きょうの断片。6月10日、2020年

 ニュータウンには歴史がない?
 わたしはニュータウン育ちなので、色々考えた。その中で宮崎駿氏の「耳をすませば」ってすごく画期的っていうか、大きな役割を担ったのでは。

 ポピュリズムってネオリベっぽさを感じる。何もかもがブランディングのためのセールスピッチになっていく感じ……
 わたしはビジネス的な考え方自体には否定的ではなくて、美学とか理念とかとうまく噛み合ってればとてもいい効果を発揮できそうって思ってるんだけど、だから肝心なのは美学とか理念とかが口だけじゃないかってことで、ごにょごにょ……

 フロイト→ラカンの精神分析の話を聞くと、面白いんだけど、やっぱり自分は無意識というものに実感が持てないところはある。
 無意識は、ショックすぎて忘れている(忘却)と、そんなのダメだと思っている(抑圧)で、ざっくり言うとこの二つでできている気がするけど、わたし自身はその二つを回復して「無意識」から引き出すことができちゃったパターンなんだろうなって。だから実感が持てないのは無理もない。
 自分で自分を楽にしようとその辺はめっちゃがんばったからな。セルフセラピーしてたから。

 今はなんか、SFのイメージすら古ぼけた感じになったなあって。
 これから「新しいSF」ってでてきたりするのかなあ……

 Flying Lizardsに興味を持ち始めた。あとArt of Noiseを改めてもっと聴いてみようかなと思った。

 昔のテクノポップ、プラスチックやポリプロピレンというワードがキーワードになっていたのかなって思う機会があって、それってPerfumeもそうだった時期あるよなって思い出した。

 バッハのポリフォニー、死ぬほどおしゃべりでしかも話す内容が一言一言面白い人の話を聞いている気持ちになる。待って、今言ってたこと面白かったからちょっと味わう時間ちょうだいよ待って待って、みたいな。

 何かの素材をループして作る音楽とトートロジーには親和性があるから、そういう歌詞って面白いかもと思った。トートロジーな歌詞。あるいはエコーチェンバー現象な歌詞。

きょうの断片。6月9日、2020年

 女性が「やおい(二次創作BL)」を書くことについて、その向こうの心理や社会学について研究してみたいかもしれない、と思った。文学にはどんな哲学があるんだろうか。エクリチュール--書かれたもの--だけでなく、その文章を書くという行為に関する研究や分析の方法論はあるのだろうか。調べてみたい。

 その不便さやコミュニティ的な特徴から、社会運動とも相性が良さそうなZINEというメディアが、最近とても気になる。作ってみたいし配布してみたいけれど、あいにく配布の仕方がわからない……
 このサイトで連載している「学校がしんどい君へ。」の原稿が溜まったらZINEにしてみたい、なんて思いつきはあるが、やはり問題は配布方法だ。
 維持費以外の価格をつけずに通販(郵送)という形でいいんだろうか。

 他者の痛みを感じ取る時、やっぱり身体(性)が重要である、というような言説にも触れた。
 でも、その身体も、現代ではかなりサイボーグ化してきている。
 前に、声もまた人体の延長としての「道具」であり、本質的にサイボーグ的である・サイボーグ化する性質を持った人間が、初めて自分の身体で取り扱う延長装置=サイボーグ的身体の一部だという話を聞いたことがある。
 わたしは大学では、録音された音や声を使って作品を作ろうとしているので、「サイボーグ」は声に関するキーワードとして覚えておきたい。

 また、「見る」ことと「消費する」ことの密接な関係について、同じゼミの人たちの発表を聞いて考えた。
 では、「聞く」ことは、「消費する」ことへの対抗手段にはなるんだろうか。ならないんだろうか。なるとしたら、ならないとしたら、それはどのようにだろうか。

「初音ミク」は史上初の「(少女型)アンドロイドの声」だったので、人形愛のような欲望を人々に抱かせた、という文章を読んだ。
 人間に近づこうとする、けれど人間ではない存在への愛情。
 それが「声」という領域に現れたことは、とてつもなく画期的だったのだなと理解した。

