【新曲】「真相」投稿しました。6月16日、2020年

 初めてYouTubeに投稿した「Rainy Shelter Dwellers」という曲の続編です。

 大っぴらにはできないかもしれない、それでも大切で愛おしい感情を抱える、この季節にぴったりの曲です。(雨テーマなので)

 とってもとっても自信作です。

 いっぱい聴いてもらえたらとってもとっても嬉しいです。

きょうの断片。6月16日、2020年

 わたしの歌はマスメディアじゃない。マスメディアみたいになりたくない。
 どっちかっていうと手紙とか、好きな人に送る恋文とか詩とか、はたまた祝詞とか呪文とか、メッセージボトルとか、そういうもの。そういうものでありたい。

 でも逆にボカロ曲とかで「わたしの歌はマスメディア」ってタイトルの曲面白い気がした。面白くない? ……そうでもない?

 これは昨日の話なんだけど、昨日は頭が痛すぎて更新できなかったんだけど、MVの分析をすることになった。やっほー!! すごく大変そうだけど楽しみ。

 これまで、音楽につける映像やビジュアルについて、音楽自体のイメージを左右してしまうから怖々触れるしかなかった。
 今でもその気持ちはある。音楽を聞いて初めに頭に思い浮かべる印象がMVで固定されちゃうのは、ちょっとどうなんだろうと。
 でも、このMVの分析を機にちょっと状況が動くといいな。
 もともと、わたし自身の制作スタイルが「頭に思い浮かんだビジョン(それは感覚や情動を伴った映像とか舞台設定みたいな形をしている)を歌として形に残す」というものなので、そのビジョンと少しでも逸れた映像をつけてしまうと大失敗になるので……難しいんだ。
 それに、聞き手から、歌から視覚的なイメージを膨らませる自由度を奪ってしまう気もするし……むむむむむ。

「普通の人間」なんてどこにもいなくて、でも普通でいなくちゃ生きるのが苦しいから、ちょっとぐらいならって押し込めて、「普通」でいることにしただけなんじゃないか、って、友達が言ってたような気がした(あくまで彼女の言葉を聞いたわたしの解釈なので、厳密には、いや厳密じゃなくても違うかもしれない。だからこれはわたしの意見でもある)。自分でそうしていることにすら気づかないんじゃないか、とも。
 それって……しんどいなあ。

 わたしはこの世界が大好きで愛おしくて、でも”社会”は恐ろしくて優しくないと感じているから、そう「知って」いるから、そう教えられてきたから、いつまでもメルヘンを手放せずにいる。
 手放したら死ぬ。
 きらきらした夢を見られない人生なんて、わたしのなかでは人生じゃないもの。

 人間を、他人が、(作品はもちろん)人生ごと作品化して見て消費する話。
 人間を消費するってなんだろう。単なる消費と搾取の垣根はどこにあるのかな。
 わたしは消費されたくないから、ビッグになるまで時間はかかりそうだけど、自分自身にひとつひとつ誠実にやっていくぞ。

今日の断片。6月14日、2020年

 友達が、懐かしい気持ちになるような、シンプルな響きの曲を作って送ってくれた。
 懐かしさは、過去に身体ごと戻れる鍵の一つだと思う。
 過去を振り返る暇なんて全然ない世の中だけど、その中で、過去に帰れるきっかけを与えてくれる貴重な刺激なんじゃないかな。

 それから、小説ともライトノベルとも言えるようなものを書いていた。
 物語の展開に合わせて描写のスピードを変えることが必要そうだなって感じる。
 描写が多ければ多いほど、物語内の時間はゆっくり進むことになる。
 それはクライマックスには適してそうだけど、物語の序盤はもっとぱっぱっと展開を見せたほうがいいのかなとか。

 学校っていう場所は、通学、日々の朝礼やHRや式典、制服、閉鎖空間などを通して、一つのイデオロギーを集団に仕込むのにとても適した環境だと思う。
 だから全てが悪いというつもりはないけれど、やっぱり怖い場所だ。なかなかこんなにも閉鎖的な環境って、学校以外にはそんなにないんじゃないかとすら思ってしまうのは、わたしがまだ学校生活しか送ったことがないからかもしれないけど、でもそう思う。
 学校をテーマにした物語を一つ二つ考えているから、いつかそれに着手できた時にはしっかりこの感覚も編み込んでいきたい。

