ニューアルバム「神話的存在」、お待たせしました!
 8月30日発送開始予定です!!!
 今超準備してます!!!
 商品ページはこちら→https://shobuwi.booth.pm/items/3090082

 自分の出すアルバムに思い入れがないミュージシャンなんていないと思うけど、「神話的存在」も、わたしにとって、とても思い入れのあるアルバムになりそうです。

 誰かのために、あなたのために歌う、っていうフレーズ、わたしはすごい嫌いなんですけど(笑)、まあでも、やっぱりわたしにもそういう存在は、まあ、いるんですよ。

 あなたじゃないですけどね!
 わたしの曲にはしばしば一方的な思慕(相手は二次元だったり三次元だったりする)が含まれていたりもしますがそれだけですからっっっっ

 ターゲットはいつだって、わたしが、歌う時に入る、自分のゾーンの中にいる「あの人」なんですよ。
 その状態の時のわたしは「わたし」ですらないかもしれない。

 イメージとしてはイタコです。
 わたしは歌の世界では別の人間になっている。
 もちろん、歌の世界のときのわたしの設定が、このわたしってこともあるんですけど、それでも「こんな気持ちで歌うわたし」っていう設定はしているので、同じようで同じじゃないような……そんな感覚です。

 なんで「あなたのために歌う」が嫌いなのか?
 それはね、現実の人間関係が面倒くさかったりつまんなかったりするから歌の世界や作品の世界に逃げているのに、そして作品の世界なら祈りとかおまじないとかしても成立するじゃないですか、現実世界じゃそういう神秘的なものって伝わらないことも、伝えようとするとなんか違うなって時もあるでしょ。だから歌という形で言祝いでいるのに、「あなた」っていうと急に現実に戻ってくる感じがしないですか? わたしはします。だから嫌なんですね。
 わたしは、自分が聴き手になるとき、アーティストとは、音楽の世界を共有することでコミュニケーションしたいのであって、アーティストから直接歌を受け取りたいわけじゃないんですよ。だからわたしも自分が歌う側に立つときは、音楽の世界を見せることで聴き手とコミュニケーションしたいと思ってます。
 直接来られると「えぇ……」ってなっちゃうんですよ。
 だから、わたしが自分の頭に描いている世界に入って発した音を出せば、聴いてくれてる人たちもその音がどこからくるのか……つまり、わたしの頭の中の世界が「見える」でしょ。それで、一緒にその世界に入って楽しんだり安心したりしよーよ、というスタンスなわけです。

 だから歌っている相手は、わたしの頭の中にある、特定の誰かですらない、ほわっとした存在(特定の思慕の相手であっても、それだってわたしの頭の中に存在する「その人像」なわけですからね)。
 つまり、「神話的存在」なんです。

 そんな存在を見せられるような曲たちを詰め込んだ作品になる予定です!!!

 

 ……さて、タイトルの話です。
「作品について作者が語ってはいけないという呪縛」について。

 わたしはこの呪縛を、勝手に、なのかもしれませんが、長いこと感じてきました。

 わたしが歌を作り始めたのは小学1年生の時。「シンガーソングライターになりたい!」という夢を抱いたのもその頃なので、これはもう「シンガーソングライターになりたい!」「ミュージシャンになりたい!」という夢を抱えて育っていくうちに自然と身についてしまった観念なのですが。

 作品は聴く人のものだから、作り手の思いを語るのは程々にしないといけない。
 そんな気持ちがありました。

 うん、確かにそりゃそうだ。

 ……そりゃそうなんだけど、「作品は聴く人のもの」ということと、「作り手の思いを語るのは程々にしないといけない」って、実はこの2つ、そんなに関係なくないか???? と、思い始めています。

 だって、わたしは、作り手が程々にしか語っていなくて、でもすっっっごく個人的に大好きな作品って人生の中にいっぱいありますが、
 もしその作品たちの作り手たちが、自分の作ったものについて熱くめちゃくちゃ語っていたら、絶対知りたいと思うんですよ。