 SNSでの情報発信(とくにタイムラインがあり、フロー型のもの)は、一時的な話題性や拡散には繋がりやすいが、それがその発信者や扱っている問題への長期的な支持につながりやすいとは言えない。
 とすると、やっぱりその人固有のページ(ポートフォリオorギャラリーになってくれるページやブログなど)やその問題専門サイトが必要になってくるんだろうなとふわっと思った。

 あと、「見てほしいという感情」「見られるという快楽」の話もゼミで出たけど、
 わたしは見てほしいわけじゃなくて、わたしがここにいることを知って、共感したら愛してほしい、つまり友が欲しいのだな、と再確認した。

 そう、友が欲しい。
 迷走することもあったけど、根本はそれだった。
 どうやったら友は増やせるんだろう。
「見せる」ことも、友を増やすためには必要だけど、たくさん見せる必要はないしそれでしんどくなるのも違うし、何より「見せる」ことだけじゃ不十分だ。それ以外にも重要なファクターは色々あるはず。
 とりあえず、今プロジェクト〈天蓋〉というものをやっているので、それが第一歩になったらいいな。

学校がしんどい君へ。5〜続 高速・低速モード

「低速モードの時は何もできない」っていうのも全然間違ってない。これが大前提だと思う。

 ただ、「好きなことしかできない」とか「好きなものしか食べられない」っていうのもあってる気がする。
 好きなことっていうか、よっぽど気が向いたこと、それをすることで今安心できるなあとか、やる気が湧かない中でもこれだけは楽しいかも、みたいなことしかできないんだ。

 それは多くの場合建設的じゃない。
 そもそも低速モードのわたしは、建設的なことをしようとか頑張ろうみたいな傾向の動きが大嫌いだ。体調悪くてそれどころじゃないんですけどってなる。
「体調悪くてもこれだったらまあできる」の中で、「じゃあこれやるか」ってなるものをやって、それも飽きることがほとんどだけど、何かにハマることもある。つい一昨日ぐらいまではひたすら色んな人の「Detroit: Become Human」の実況見比べるのにハマってた。

 建設的じゃないって言っても、ハマったことからは何だかんだ色んなものを得たと思う。(あとでメモっとこ。レポートみたいになるかも)
 体調が悪くなきゃ、あれだけ時間のかかる動画を視聴することもなかったと思うし。
 低速モードは充電モードだし、高速モードの時にはやらないことができる機会だということにしよう。っていうかその通りだしね。
 自分の幅が広がる機会だ。

 世の中的には、いつでも建設的に、いつでも頑張って--つまりいつも高速モードでいるのがいい感じがして、そこがやっぱり嫌だし不安になるんだけど……無茶言うなって感じだしな。

 これからやってくる梅雨で、低速モード中の生き方を模索してみるつもり。
 少なくとも高速モードと同じパフォーマンスを出せるわけがないし、出そうとしたら自分で自分を追い込んでしまうからダメだし。あまり無理もしたくないし。

 ってか正直言うと、働くってなった時にどうなるかが心配なんだよね。温かい曇りの日はいつも具合が悪いんですけどって話だからさ。
 まあ今から心配してもしょうがないんだけど。
 将来のことは何もわからないもの。

 とりあえず、今はなんだかんだ生きてるし、そういう体調不良の時に心置きなく体調不良ができてるから、良いぞ~って感じ。
 そう、そういう、他の人にはわかりにくい体調不良に陥ってる時に一番怖いのは他人の目だからね。

 身体感覚って人それぞれだから、感覚過敏でもない人からしたら、わたしの頭痛ですらない気象病って意味がわからないと思うの。
(だからって「分かってくれよ」と言うのを諦めるのはよくない、それは自分を大切にしてないんじゃない? って、最近学んだんだけど)

 それでもね。
 意味がわからないかもしれないけど、わたしの不調は確かに存在するんだよね。
 だけどそれを認めてもらえなかったら……高校の時そうだったし、それでむちゃくちゃ病んだし……みたいな不安がさ。

