きょうの活動と断片。6月12日、2020年

 朝起きて、家事をして、最低限はできあがっている新曲のMVを眺めて唸った。手を入れるべきか、入れないべきかと。
 MVはいつも色々と迷う。
 音楽以外の情報、例えば文章とか映像の切り替えを入れたら入れたで音楽が聴こえなくなる気もするし、かといって見るものがないと目が退屈するのかなあとか……
 自分にしっくりくるものを作って、皆さんに提供する、という哲学でやっているので、わたしがしっくりくるようにするけれども、今日は迷う日だった。

 お昼を食べてから、「学校がしんどい君へ。」を書いた。
 一度に二日分書いたので、明日の分というか、一回分のストックができた。
 2回分とも長文になった。

 お昼を食べて、オンライン授業を受けてから、「哀と傷」のセルフライナーノーツを書いた。
 近々pixivFANBOXの方にアップできると思う。

 ここ数日授業で学んだことから、つくづく考えるのだけど、この現代社会、メディアの使い方が上手い悪ほど恐ろしいものはないなって。
 もちろん、メディアをうまく使って人を幸せにすることもきっとできるんだろうから、わたしはそっち方面の追求をどんどんしていきたい。
 そういうのって勉強や分析でどうにかなるもんじゃないかもしれないし、逆に言えばメディアの使い方が上手かったものが後からそう研究されるもんなのかもしれないから、狙ってできるのかはわからないけど……でも楽しそうだし。
 今日始めた↓みたいなメディアで何ができるのかとか、考えてみたら楽しそう。

 夜20時から、YouTube Liveでライブ配信をした。

 前々から企画していたプロジェクト〈天蓋〉というもので、自分の音楽を流しながらだらだらと雑談をした。
 でも、マイクでパソコンに向かって話すのは、まだまだ慣れない経験すぎて感覚がわからない。
 なんだか初めて歌をレコーディングしたあたりの時のことを思い出した。
 あの時は、マイクに向かって歌う感覚なんて掴めるも何も何がその感覚なのかも分からなかったし、何より緊張して気が散ってしまったし、「え、わたしもっと上手いんだけど……(マイクに向かってじゃなくて空間に向かって歌って、それをボイスレコーダーで録った時のクオリティと全然違う)」とか。
 懐かしいな。
 配信者の皆さんは神だということが改めてわかった。わたしもいずれその中の人柱になって行けたらいいな……まじリスペクトだ。

「声」に対する研究の材料にもなるかもしれない経験だ。練度を上げていきたい。

 新曲をupしたのちに、歌ってみたもまたやりたいな。

学校がしんどい君へ。6〜身体の自然〜

 なんか、自分はずーっと、自覚したのは小4からだけど、生きづらい側の人間なので、楽に生きる方法を探して色んな本を読んだんだけどさ。

 わたしが「これだ!」って思ったもの全部、根底にあるのは同じ一つのメッセージだなって気づきはじめた。

「身体の自然に任せよ。」

 これなんじゃないかって思った。

 わたしのような感覚過敏、周りの世界が発する刺激も自分の中の感覚もものすごく繊細に全部感じ取ってしまう人間は、「身体の自然」のセンサーがものすごいんじゃないかって。

 だから、自分の身体が発する自然に沿って歩いて行けば、とんでもないところに、この身体がわたしを連れていってくれるんじゃないかと思って。

 つい最近、坂口恭平さんの「躁鬱大学」を読んでいて気づいた。

 わたしは「自分」というものが物凄くあるし、褒められたいっていうのがモチベになる感覚がわからなかったり、一人の時間大好きで人と過ごしたらその1.5倍ひとりの時間が必要だったり、ノリノリで何か作業をしていてもフツーに疲れたりするので、躁鬱人ではない気がするけど、それ以外の部分はすごく共感できたんだよね、この連載。とてもおすすめです。