 今日はひたすら眠かった。ひたすら休んだ。

きょうの断片。6月13日、2020年

「レコーディングの時、マイクに向かって歌う」という経験がすごく面白い気がした。それは一体誰に向かって歌っているんだろう? 現在でもあり未来でもある聴衆のため?
 吹き込んだ自分の声は、未来の誰かに出会うことになる。
「録音された声は過去のものである」、という言説はよく聞くけれど、それを吹き込む側に立って考えたことはなかったので面白そうだ。

 打ち込みの、オルゴールのような、誰が奏でるわけではない自分だけの音に耳を傾ける宝物みたいな感覚が好きだったのを思い出した。
 ボカロを聞き始めた小学4年生のあたりから。
 そんな音楽はいつも私に寄り添ってくれた。わたしのために存在し、わたしによって奏でられ始め、わたしのためだけに語りかけてくれた、ように感じていた。

 雨の水滴が乗り物の車窓を滑り落ちていく様を、涙が流れているようだと思って小さい頃から見ていたけれど、垂直方向に水滴が流れていくのを見る機会なんて他になかなかないな。

 わからないことは恥ずかしいことでも悪いことでもない。完全にわかる時なんてほとんど来ないんだから、分からないことにワクワクしようよ。
 わからないからって否定しなくていいし、「自分にはよくわからないから……」って遠ざからなくてもいい。

 多様性は弱さで、弱さを曝け出して協力し会えることが、理想的な深い関わり方、コミュニティのあり方だ、というような話を友達がしていた。
 とても素敵だと思う。
 わたしたちは何者か、どう生きていくか、社会についてどう思うか、みたいなことを、そんな信頼関係の中で話す場っていうのは、なかなかないし、あったとしても外側からは見えないことが多くて、難しいね、みたいなことを他の友達が言った。
 だからわたしは、そんなコミュニティを物語で描きたいと思った。

 新しい音楽や、面白そうなことに出会える「見本市」みたいな場所がもっとほしいねって話もした。
 例えば服を買う時がわかりやすいけれど、駅ビルの何階に行けば色んなお店が並んでいて、新しいものに出会える。その中からお気に入りのお店を探して、そのお店のオンラインショップで服を買ったりもする。「駅ビルの何階」にあたる場所が充実しないと、店側は新規の顧客に出会えないし、客側は新しい服に出会えない。だからそういう「見本市」って大事だよねって。
 友達が、ラジオは音楽にとって、そういう良き「見本市」になってたりするんだよって教えてくれて、とてもありがたかった。お勧めの番組も教えてもらった。ぜひチェックしてみよう。

 

学校がしんどい君へ。7 〜思い出し悲しい〜

 わたしの悲しみは、だいたい「思い出し悲しい」なのかもしれないな、と最近考えています。

 自分の本意じゃないことを無理やりやれって言われて、でも身体が動かなくて怒られたあの時。
 具合が悪いんだと訴えても信じてもらえず責められたあの時。
 周りと話も感覚も合わなくて、敵意をぶつけられたりもして、ものすごい孤独を感じたあの時。
 誰かに常に見られていて、ちょっとでも普通じゃない、はみ出したことをしないように緊張していたあの時。

 そんなたくさんの「あの時」を、例えば空気の匂いとか、そこから今も続いている生きづらさとかの引き金で思い出して、過去から続いてきた今のすべてが全部全部悲しくなる。そういう悲しみなんじゃないかって。

 わたしのような感覚過敏は--っていうか学校がしんどい人って大体何かしら過敏(わたしからしたらこの過敏さが普通で、他の人が「鈍感」なわけですが)なんだと思うんで、わたしたちのような、って言いますが--わたしたちのような感覚過敏は、感覚をずっと覚えているんです。

 覚えているなんて意識は多分ありません。誰が何を言ったとか、何があったとかなら言葉にできますが、あの時こんな空気の匂いだった、なんて言葉にしている人は周りで見たことないし。言葉にすることがなかったら、自分が覚えていることすら忘れてしまうのは当然のこと。