 それでも生きていく方法として、自分の音楽活動や諸々の活動を頑張って、ゆくゆくはそれで生活したいと思ってたりもするけど、それだって低速モードの時は「頑張れない」わけだからさ。
 好きなことだって頑張ることはできなくなる(単にやることはできても)のが低速モードだから、余計に焦る。

 だけど低速モードになることは避けられないし、低速モードの時に頑張っても、ぶっちゃけあんまり意味はないし、最悪、活動自体に嫌気が差してしまうかもしれないわけで。それは絶対避けたい。

 人に理解され難い、しかも現代社会じゃ問題視されやすい低速モードがある身として、どうやって生きて行ったらいいんだろ、みたいなことは、わたしだって模索中なんだ。

 だから、わたしの「大丈夫だよ!」はあんまり当てにならないかも知れないけど……

 でもとりあえず、ここにも一人そういう人がいるよ、健康優良社会不適合者がいるよ、ってことだけは覚えて帰ってください。

 そうそう、「健康優良社会不適合者」っていう名乗り方はね。

 わたしがそうして気象で具合が悪くなるのも、身体の感覚が過敏で、自然の、自分の周囲の状況をビンビンに感じるセンサーがあるからってことで、つまり、物凄く健康的な不調なんだよ、って自分で思ってるからなんだ。

 便宜上「気圧病」とかって言ってるけど、全然病気じゃないし、対症療法はめっちゃ欲しいけど、「治療して」「自分のこの身体から消す」ことはしたくないし、それは自分の身体を否定することだと感じる。

「この社会で生きていくには治療しなければならない」っていうのは、「わたしがわたしのままで生きていってはいけない」ことだと感じる。

 だから治したくないんだ。

 まあそもそも治しようがないんだけど。

 そんなわけで、不安ではあるけど、この身体と生きていきたいと思う。
 これからどうなるんだろうね。

きょうの断片。6月8日、2020年

 授業で雅楽を聴いていて、雅楽は、宗教音楽は、神様がいる空間のための環境音楽なのでは? という発想が浮かんだ。演奏するか祈るか、どんな形にせよ、その場にいる人々は音楽を奏でたり聴いたりすることを通じて神と交流していたんだなと。
 音楽の起源が宗教に密接に関わっているのなら、この音楽との関わり方は、今でも受け継がれている本質的なものなんじゃないのかな? とか。

 詩のフィールドレコーディング、というか、どこで朗読されるか、詩の朗読の後ろに聞こえるノイズや環境音も込みで、「その場で朗読され、録音されるための詩」っていうのは面白いんじゃないかと思ってる。

 一方で、朗読って面白くて。
 わたしは、実は言葉って副次的な物なのかなとも思っている。言葉自体も大事ではあるんだけど、それをどんな表情で、文脈で、誰が言うのかによって意味やニュアンスなんてまったく変わるもの。
 それなのに朗読は、言葉が伝わるように読む。
 そもそも会話とは違うから。言葉が聞きやすいように読む。
 言葉のニュアンスを聞き手に委ねるため、っていうのも大きいと思う。
 他の何とも違う、声を使った言語活動の一つだなと思う。

 あと、絵を描いてみたいなって思うようになってきた。
 絵を描くというか、色を作って塗るっていう身体の動きがとても好きで、それをまたやりたいなあって。
 色彩構成や、四角い画面をどう構成するかも、今までは全然勝手がわからなくて、何がわからないのかすらもわからない領域だったけど、踏み入れてみたら面白いのかもって。
 授業と、SNSでたまたま見かけた、一つの企画に対して複数のデザイン案が紹介される本の情報のおかげだな。

学校がしんどい君へ。4 〜気圧病と高速・低速モード〜

 宵部帝国では、1010hPa以下の気圧を法律で禁じている。

 というのはもちろん冗談だけど(笑)、気圧や湿度がそのまんま身体に影響してしまってまともに動けなくなるのです。
 わたしはここ数日、自堕落な(と自分でつい思ってしまう)(自分を責めるのも焦るのもやめたいね)生活しかできませんでした。
 しんどい、ひたすらにしんどかったです。