 今自分がしたいことを自分に聞く。その連続でとりあえず生きていこうと思います。

 坂口さんは、そういう好き勝手やる生き方は躁鬱人の生存戦略だ、的なことを(その通りのことは言ってないかもしれません。わたしの解釈です、念のため)言っているのですが、わたしにとってもそうで。

 生存戦略ってどういうことかっていうと、好き勝手生きられないと、躁鬱人もわたしも死にたくなってしまうらしいんだよねどうも。

 わたしが昔から、「もっとちゃんとしなさい!」と言われては「ちゃんとするってことはわたしがわたしじゃなくなることなんだ、じゃあ死んだ方がマシだ」と泣いて「そういうことじゃない!」ってまた怒られるっていうのを繰り返してきた理由もここにあったんだなーと。

 好き勝手できないなんて生きててもしょうがないじゃん、みたいなやつ。

 それでやってみて、何が自分のところにやってくるのかにとても興味がある、というお話でした。

 しょうがないじゃん、ちゃんと考えて行動しようと思っても、途中で身体が動かなくなったりするんだもん。

 身体の具合がいい時は、普通の人がやる方法で頑張りはじめたりするんだよ。それで計画を立てたりする。でも、結局天気が悪い日とかが途中で来て、身体が動かなくて、ああわたしはやっぱりこうなんだ、って気づいて鬱になる。それをずっと繰り返してたし繰り返してる。どうしてか、普通の方法論を自分にもできるって思っちゃうんだよ。具合がいい時は。

 でもそうじゃない方がいいのかもね。元気な時だって自分の体に従った方がいいんだろうな。「挫折」しないために。

 挫折してたんじゃなくて、もともと立ててた計画が自分の身体に合ってなかったんだと思う。小康状態だからこそできることを毎日やろうとしたって、無理なんだよな。よく考えなくても。

 人が言ってる「やり方」は、大抵わたしの身体には合わないってことを理解しとかないといけないなーと実感している低気圧の時期です。
 君も身体に気をつけて。

きょうの活動。6月11日、2020年

 プロジェクト〈天蓋〉で使うインスト曲を3曲仕上げた。これで30曲ラジオに使えるストックがあることになる。結構たまった気がする。もちろん常時足して行きたいけども。

 また、Rainy Shelter Dwellersの続編にあたる新曲のMVを作った。最低限は完成させられたが、これ以上手を加えるか迷いどころ。
 曲の方は、かなり高クオリティに仕上がったと思う。あと3ヶ月ほどで21になるわたしの今の実力を出せたと思う。
 この曲を作っていた時の思い出を書くと、Rainy Shelter Dwellersの制作データを久々に見にいったら、ギターの音色の作り込み方が結構ちゃんとしてて背筋が伸びた。その時受けた刺激とある種の良いプレッシャーを生かして、今回の新曲もギターの音色にはちょっとこだわりました。
 こだわりポイントの色々ある、お気に入りの一曲がまたできました。

 実は午前中から昼過ぎにかけてずっと悲しい気持ちだった。将来への不安でいっぱいになっていた。
 でも、「『自分の身体の自然に任せればうまくいく』みたいなことを、成功法則とか心の健康法とか語る人みーんな言ってんな」ということに気がついて、「今自分なにやりたいかな」って自分に訊いてみたら作曲で、それでインストが仕上がった。
 この状態がいつまで続くかなんてわからないけど、今日はなんとかなったし、活動を進められてとてもよかった。

 授業で、カルチャー史を学ぶ機会が多く、それも悲しみの原因だったと思う(原因っていうか、それに刺激されて悲しみが膨らんだ)。
 バブル崩壊前はみんな明るい未来を描いていたんだみたいな話を聞くと、未来が明るい時代なんてわたし知らないんですけど、どうしてくれんすか、みたいな、憤りですら既になくて悲しくて絶望的な気持ちになる。
 これは対策しようがない気がする。どーしよー。
 そもそも少子高齢化で若者は数で負けているから、色々動いたり主張したりしていても中々成果が見えない。なのに声を上げたことについて叩かれるのは同じ。そうすると、やっぱ心折れそうになる。わたしは活動の中心にいるんじゃなくて応援する側だけど、そういう強い逆風を見てるとこっちもしんどくなってくる。だから、今中心にいる人たちがしんどくなっても、声を絶やさないようにはし続けないといけないし、わたしもその一員で在れたらいいなって思う。
 みたいな八方塞がりさを昨日母に電話でぶつけてしまったけど、母は「そうだね……今は確かにしんどいかもしれない。でも、上の数の多い世代が退く時がこれから来るから、それまで心折れないように、静かでもいいから細く長く続けていけたらいいね」って、とても素晴らしいことを言ってくれた。嬉しかったしほっとした。ありがとう。