 でも、覚えているんです。
 悲しかったこと、苦しかったこと、肚の底に鈍い痛みと圧迫感が垂れ落ちていく感覚を、空気の匂いと紐づけて、わたしはずっと覚えていた。

 単に言葉や記憶としてじゃなくて、あの時の感覚がそのまま蘇るんです。
 だから、今のことのように、今感じている感情と少しも変わらない鮮やかさで、悲しみや苦しみや不安や緊張や危機感を思い出してしまうんです。

 たった「この今」は何の問題もなくても、今までの悲しみにずっと苦しむ。
 こんな悲しみをずっと抱えてきた、今も抱え続けていることに悲しむんです。
 過去のことにならないんです。思い出せてしまうから。

 未来のことも似たようなものです。またあの時のような苦しみを味わいたくない!って恐怖します。それは、「あの時の苦しみ」が、今でも、はっきり、くっきり、思い出せるからです。

 何でもトラウマになってしまう体質だ、って自覚がありました。(本来 ”トラウマ” は、「思い出すこともできない無意識に隠れた心の傷」を意味するのですが、最近は単に「心の傷」という意味で使われることも多いので、あえてその意味で ”トラウマ” と呼びます)
 過敏なので苦しみを感じやすく、一度感じた苦しみをいつまでも覚えているからです。

 ……と、なんだか鬱々としてきましたが、でも。「思い出し悲しい」なのだと分かれば、今悲しいわけではないって分かります。

 ひとつ、自分の中で起きていることの構造がわかって安心しました。

 それに、今悲しいわけではないってことが分かれば、「じゃあ今は何が起きてるの?」って考えて見渡すことができます。

 見渡すことで、一つ一つ「今はあの時とは違う」ことを見つけて、安心することができます。

 同じなのは空気の匂いと自分の感情・感覚であって、例えばあの時に比べてわたしはずっと大人になったし、できることも増えたし、住んでいるところも違うし、親との関係も友達関係もずっといい方に変わったし……みたいに。

 あの時と現在を区別することができれば、未来のことも似たように対処できます。

 あの時と現在が違うのだから、未来もまた違うはずだって思えます。あの時と未来が同じようになってしまうわけがない、なぜならあの時と現在が違うのだから、と。
 これからは、あんなことは起こさせない、って、わたしは自分自身に誓います。現在の方が良くなったのだから、未来は現在よりもさらに良くなるはず、と。

 そこで「ふつう」に考えてしまうと、でもわたし、「ふつう」に生きられないし……みたいになってしまうのですが、そこは前回の「身体の自然に任せよ(さすれば上手くいく)」を信じ続けたいところです。

「身体の自然に任せよ、さすれば上手くいく」は、感覚過敏のお守りです。

 そもそも「ふつうの人」たちは、自分の身体からシグナルを受け取れないので、方法論やルールや成功法則を作ってそれに従うことで生活を充実させるのではないでしょうか?

 とすると、わたしたち感覚過敏がその方法論やルールに従えないのも自然な気がします。

 そもそも、わたしたちの身体が発する命令のほうが、方法論の元祖なのですから。

 自分の身体が教えてくれるお告げと、外側からやってくる方法論。元祖の方が優先されるのは当然です。
 そりゃ身体も動かなくなるし、「ふつうの上手いやり方」に従えなくもなります。

 わたしたちの身体にとっては、わたしたちの身体が教えてくれるもののほうがホンモノなわけですから。

 この「感覚過敏」っていうのも何だか味気ないですね。躁鬱大学(noteで連載されている読み物です。超おすすめ!!!)学長の坂口恭平さんは、「躁鬱人」とか「狩人」「シャーマン・メディスンマン」「医人」「酋長」など、色々なロマンあふれる表現(表現であり考察)をしているので、わたしも彼に倣って「感覚過敏人」をいい感じの言葉で表してみたいです。

 っていうか、過敏なのは何も感覚、五感などの感覚だけとは限りません。社会的な理不尽や他者の痛みに敏感、というのも十分生きづらさにつながりますから、立派な過敏体質です(繰り返しになりますが、わたしはそれが「過敏」と扱われるほうが問題だと思うんですけどね!!!)。
 というわけで、ひっくるめて「過敏人」と呼ぶことにしましょうか。