 気圧からくる頭痛なら頭痛薬でなんとかなるけど(効かない時もあるけど……)、低気圧の不調って、必ずしも痛みって形で出てくるとは限らないんだよね。
 身体の重さ(押さえつけられて重力が3倍になった感じ)、吐き気、身体が内側から押されてる感じや血行不良による気持ち悪さとかは、ギリギリ痛みにはなってないけどともすれば痛みそうな苦しさとずっと隣り合わせで、それは防ぐ方法がなかったりとか(酔い止めが効くって聞いたことあるから試してみようかな)。
 あと、毎日のように天気が悪いと毎日のように不調だから、毎日のように・効果が切れるたびに薬を飲む自分が怖くなったりね。めっちゃ薬飲んでるじゃん……鎮痛剤って常備薬じゃないのに……こわ……みたいな。

 今思い返すと、よくわからない体調不良は昔からあったなって。頭痛手前(でも頭痛になるとは限らない)の脳酸欠とか、よくわからん身体の痛みとか。
 大人になってくにつれて、求められるパフォーマンスがどんどん高くなって、自分でもすごく色んなことに気づいて気を遣えるようになってしまって、でもそれをするには身体がついていかなくて、その体調不良が問題になるシーンが多くなっていったんだろうなって思う。
 それが問題として噴出したのが、わたしの場合は中学3年生の時くらいから。
 脳酸欠の状態で勉強したり、ものを考えたりするのってかなりしんどいんだよね。頭の中心にずっと鉄柱があるみたいな感じでさ。

 そんな風に、いい天気の時と悪い天気の時でコンディションがまるで違うから、自分で自分に戸惑う。
 いい天気の時は好奇心と意欲に満ち溢れてるんだけど、
 悪い天気の時は何もかもがうるさく感じるし頑張れない。
 これを高速モードと低速モードって呼んでる。

 いつでも高速モードでいられたらいいのにって思う。
 いつだって好きに動けて、何でも面白くて、やってみたいことがいっぱいあって、実際やってみて嬉しくて楽しくて、あー楽しかったって眠りたい。
 だから1010hPa以下は違法なの。

 でもさ、いくら宵部帝国で禁じたところで、天気ってそういうものじゃないからね(笑)。
(あ、いま「禁じられた天気~低気圧タヒねソング~」っていうタイトルを思いついた。「Forbidden Weather」でもいいな。程よくダサくて。ラップかポエトリーリーディングにしようかな。じゃすとあいでぃあ。)
 高速モードのわたしと低速モードのわたし、両方いてわたしなの。

 だからせめて、低速モードでも自分を責めすぎずに過ごしたい、って思うんだけど。
 でも、低速モードの時の自己嫌悪や不安や焦燥感は、ある種それも悪い天気が作り出した「症状」である気がする。だから、低速モードでも前向きに! とかはそもそも無理があるのかも。
 しんどいけど、低速モードの時の気分とはきっと付き合っていくしかないんだろうなって。

 今すでに、「天気が悪いんだから体調が優れないのはある意味当然じゃん」ぐらいに開き直れたから、次はメンタル面だね。
「天気が悪いんだからポジティブになれなくて当然じゃん」な心構えで行きたい。

 ネガティブで、不安で、自己嫌悪で、何もする気になれない自分を否定せずに付き合うって、すごく難しい。
 それはやっぱり、「ずっと動き続けなきゃ」みたいな観念を、人生の中でたくさん”社会”から吸収してきたからなんだろうな。

 動けなくても大丈夫。不安でも大丈夫。そんな自分を責めなくても、焦らなくても大丈夫。
 今はのんびりしよう。天気はずっと悪いわけじゃないんだから。
 確かに動けるもんなら動きたいけど、天気が悪いってことは、今はそのタイミングじゃないってことなんじゃない? 空がそう教えてくれてるんだよ。
 ってことにしていきたい。