 あと、これもまた昨日の話になってしまうけど自分の曲は自分でしか売りたくないって話もした。それはわたしの内臓だから、人の手から売って欲しくないということ。

 それは将来どうしよう、って話からで、それで押さえ込んでいた不安が開いちゃって今日のはじまりが鬱だったんだ。
 とりあえず、さっきも書いたように「自分の身体の自然に任せる」ということをやってみようと思う。
 参考資料は坂口恭平さんの「躁鬱大学」(noteで連載されていた。無料で読める。この分量と内容が無料で読める。素晴らしすぎる)。わたしは躁鬱人とは少し違うけれど(”自分”がありすぎるくらいあり、自己の一貫性があり、一人で楽しく過ごせるところなどが相違点。逆に言えば他はすごく共感できる)、「窮屈にならない過ごし方」というのはむちゃくちゃ、めちゃめちゃ、死ぬほど素晴らしい。ぜひ読んでほしい。後で「学校がしんどい君へ。」にも書くと思います。
 色んな人の、色んな生き方についての本を読んでいて、結局行き着くところは全部「身体の自然に任せろ」なんじゃね?と思ったので。色んな人が色んな、その人自身の言い方で、「自分の体の自然に任せよ」って言っていた気がしてならない。

 noteの「プロジェクト〈天蓋〉」も更新したかったし、「学校がしんどい君へ。」の続きも書きたかったが、それこそ身体の自然が「眠い」と言っているので今日は此処までにして寝ます。

 おやすみなさい。今日は結構充実してた。しあわせだー。

きょうの断片。6月10日、2020年

 ニュータウンには歴史がない?
 わたしはニュータウン育ちなので、色々考えた。その中で宮崎駿氏の「耳をすませば」ってすごく画期的っていうか、大きな役割を担ったのでは。

 ポピュリズムってネオリベっぽさを感じる。何もかもがブランディングのためのセールスピッチになっていく感じ……
 わたしはビジネス的な考え方自体には否定的ではなくて、美学とか理念とかとうまく噛み合ってればとてもいい効果を発揮できそうって思ってるんだけど、だから肝心なのは美学とか理念とかが口だけじゃないかってことで、ごにょごにょ……

 フロイト→ラカンの精神分析の話を聞くと、面白いんだけど、やっぱり自分は無意識というものに実感が持てないところはある。
 無意識は、ショックすぎて忘れている(忘却)と、そんなのダメだと思っている(抑圧)で、ざっくり言うとこの二つでできている気がするけど、わたし自身はその二つを回復して「無意識」から引き出すことができちゃったパターンなんだろうなって。だから実感が持てないのは無理もない。
 自分で自分を楽にしようとその辺はめっちゃがんばったからな。セルフセラピーしてたから。

 今はなんか、SFのイメージすら古ぼけた感じになったなあって。
 これから「新しいSF」ってでてきたりするのかなあ……

 Flying Lizardsに興味を持ち始めた。あとArt of Noiseを改めてもっと聴いてみようかなと思った。

 昔のテクノポップ、プラスチックやポリプロピレンというワードがキーワードになっていたのかなって思う機会があって、それってPerfumeもそうだった時期あるよなって思い出した。

 バッハのポリフォニー、死ぬほどおしゃべりでしかも話す内容が一言一言面白い人の話を聞いている気持ちになる。待って、今言ってたこと面白かったからちょっと味わう時間ちょうだいよ待って待って、みたいな。

