかかるけど、逆に言うとそれらをかければ、何だってできちゃうわけじゃん。
 最高じゃん。

 

 大人のわたしは、知識をもっている。
 だから、わたしの子ども心が「やりたい!」って言ったことを、どうやったら実現できるのか、そのための提案はめちゃくちゃできる。
 わたしは調べ物も勉強も得意だ。「やりたい!」のためなら、どんな難しいことでも分かってみせる。(実際昨日、子どもの頃に思い描いていたSFの世界で起きる冒険物語を形にするために、電磁波について学び始めた。専門用語がわからないので芋づる式に色々調べてたら、微分とは何かが少しわかりそうだった。数学嫌い克服できそう。「理系」なことなんてわたしには無理、理解できるわけない、って思ってたけど、時間かけて頑張ればいけそうだし、ふつーに面白い。SFなら適当なところはごまかしてもいいわけだし笑)
 子どものわたしが、知識や能力や技術を身につけただけだ。

 成長するってそういうことだったかぁ。
 確かに、色んなことができるようになりたかった頃(それは過去から今のすべての時間に設定できる)を基準に置けば、「できた!」「できるようになった!」を喜べるのか。

 わたしは何かができるようになったことなんてないと思ってたけど、そんなわけあるか。
 わたしは日々、何かをできるようになったり、知らなかったことを知ったりしているのに。
「大人になりたい、大人になるには何が足りないんだろう」という気持ちで、減点法で考えていたんだな。
 昨日より今日、今日より明日、成長している、っていう世界観がわたしの中にはなかったけど、きっとだから「今はうまくいかなくても練習していればきっと」って思えなくて練習が続かないってものも多かったけど、そんなことはなかった。
 自分の歩みの全てを、わたしはやっと、信頼できる気がする。

 
 創作が純粋に大好きだった自分。
 あの頃の自分の声に従えばいいんだ。

 あの頃の自分はちっとも過去じゃなくて、わたしの核として、ずっと生きている。おそらく一生生き続ける。
 過去の自分と今の自分って、別人のように言う言説も多い気がするけど(過去の自分を癒してあげる、とか)、わたしにとっては同一人物だ。わたしの中にいるものだ。過去の中に存在するものではなく。

 成長したわたし。(思春期〜青年期、頭)
 全盛期だった、そしていつでも共にいてくれていた、やっと気づけた土台のわたし。(幼少期、創造性・感受性・豊かな感情)
 苦しんだけど、深みも増したし強くもなれたわたし。(思春期、繊細さと警戒心)
 一つ一つ火を灯す。

 わたしは、自分の細胞全てを、つまり人生全てを、そろそろ肯定できる。
(細胞は日々入れ替わってるけど、記憶は受け継いでいると思っていて、自分の身体とチャクラは自分の人生と対応してると思ってる)

 

 これからは、未完成でも、子どもっぽくても、大したことなくても、全部出していくよ。

 だって子どもの頃のわたしは、何でも「みてみて!」ってやりたかったんだから。