 それで、自分のその作品に対する独自の解釈を捨ててしまったりもしない。
「作者はこう思ってこういう背景で作ったのか、なるほど!」というのも、感想のための一材料になることはあるかもしれませんが、だからって、そっちが「正解」なんて思わないです。
 自分の感想も自分の感想で大事にします。

 あるいはもしかすると、これはアカデミックな世界では重要なことですが、「個人的・私的すぎてはいけない」という規則もあるのかもしれません。
 確かにそれはその通りで、「アカデミックに」芸術表現をするのであれば、個人的なストーリーを語るのは、少し脇道にそれているのでしょう。一定の普遍性を担保してから、語るにしても語る、とかが必要になってきます。
「アカデミック」というのは、人類全体のために行う探究のことなので、当然といえば当然です。「人類全体のための探究」にどう寄与するのかが重要であって、そこに寄与するために個人的な背景を語ることが必要ならまぁ仕方ない、みたいな感じだと思うし、それでいい、それが良いのだと思います。
 そしてわたしは、今藝大に通っているので、「アカデミックに」芸術表現を学んでいる学生でもあります。だからなおのこと、作品について、作者として、どれぐらい語るのか、どれぐらい鑑賞者に任せるのか、どれぐらい作者が補助線を引くべきなのか……なども、4年間考えてきました。

 が!!!!!
「が」!!!!!!!

「宵部憂」は、別にアカデミックではありませんので!!!!!

 自分の個人的なストーリーや思い入れを、じゃんじゃか話していくことにしますよ!!!!!!
 リミッター解除!!!!!!!!!!!!!!!!!
 コアエネルギーオールグリーン!!!!!!!!!!!!!!

 実は、これまでも卒制に悩んでいたのは、近い部分のことを悩んでいたのです。

 個人的な思い入れとか、霊感とか、そういうものを廃した作品は、やっぱ、「面白くない」とわたしは思うんですよ。
 感動もしない、はっともさせられない、ような気がする。
 人間の五感、いや、第六感もかな、を、くるんでしまうような作品は、やっぱり何かの獣性や霊性から生まれていると思うんです。

 とはいえ、アカデミックな研究に寄与したい気持ちも、全然ないわけではないし、だから大学で学ぶのが楽しかったわけで。
 だから学んだことを使って作品を作りたいけど。でも。

 卒制を作るだけじゃなくて論文も書かないといけないんですが、論文に「宵部憂」的なこと、つまり個人的な思い入れや霊感は書かない、でも、滲み出ちゃうんじゃないかとか。

 どうしたら、ちゃんとアカデミックとも言えて、でも「自分」を出したものが作れるんだろ、って。

 今はとりあえず卒制(オーディオドラマ+αになる予定です)の台本もかけて、友人の協力のもと録音まで漕ぎ着けているので、だいぶ! 方向性が見えてきて、今はあまり悩んでいないのですが。

 だから今はなかなか色々順調です。

 つまり何が言いたかったかというと、「宵部憂」は、変に ” 公式 ” ぶらず、個人的な思い入れもじゃんじゃん喋っていくぞーー!!! ってことです。

 そして卒制も、卒業が決まって大学の卒業制作発表会に出せるとなったら、「宵部憂」としても宣伝しちゃうと思います。
 論文や卒制としては出さない、個人的な思い入れや霊感の部分を、「宵部憂」としては、ブログや声やで喋っちゃうかも!

 アカデミックさとの付き合い方も、「自分の作品については程々に喋らなきゃ」っていうブロックの突破方法も、両方獲得しました。やったね。さらにわたしはつよくなったぞ。

 というわけで、これから「神話的存在」の宣伝広告告知も多くなっていくと思いますが、おもしろい記事書くので今後ともよろしくお願いします。

 あと、「神話的存在」発売日(発送予定日)の8月30日はわたしの誕生日です! 22歳になります!
 祝ってください。

 よろしくお願いします!!!