 何かの素材をループして作る音楽とトートロジーには親和性があるから、そういう歌詞って面白いかもと思った。トートロジーな歌詞。あるいはエコーチェンバー現象な歌詞。

きょうの断片。6月9日、2020年

 女性が「やおい(二次創作BL)」を書くことについて、その向こうの心理や社会学について研究してみたいかもしれない、と思った。文学にはどんな哲学があるんだろうか。エクリチュール--書かれたもの--だけでなく、その文章を書くという行為に関する研究や分析の方法論はあるのだろうか。調べてみたい。

 その不便さやコミュニティ的な特徴から、社会運動とも相性が良さそうなZINEというメディアが、最近とても気になる。作ってみたいし配布してみたいけれど、あいにく配布の仕方がわからない……
 このサイトで連載している「学校がしんどい君へ。」の原稿が溜まったらZINEにしてみたい、なんて思いつきはあるが、やはり問題は配布方法だ。
 維持費以外の価格をつけずに通販(郵送)という形でいいんだろうか。

 他者の痛みを感じ取る時、やっぱり身体(性)が重要である、というような言説にも触れた。
 でも、その身体も、現代ではかなりサイボーグ化してきている。
 前に、声もまた人体の延長としての「道具」であり、本質的にサイボーグ的である・サイボーグ化する性質を持った人間が、初めて自分の身体で取り扱う延長装置=サイボーグ的身体の一部だという話を聞いたことがある。
 わたしは大学では、録音された音や声を使って作品を作ろうとしているので、「サイボーグ」は声に関するキーワードとして覚えておきたい。

 また、「見る」ことと「消費する」ことの密接な関係について、同じゼミの人たちの発表を聞いて考えた。
 では、「聞く」ことは、「消費する」ことへの対抗手段にはなるんだろうか。ならないんだろうか。なるとしたら、ならないとしたら、それはどのようにだろうか。

「初音ミク」は史上初の「(少女型)アンドロイドの声」だったので、人形愛のような欲望を人々に抱かせた、という文章を読んだ。
 人間に近づこうとする、けれど人間ではない存在への愛情。
 それが「声」という領域に現れたことは、とてつもなく画期的だったのだなと理解した。

 SNSでの情報発信(とくにタイムラインがあり、フロー型のもの)は、一時的な話題性や拡散には繋がりやすいが、それがその発信者や扱っている問題への長期的な支持につながりやすいとは言えない。
 とすると、やっぱりその人固有のページ(ポートフォリオorギャラリーになってくれるページやブログなど)やその問題専門サイトが必要になってくるんだろうなとふわっと思った。

 あと、「見てほしいという感情」「見られるという快楽」の話もゼミで出たけど、
 わたしは見てほしいわけじゃなくて、わたしがここにいることを知って、共感したら愛してほしい、つまり友が欲しいのだな、と再確認した。

 そう、友が欲しい。
 迷走することもあったけど、根本はそれだった。
 どうやったら友は増やせるんだろう。
「見せる」ことも、友を増やすためには必要だけど、たくさん見せる必要はないしそれでしんどくなるのも違うし、何より「見せる」ことだけじゃ不十分だ。それ以外にも重要なファクターは色々あるはず。
 とりあえず、今プロジェクト〈天蓋〉というものをやっているので、それが第一歩になったらいいな。

学校がしんどい君へ。5〜続 高速・低速モード

「低速モードの時は何もできない」っていうのも全然間違ってない。これが大前提だと思う。

 ただ、「好きなことしかできない」とか「好きなものしか食べられない」っていうのもあってる気がする。
 好きなことっていうか、よっぽど気が向いたこと、それをすることで今安心できるなあとか、やる気が湧かない中でもこれだけは楽しいかも、みたいなことしかできないんだ。