「ってことにする」はすごく大事なことだと思うよ。
 色んな情報が、色んな正義が、色んな「真実」が溢れている世界で、
 何を自分にとっての真実にするかは、自分が自分として生き残るために物凄く大事で、必要なことだと思う。

 これから梅雨になって、悪い天気ばっかりになりそうだからさ。
 みんなも体調とメンタルにいい感じに寄り添って、自分に優しく行こうね。

 いつだって自分には優しくすべきなんだけどね!笑

学校がしんどい君へ。3 〜言語化のススメ〜

 どんなプラットフォームでもいいので、自分の思っていることを書く、定期的に書く、というのは、一つお勧めしたいライフハックです。わたしももっと早く知っておけば良かったなって思っています。

 自分の感じたことを、確かに感じていた、と残すんです。

 自分の外の世界の誰に否定されたって、ここにだけは、自分の考えたこと感じたことが確かに書いてある。
 その事実は、すごく支えになってくれます。

 わたし自身、こうしてブログの形で自分の思ったことを書くようになって、感情や悩みの吐き出し口が増えてとても落ち着きました。

 もちろん親しい人に相談することも良いのですが、いつでもどんなことでも近しい人が理解してくれるとは、残念ながら、限りません。
 それに、そもそも人に相談するには、ある程度気持ちを落ち着けたり頭の中を整理したりが必要になる時もあります。
 そんな時に、自分の頭の中で抱えすぎて苦しまないように、紙だったり文書作成ソフトだったりにぶつける、っていう手も知っているとベリーグッドというわけです。

 とはいえ、自分の思ったことをそのまま書くなんて経験、実はなかなか無いかもしれません。
 学校の作文は、自由に書くように言われますが、それでも透明な制限があったりなかったりして結局自由には書けないってこともザラです。

 だから、思ったことを率直に書く方法を知るために、色んな人のブログを読んでみるのもアリです。ブログが本になったやつも面白いです。

 世の中にはいろんな文章があります。ギャグセンスが高かったり、毒舌だったり、優しかったり、論理的だったり。

 ブログは日記をウェブ上に公開したもの、つまり日記なので、型がありません。お手本もありません。
 だから、その人の人柄や美意識や人生がめちゃくちゃ染みた文章になっています。だからとても面白いし、ものによっては、読んでいる間その人の気配に包まれて安心できます。

 何でも自分のためだけに書くノートを作ってみてください。

 ブログを開設するのもありです。最近はnoteが有名みたいですね。はてなブログ・amebaも手軽に利用できます。

 自分の「ほんとはね」を吐き出せる、自分だけの居場所があると、「自分の感じたことを他人にかき消される」ってことに抵抗できるようになります。

 自分の感じたことを無かったことにされる、自分自身無かったことにしてしまう、否定してしまう、そんな悲しいことはないから。

 あなたの感じたことが「確かにあった」と形になれるように、ほんとうの、あなただけの気持ちの居場所を作ってあげてください。

学校がしんどい君へ。2 〜分解・分析してみる〜

 学校のしんどさにはいろいろあります。いろいろありすぎて、複雑に絡まりすぎて、これが辛い!なんて明言できるケースの方が少ないと思います。
 そのいろいろを、わかる範囲で全然いいので書き出して、ちょっとでも整理してみると、何がしかの役に立つかもしれません。

