今日はわたしの懺悔を聞いてほしい。
めちゃくちゃみっともないことした話。
卒業制作のことだ。
わたしは卒業制作で、すごいと思われたいあまり、作品を骨抜きにした。
つまり、一番言いたいことはあったにもかかわらず、発表段階で日和って、その部分を無くして作ってしまったのだ。
わたしは自分の直感を信じると言いながらも、それを出すのが怖かった。
だから、頭でっかちになっていった。
すべてプライドと恐怖心からの行動である。
コケるのが怖くて、自分の感じたことを伝えることをせず、
すごそうなことをやろうとした。
結果として、何が言いたいのかわからないものを作ってしまった。
本当は、わたしが直感で感知したものを磨いていけば、きっともっと輝くものになっていたはずなのに。
はじめての卒業制作で緊張していたというのはある。
でも、人に見せるための勇気や覚悟が足りなかったのは間違いない。
わたしは正解を探してしまった。
正解さえも自分で決めるのが、責任を取るということなのに。
わたしはすっかり腑抜けていた。
「誰になんと言われようと」という、傲慢すれすれの、けれども何かを世に送り出すものとして絶対に必要な矜恃を、どこかに置き忘れてしまっていた。
ある意味、青臭い若さが抜けて大人びて、新しく自分の軸を持つまでの脱皮の時期だったのかもしれない。
難しい。
自分の責任で貫くことと人の意見を聞き入れることの境というのは、一筋縄ではいかない。
それこそ正解の無いことなんだろう。
話を元に戻そう。
わたしは、「荒削りだが言いたいことがあるもの」と、「言いたいことはわからないがまとまっているもの」であれば、前者が好きだ。
これには賛否あるとは思う。まとまっていること、洗練されていることは大切だ。
だけどやっぱり、その根本を貫くものがなければ意味がないのだ。
根本的に言ってることが何にも重みがない美辞麗句みたいなものだ。
だけどわたしが作ってしまったのはまさにそれなのだ。
わたしは、「良いものを持っているのに勿体ない」と言われることもよくあったけれど、
わたしが卒業制作でやったことは、まさにその勿体ない所業なのだ。
「良いものを持っているのに勿体ない」人間が、その「良いもの」すら日和って封印してしまったら、何も残らない。
それがとても悔しくて、情けなくて、後悔している。
卒展に向かってリファインするのだって、その後悔と向き合わなければならなくて辛いくらいだ。
でも、日和ったままで終わりたくない。
歩みはのろくても、絶対にやり遂げてみせる。
だけど自分のみっともなさを今ここでゲロらせてほしい。
わたしはやたらにプライドが高く、真面目といえば聞こえはいいが肝心なところで自信も自己責任もふにゃふにゃになる情けない人間だ。
恐怖と恥と優越感と劣等感でひたすらテンパる、そんな人間だ。
自分自身なんでこんなに怖いとか思うんだろうって嫌になる。そんなの感じたくない。
それなのに必死に防御してしまう。防御しようとするあまり動いた結果に後悔する。
後悔と向き合う。
意味はあったと思いたいから、動こうとする。
でもそれだって、結局後悔から逃れようとする、つまり防御で動くってことで、何もプラスじゃない。
みっともない自分、弱い自分、ダメな自分、できない自分でいるのが怖い。
怖いけど、怖いなら、目を瞑って突っ込まないと、いつまでもそのままだ。
その精神で、なりふり構わず、わたしはわたしのやりたいことをしてみようと思う。
卒展まであと少し。