 それは多くの場合建設的じゃない。
 そもそも低速モードのわたしは、建設的なことをしようとか頑張ろうみたいな傾向の動きが大嫌いだ。体調悪くてそれどころじゃないんですけどってなる。
「体調悪くてもこれだったらまあできる」の中で、「じゃあこれやるか」ってなるものをやって、それも飽きることがほとんどだけど、何かにハマることもある。つい一昨日ぐらいまではひたすら色んな人の「Detroit: Become Human」の実況見比べるのにハマってた。

 建設的じゃないって言っても、ハマったことからは何だかんだ色んなものを得たと思う。(あとでメモっとこ。レポートみたいになるかも)
 体調が悪くなきゃ、あれだけ時間のかかる動画を視聴することもなかったと思うし。
 低速モードは充電モードだし、高速モードの時にはやらないことができる機会だということにしよう。っていうかその通りだしね。
 自分の幅が広がる機会だ。

 世の中的には、いつでも建設的に、いつでも頑張って--つまりいつも高速モードでいるのがいい感じがして、そこがやっぱり嫌だし不安になるんだけど……無茶言うなって感じだしな。

 これからやってくる梅雨で、低速モード中の生き方を模索してみるつもり。
 少なくとも高速モードと同じパフォーマンスを出せるわけがないし、出そうとしたら自分で自分を追い込んでしまうからダメだし。あまり無理もしたくないし。

 ってか正直言うと、働くってなった時にどうなるかが心配なんだよね。温かい曇りの日はいつも具合が悪いんですけどって話だからさ。
 まあ今から心配してもしょうがないんだけど。
 将来のことは何もわからないもの。

 とりあえず、今はなんだかんだ生きてるし、そういう体調不良の時に心置きなく体調不良ができてるから、良いぞ~って感じ。
 そう、そういう、他の人にはわかりにくい体調不良に陥ってる時に一番怖いのは他人の目だからね。

 身体感覚って人それぞれだから、感覚過敏でもない人からしたら、わたしの頭痛ですらない気象病って意味がわからないと思うの。
(だからって「分かってくれよ」と言うのを諦めるのはよくない、それは自分を大切にしてないんじゃない? って、最近学んだんだけど)

 それでもね。
 意味がわからないかもしれないけど、わたしの不調は確かに存在するんだよね。
 だけどそれを認めてもらえなかったら……高校の時そうだったし、それでむちゃくちゃ病んだし……みたいな不安がさ。

 それでも生きていく方法として、自分の音楽活動や諸々の活動を頑張って、ゆくゆくはそれで生活したいと思ってたりもするけど、それだって低速モードの時は「頑張れない」わけだからさ。
 好きなことだって頑張ることはできなくなる(単にやることはできても)のが低速モードだから、余計に焦る。

 だけど低速モードになることは避けられないし、低速モードの時に頑張っても、ぶっちゃけあんまり意味はないし、最悪、活動自体に嫌気が差してしまうかもしれないわけで。それは絶対避けたい。

 人に理解され難い、しかも現代社会じゃ問題視されやすい低速モードがある身として、どうやって生きて行ったらいいんだろ、みたいなことは、わたしだって模索中なんだ。

 だから、わたしの「大丈夫だよ!」はあんまり当てにならないかも知れないけど……

 でもとりあえず、ここにも一人そういう人がいるよ、健康優良社会不適合者がいるよ、ってことだけは覚えて帰ってください。

 そうそう、「健康優良社会不適合者」っていう名乗り方はね。

 わたしがそうして気象で具合が悪くなるのも、身体の感覚が過敏で、自然の、自分の周囲の状況をビンビンに感じるセンサーがあるからってことで、つまり、物凄く健康的な不調なんだよ、って自分で思ってるからなんだ。

 便宜上「気圧病」とかって言ってるけど、全然病気じゃないし、対症療法はめっちゃ欲しいけど、「治療して」「自分のこの身体から消す」ことはしたくないし、それは自分の身体を否定することだと感じる。