 わたしが経験したことあるものを書き出してみると、

  • 通学が疲れる。
  • 教室内の人間関係。ちょっとでもシクると割とお手軽に人権がなくなる。
  • 先生がクソ。しかも周りがそれに気づかないor気づいててもスルーできてしまうタイプの人ばかり。理解者がいない。
  • 感覚が人より過敏だったり、苦手な刺激があったりして周りと同じことができない。あるいは、できるけどすごくしんどい。(でも周りは自分と同じくらいしんどいのに頑張ってるんだと思ってしまったり)
  • 勉強して(=努力して)、何かを掴み取る!というイデオロギーがしんどい。一身の事情で努力が満足にできない人間はどうしたらいいっすか……
  • 普通に週休2日or1日(土曜授業があるのが基本の学校もある)に身体がついていかない。ってかこれはみんなそうじゃねえか? みんな我慢してるだろ。何とかならないんすかねぇ
  • シンプルに趣味や感覚が合う人がいない。学校に通っている間は学校が生活の中心、どころかほとんどを占めると思うので、そこで気の合う人が見つからないと結構きつい。
  • ことあるごとにお説教で教師にとっての正しさを叩き込まれる。お前がそう思うならそうなんだろうお前の中ではな。
  • あと他に何があったっけかな。

(「学校」というものをボロクソに言っているようですが、もちろん学校にだって、素敵な思い出ができる場所としての機能や、システムとして良い面もたくさんあるでしょう、ただここはしんどさを言語化して整理するためにつらつら書き出してみています……!)

 さて、こうして書き出してみるとよくわかるのですが、「学校」というのも、結局一長一短のある教育システムのうちの一つでしかありません。
 だから、それが身体に合わない人がいるのも当然になってきます。

 というわけで、学校以外の選択肢も必要だ、できるだけはやく、早く色んな人が選択できるようになったらいいよな、と思っていて、オルタナティブ教育について調べ始めています。
 もちろん体調が良ければなのですが、教育関連の論文を読んで文筆する活動もしていこうかなと思ってます。

「学校がしんどいのは何もおかしいことじゃない」って言うのは、言わないよりは全然マシだけども、それだけじゃあんまり解決にはならないからね。
 その解決に、少しでもわたしの力も添えられればいいなと思っています。

 ぼちぼちやっていきます。

学校がしんどい君へ。1

 最初に言っておくと、学校がしんどいことは何も悪いことじゃない。
 誰にだって得意な刺激と苦手な刺激があるんだから、「学校」がその苦手な刺激に当てはまるなんて普通にあることだ。
 君は何も悪くないし、何もおかしくないし、ひとりじゃない。
 まずはそれだけ覚えていてください。

 学校がしんどい君の、少しでも心休まる、心温まるよりどころになりたい。
 そう思って書き始めます。

 わたしは小学校4年生の時から、断続的に不登校でした。
 小4のときは確か、2月~3月はきっぱり休んでたかもしれないな。小5の時は騙し騙し行って、小6の9月から全く行かなくなりました。 当然親とは揉めに揉めましたが、わたしはあらゆる手を使って抵抗し、認めさせました。
 自分の心を守るために絶対に必要だと思ったんです。
 今思うと、あの時のわたしは子どもながら解離していたし無気力だったしゴリゴリに希死念慮もありました。それ以上に生きなきゃもったいないとか夢を叶えたいとかって気持ちがあったから、死のうと考えたことはなかったけれど、楽になりたいとか消えたいとかどこか遠くに行ってしまいたいとか眠ったまま目が覚めなければいいのにとかはずっとずっと思っていました。

 その後も、中学高校は楽しいことも多かったんですけど、感覚過敏で体調を崩しやすいわたしには忙しすぎて大変で、結構苦しんでいました。
 やっぱり不定愁訴(原因と症状がはっきりしない体調不良)で休むことがちらほらあり、その件についてまた親と揉めて、精神科に通院したこともあります。
 でも今思えば、あれはちょっと違ったかな……感覚過敏で疲れやすく、体調を崩しやすいのを、うつ病という風に診断されたのだと思っています。つまり、正直言ってわたしはあれは誤診だったと思ってます。

 そんなこんなで高校生活をしていて、3年になった時、受験のストレスでひどいパニック状態になってしまって。
 それが決定打になって、生き方を変えて、ここまでやってきました。