「この社会で生きていくには治療しなければならない」っていうのは、「わたしがわたしのままで生きていってはいけない」ことだと感じる。

 だから治したくないんだ。

 まあそもそも治しようがないんだけど。

 そんなわけで、不安ではあるけど、この身体と生きていきたいと思う。
 これからどうなるんだろうね。

きょうの断片。6月8日、2020年

 授業で雅楽を聴いていて、雅楽は、宗教音楽は、神様がいる空間のための環境音楽なのでは? という発想が浮かんだ。演奏するか祈るか、どんな形にせよ、その場にいる人々は音楽を奏でたり聴いたりすることを通じて神と交流していたんだなと。
 音楽の起源が宗教に密接に関わっているのなら、この音楽との関わり方は、今でも受け継がれている本質的なものなんじゃないのかな? とか。

 詩のフィールドレコーディング、というか、どこで朗読されるか、詩の朗読の後ろに聞こえるノイズや環境音も込みで、「その場で朗読され、録音されるための詩」っていうのは面白いんじゃないかと思ってる。

 一方で、朗読って面白くて。
 わたしは、実は言葉って副次的な物なのかなとも思っている。言葉自体も大事ではあるんだけど、それをどんな表情で、文脈で、誰が言うのかによって意味やニュアンスなんてまったく変わるもの。
 それなのに朗読は、言葉が伝わるように読む。
 そもそも会話とは違うから。言葉が聞きやすいように読む。
 言葉のニュアンスを聞き手に委ねるため、っていうのも大きいと思う。
 他の何とも違う、声を使った言語活動の一つだなと思う。

 あと、絵を描いてみたいなって思うようになってきた。
 絵を描くというか、色を作って塗るっていう身体の動きがとても好きで、それをまたやりたいなあって。
 色彩構成や、四角い画面をどう構成するかも、今までは全然勝手がわからなくて、何がわからないのかすらもわからない領域だったけど、踏み入れてみたら面白いのかもって。
 授業と、SNSでたまたま見かけた、一つの企画に対して複数のデザイン案が紹介される本の情報のおかげだな。

学校がしんどい君へ。4 〜気圧病と高速・低速モード〜

 宵部帝国では、1010hPa以下の気圧を法律で禁じている。

 というのはもちろん冗談だけど(笑)、気圧や湿度がそのまんま身体に影響してしまってまともに動けなくなるのです。
 わたしはここ数日、自堕落な(と自分でつい思ってしまう)(自分を責めるのも焦るのもやめたいね)生活しかできませんでした。
 しんどい、ひたすらにしんどかったです。

 気圧からくる頭痛なら頭痛薬でなんとかなるけど(効かない時もあるけど……)、低気圧の不調って、必ずしも痛みって形で出てくるとは限らないんだよね。
 身体の重さ(押さえつけられて重力が3倍になった感じ)、吐き気、身体が内側から押されてる感じや血行不良による気持ち悪さとかは、ギリギリ痛みにはなってないけどともすれば痛みそうな苦しさとずっと隣り合わせで、それは防ぐ方法がなかったりとか(酔い止めが効くって聞いたことあるから試してみようかな)。
 あと、毎日のように天気が悪いと毎日のように不調だから、毎日のように・効果が切れるたびに薬を飲む自分が怖くなったりね。めっちゃ薬飲んでるじゃん……鎮痛剤って常備薬じゃないのに……こわ……みたいな。

 今思い返すと、よくわからない体調不良は昔からあったなって。頭痛手前(でも頭痛になるとは限らない)の脳酸欠とか、よくわからん身体の痛みとか。
 大人になってくにつれて、求められるパフォーマンスがどんどん高くなって、自分でもすごく色んなことに気づいて気を遣えるようになってしまって、でもそれをするには身体がついていかなくて、その体調不良が問題になるシーンが多くなっていったんだろうなって思う。
 それが問題として噴出したのが、わたしの場合は中学3年生の時くらいから。
 脳酸欠の状態で勉強したり、ものを考えたりするのってかなりしんどいんだよね。頭の中心にずっと鉄柱があるみたいな感じでさ。

 そんな風に、いい天気の時と悪い天気の時でコンディションがまるで違うから、自分で自分に戸惑う。
 いい天気の時は好奇心と意欲に満ち溢れてるんだけど、
 悪い天気の時は何もかもがうるさく感じるし頑張れない。
 これを高速モードと低速モードって呼んでる。

 いつでも高速モードでいられたらいいのにって思う。
 いつだって好きに動けて、何でも面白くて、やってみたいことがいっぱいあって、実際やってみて嬉しくて楽しくて、あー楽しかったって眠りたい。
 だから1010hPa以下は違法なの。

 でもさ、いくら宵部帝国で禁じたところで、天気ってそういうものじゃないからね(笑)。
(あ、いま「禁じられた天気~低気圧タヒねソング~」っていうタイトルを思いついた。「Forbidden Weather」でもいいな。程よくダサくて。ラップかポエトリーリーディングにしようかな。じゃすとあいでぃあ。)
 高速モードのわたしと低速モードのわたし、両方いてわたしなの。

 だからせめて、低速モードでも自分を責めすぎずに過ごしたい、って思うんだけど。
 でも、低速モードの時の自己嫌悪や不安や焦燥感は、ある種それも悪い天気が作り出した「症状」である気がする。だから、低速モードでも前向きに! とかはそもそも無理があるのかも。
 しんどいけど、低速モードの時の気分とはきっと付き合っていくしかないんだろうなって。

 今すでに、「天気が悪いんだから体調が優れないのはある意味当然じゃん」ぐらいに開き直れたから、次はメンタル面だね。
「天気が悪いんだからポジティブになれなくて当然じゃん」な心構えで行きたい。

 ネガティブで、不安で、自己嫌悪で、何もする気になれない自分を否定せずに付き合うって、すごく難しい。
 それはやっぱり、「ずっと動き続けなきゃ」みたいな観念を、人生の中でたくさん”社会”から吸収してきたからなんだろうな。

 動けなくても大丈夫。不安でも大丈夫。そんな自分を責めなくても、焦らなくても大丈夫。
 今はのんびりしよう。天気はずっと悪いわけじゃないんだから。
 確かに動けるもんなら動きたいけど、天気が悪いってことは、今はそのタイミングじゃないってことなんじゃない? 空がそう教えてくれてるんだよ。
 ってことにしていきたい。

「ってことにする」はすごく大事なことだと思うよ。
 色んな情報が、色んな正義が、色んな「真実」が溢れている世界で、
 何を自分にとっての真実にするかは、自分が自分として生き残るために物凄く大事で、必要なことだと思う。

 これから梅雨になって、悪い天気ばっかりになりそうだからさ。
 みんなも体調とメンタルにいい感じに寄り添って、自分に優しく行こうね。

 いつだって自分には優しくすべきなんだけどね!笑

学校がしんどい君へ。3 〜言語化のススメ〜

 どんなプラットフォームでもいいので、自分の思っていることを書く、定期的に書く、というのは、一つお勧めしたいライフハックです。わたしももっと早く知っておけば良かったなって思っています。

 自分の感じたことを、確かに感じていた、と残すんです。

 自分の外の世界の誰に否定されたって、ここにだけは、自分の考えたこと感じたことが確かに書いてある。
 その事実は、すごく支えになってくれます。

 わたし自身、こうしてブログの形で自分の思ったことを書くようになって、感情や悩みの吐き出し口が増えてとても落ち着きました。

 もちろん親しい人に相談することも良いのですが、いつでもどんなことでも近しい人が理解してくれるとは、残念ながら、限りません。
 それに、そもそも人に相談するには、ある程度気持ちを落ち着けたり頭の中を整理したりが必要になる時もあります。
 そんな時に、自分の頭の中で抱えすぎて苦しまないように、紙だったり文書作成ソフトだったりにぶつける、っていう手も知っているとベリーグッドというわけです。