 今は東京藝術大学で、えっちらおっちら大学生をやっています。

 生き方を変えたって言うのは、自分を責めるのをまずやめました。

 自分の体調不良や情緒不安定を責めるのをやめました。いや、でもやっぱり自分自身動きたいのに身体が不調を訴えると、まず自分で自分にイライラするんですけど。でも、「こんなんじゃやっていけないのに!」って責めるのをやめました。

 変わろうとするのもやめました。とにかく、自分を否定するのをやめました。

 何をするにしても、まず、元気にならないといけないから。

 それで少しぐらい嫌なやつになったって、心からごめんなさいが言えるなら、きっと大丈夫なんです。

 わたしは感覚過敏で、疲れやすくて、体調も不安定で、頑張ることができません。
 人並みの努力をすることがなかなか難しいし、それを自分に期待していると、思うように動かない自分の体に涙が出てきてしまうので、そういう「人並み」の物差しで自分を測ることはしません。

 わたしが普通に生きていこうと思ったら、自分の身体の変化を管理して、神経質に生活して、それでも不調だったら痛み止めや酔い止めを飲んで、少しぐらいは体調不良を押してやるべきことをやって……ってなると思うんですけど、
 いや、正直絶対嫌ですね。
 嫌だからやりません。
 ……そんなの、生きた心地しないじゃないですか。
(でも具合が悪い時期が続くとつい、自分で進んで、そういう生活をしようとしてしまうので、反省です。
 感覚過敏で自分の身体の変化にも過敏なおかげで、微妙な不調は自分である程度ケアできるのですが、……それは自分のために、自分の苦痛を緩和させるためにケアするのであって、無理やり身体を動かすためじゃないはずなのに)

 頑張らなきゃ生きていけないとか、ちょっとぐらい我慢しないと生きていけないとか、そういうのは全部ふざけた幻想だと思っているし、そう信じたいです。

 とりあえずでも、今は、倒れたい時に倒れられるし、かなり好きなことを好きなときにやれているので、大丈夫になりました。

 将来の不安はあるけど……ある意味、そんなの誰でも同じだし。
 いや、ちょっと違うけどさ、やっぱり。すぐに倒れる、しかもそれをあんまり理解してもらえない身体だから、周りとちょっと条件は違うけど……

 でもとりあえず今は大丈夫です。
 だから、あんまり信じられないかもしれないけど、説得力そんなにないかもしれないけど、あなたも大丈夫だよ、って言います。心いっぱいの祈りも込めて。
 わたしがあなたを肯定する場になります。

 どうか諦めないで。
 あなたは間違いなく、必要とされて、この世界に必要だから生まれてきたんだよ。
 それはもちろん目に見える誰かの役に立つためとかじゃなくて、あなたがあなたの望むようにすること、望むように生きることが、必ずこの世界にとって必要だから生まれてきたから、どうか、どうかあなたを、あなた自身を諦めないで。


 あなたは、あなたらしく生きることを応援されて当然なんです。本当は。
 だから、そうしない奴にわたしは心から怒ります。

 わたしの言葉は、直接には役に立たないかもしれません。(っていうか、言葉って、他人の言葉って、しかもネット上の言葉なんてそういうものだしな)

 でも、この言葉をこうしてネット上に放つことで、あなたが何も間違っていないことを保証することは、少なくともできます。

 あなたは決して一人じゃない。

 まだ出会えていないかもしれないけれど、あなたの味方になってくれる人は絶対にいる。
 この記事がその証明です。

 だからもう少しだけ、全てを諦めるのは先延ばしにしませんか。

社会と自己愛について。(まじめかっ)

 目の前にいる相手(これもダメな相手はダメなんだけど)と分かり合うことは、なんとかできても、「社会」を変えることなんてできるのかなあ、って最近ずっと考えている。

 もちろん、変えられるのか変えられないのかなんてとりあえず置いといて、声を出すことはとても大切なこと。それは当然だから、また別の話ね。

 ただ……

 自分の言葉で何か影響を与えられる相手だったらとっくに変わってるよな、って。
 何かの問題について、最初から言葉で気付いたり変われたりするひとは、そもそもその問題の根幹を成している層ではない、って話はよくあるじゃない。