 とはいえ、自分の思ったことをそのまま書くなんて経験、実はなかなか無いかもしれません。
 学校の作文は、自由に書くように言われますが、それでも透明な制限があったりなかったりして結局自由には書けないってこともザラです。

 だから、思ったことを率直に書く方法を知るために、色んな人のブログを読んでみるのもアリです。ブログが本になったやつも面白いです。

 世の中にはいろんな文章があります。ギャグセンスが高かったり、毒舌だったり、優しかったり、論理的だったり。

 ブログは日記をウェブ上に公開したもの、つまり日記なので、型がありません。お手本もありません。
 だから、その人の人柄や美意識や人生がめちゃくちゃ染みた文章になっています。だからとても面白いし、ものによっては、読んでいる間その人の気配に包まれて安心できます。

 何でも自分のためだけに書くノートを作ってみてください。

 ブログを開設するのもありです。最近はnoteが有名みたいですね。はてなブログ・amebaも手軽に利用できます。

 自分の「ほんとはね」を吐き出せる、自分だけの居場所があると、「自分の感じたことを他人にかき消される」ってことに抵抗できるようになります。

 自分の感じたことを無かったことにされる、自分自身無かったことにしてしまう、否定してしまう、そんな悲しいことはないから。

 あなたの感じたことが「確かにあった」と形になれるように、ほんとうの、あなただけの気持ちの居場所を作ってあげてください。

学校がしんどい君へ。2 〜分解・分析してみる〜

 学校のしんどさにはいろいろあります。いろいろありすぎて、複雑に絡まりすぎて、これが辛い!なんて明言できるケースの方が少ないと思います。
 そのいろいろを、わかる範囲で全然いいので書き出して、ちょっとでも整理してみると、何がしかの役に立つかもしれません。

 わたしが経験したことあるものを書き出してみると、

  • 通学が疲れる。
  • 教室内の人間関係。ちょっとでもシクると割とお手軽に人権がなくなる。
  • 先生がクソ。しかも周りがそれに気づかないor気づいててもスルーできてしまうタイプの人ばかり。理解者がいない。
  • 感覚が人より過敏だったり、苦手な刺激があったりして周りと同じことができない。あるいは、できるけどすごくしんどい。(でも周りは自分と同じくらいしんどいのに頑張ってるんだと思ってしまったり)
  • 勉強して(=努力して)、何かを掴み取る!というイデオロギーがしんどい。一身の事情で努力が満足にできない人間はどうしたらいいっすか……
  • 普通に週休2日or1日(土曜授業があるのが基本の学校もある)に身体がついていかない。ってかこれはみんなそうじゃねえか? みんな我慢してるだろ。何とかならないんすかねぇ
  • シンプルに趣味や感覚が合う人がいない。学校に通っている間は学校が生活の中心、どころかほとんどを占めると思うので、そこで気の合う人が見つからないと結構きつい。
  • ことあるごとにお説教で教師にとっての正しさを叩き込まれる。お前がそう思うならそうなんだろうお前の中ではな。
  • あと他に何があったっけかな。

(「学校」というものをボロクソに言っているようですが、もちろん学校にだって、素敵な思い出ができる場所としての機能や、システムとして良い面もたくさんあるでしょう、ただここはしんどさを言語化して整理するためにつらつら書き出してみています……!)

 さて、こうして書き出してみるとよくわかるのですが、「学校」というのも、結局一長一短のある教育システムのうちの一つでしかありません。
 だから、それが身体に合わない人がいるのも当然になってきます。

 というわけで、学校以外の選択肢も必要だ、できるだけはやく、早く色んな人が選択できるようになったらいいよな、と思っていて、オルタナティブ教育について調べ始めています。
 もちろん体調が良ければなのですが、教育関連の論文を読んで文筆する活動もしていこうかなと思ってます。

「学校がしんどいのは何もおかしいことじゃない」って言うのは、言わないよりは全然マシだけども、それだけじゃあんまり解決にはならないからね。
 その解決に、少しでもわたしの力も添えられればいいなと思っています。

 ぼちぼちやっていきます。