 どんなに言葉を重ねても分かり合えない人というのはいて、そういう人に、諦めず手を替え品を替え言葉をかけ続けても、変わらないものは変わらないし、自分が消耗して削れていくだけなので、見切りをつけることは肝心だと思うのです、自分の心と身体のために。
 その人はきっと、「いま、わたしの伝えたいことに気づくタイミングじゃない」んだと思う、そういうときって。

 だからって、そんなこと言ったって許せないことがいっぱいある。看過できないことがある。許してはいけない気がすることがいっぱいあるから、ほんと、何も簡単なことなんてないんだけど。

 自分自身のことならさ、「それで、どうしたい? どうしよっか?」で決められるからシンプルなんだけど、社会の理不尽に怒ることには、まあ当たり前なんだけど最適解なんてない。

 話の通じない人とどうコミュニケーションしていったらいいんだろうね。
 相手がひとりとして存在してくれていたら、ちゃんと話を聞いて、コミュニケーションができる気がするけど、何かの全体の一部になろうとしている人だったら。
 そいつぁ結構きびしい。
 ”話の通じない人”って、そういう人なのかもしれないな。

 ああ、だからあの友達は「大衆から個人を切り離す」って言っていたのか。

 でも、大衆や全体の一部になりたいという気持ちは、きっと不安や傷から来ているのだろうとも、わたしは知っている。

 その不安や傷とはつまり、「自分には、基本的人権が、生まれながらに備わっている」と信じられないことだ。

(基本的人権=生まれながらに人間に備わっている権利のことなので、いまわたしは二重表現をしたんだけど、それぐらい「基本的人権」の意識が抜け落ちているのです……)

 自分は自分一人で十二分に存在していいのだと、好きに生きていい(ただし人の人権ももちろん尊重する必要がある)のだと、何に従わなくても、自分で決めていいのだと、そしてそれは当然の、生まれ落ちた以上誰もが持っている「当然」「所与」だと、どうしてか、わたしたちは忘れているんだか、忘れさせられている。

「権利」という言葉に対して、「権利が欲しいなら義務を果たしてから言え」なんて言葉が横行する世間だもの。

 ちがうんだってば〜!!! 基本的人権の話なんだってば〜〜〜〜生まれながらにして人間が持っている当然の権利の話、「生まれながらにして人間が持っている当然の」権利!!! 
 権利はだから、「獲得」するものじゃない。
 だから本来は代わりに差し出すものなんていらない(何かを得るためになら何かを差し出せねばならない論理で言うと)。
 権利を主張するとは、全部「取り戻す」ための行為なのだ。

 もう一度繰り返すけれど、権利はそもそも獲得するものじゃない。「何か対価を払ったから獲得できる」ものではない。
「そもそも全員が持っているもの」なのだ。
 それが権利だ。

 ということを、基本的人権意識を、自己肯定感を、自己愛を、繰り返し繰り返し伝えていくことが、長い目で見ると平和を作るんだろうなと思っているので、そういう活動をしていきたい。

 しかしそれはとっても長い目での話だし、予防注射みたいなことかもしれないから、何か問題が起きた時にそれに対処する方法は、また別に考えなきゃいけないことなんだけど。

 それが、ぜんぜん、糸口も何も見つからないなあって。
 日々探していきます。

【新曲】ボカロP朱川仁礼としてデビューしました!

 デビュー曲はMIZKI(VY1)ボーカルによる「カーミン 」。
 この曲で#シューゲイズ祭り2020という素敵な企画に参加させていただきました!

 自分の声じゃないからこそ出てくる表現、やっぱりあるなって。

 わたしはわたしの声では、やっぱりわたしのことを歌いたくて。
 でもボカロさんが歌ってくれたら、自分とは距離のある、だけど表現したいこと、見せたい景色、確かにある鮮明な感情、も自由に表現していくことができるなって思っています。
 世界も、表現の幅も広がりました。

 朱川仁礼としてのわたしも、ご愛顧いただければ幸いです!