 わたしたち過敏人は、成功法則や方法論や自分ルールが要らない生き物なのかもしれません。要るとすれば、「身体の自然に任せる、従う」というルールくらいなのかも。

 今回のまとめですが、

・「ひたすら悲しい」「今までずっと悲しかったことが悲しい」は ”思い出し悲しい” かもしれない。
 ”思い出し悲しい” だとわかると、今のことでも未来のことでもないことが分かり、安心できる。

・過敏人は “思い出し悲しい” の名人だが、その分、身体からお告げ(自分専用の成功法則)を受け取ることができるっぽい。
 だから過敏であるのも悪いことばっかりじゃないってことは覚えておいて。

 ということです。

 最後まで読んでくれてありがとう。

きょうの活動と断片。6月12日、2020年

 朝起きて、家事をして、最低限はできあがっている新曲のMVを眺めて唸った。手を入れるべきか、入れないべきかと。
 MVはいつも色々と迷う。
 音楽以外の情報、例えば文章とか映像の切り替えを入れたら入れたで音楽が聴こえなくなる気もするし、かといって見るものがないと目が退屈するのかなあとか……
 自分にしっくりくるものを作って、皆さんに提供する、という哲学でやっているので、わたしがしっくりくるようにするけれども、今日は迷う日だった。

 お昼を食べてから、「学校がしんどい君へ。」を書いた。
 一度に二日分書いたので、明日の分というか、一回分のストックができた。
 2回分とも長文になった。

 お昼を食べて、オンライン授業を受けてから、「哀と傷」のセルフライナーノーツを書いた。
 近々pixivFANBOXの方にアップできると思う。

 ここ数日授業で学んだことから、つくづく考えるのだけど、この現代社会、メディアの使い方が上手い悪ほど恐ろしいものはないなって。
 もちろん、メディアをうまく使って人を幸せにすることもきっとできるんだろうから、わたしはそっち方面の追求をどんどんしていきたい。
 そういうのって勉強や分析でどうにかなるもんじゃないかもしれないし、逆に言えばメディアの使い方が上手かったものが後からそう研究されるもんなのかもしれないから、狙ってできるのかはわからないけど……でも楽しそうだし。
 今日始めた↓みたいなメディアで何ができるのかとか、考えてみたら楽しそう。

 夜20時から、YouTube Liveでライブ配信をした。

 前々から企画していたプロジェクト〈天蓋〉というもので、自分の音楽を流しながらだらだらと雑談をした。
 でも、マイクでパソコンに向かって話すのは、まだまだ慣れない経験すぎて感覚がわからない。
 なんだか初めて歌をレコーディングしたあたりの時のことを思い出した。
 あの時は、マイクに向かって歌う感覚なんて掴めるも何も何がその感覚なのかも分からなかったし、何より緊張して気が散ってしまったし、「え、わたしもっと上手いんだけど……(マイクに向かってじゃなくて空間に向かって歌って、それをボイスレコーダーで録った時のクオリティと全然違う)」とか。
 懐かしいな。
 配信者の皆さんは神だということが改めてわかった。わたしもいずれその中の人柱になって行けたらいいな……まじリスペクトだ。

「声」に対する研究の材料にもなるかもしれない経験だ。練度を上げていきたい。

 新曲をupしたのちに、歌ってみたもまたやりたいな。

学校がしんどい君へ。6〜身体の自然〜

 なんか、自分はずーっと、自覚したのは小4からだけど、生きづらい側の人間なので、楽に生きる方法を探して色んな本を読んだんだけどさ。

 わたしが「これだ!」って思ったもの全部、根底にあるのは同じ一つのメッセージだなって気づきはじめた。

「身体の自然に任せよ。」

 これなんじゃないかって思った。

 わたしのような感覚過敏、周りの世界が発する刺激も自分の中の感覚もものすごく繊細に全部感じ取ってしまう人間は、「身体の自然」のセンサーがものすごいんじゃないかって。

 だから、自分の身体が発する自然に沿って歩いて行けば、とんでもないところに、この身体がわたしを連れていってくれるんじゃないかと思って。

 つい最近、坂口恭平さんの「躁鬱大学」を読んでいて気づいた。

 わたしは「自分」というものが物凄くあるし、褒められたいっていうのがモチベになる感覚がわからなかったり、一人の時間大好きで人と過ごしたらその1.5倍ひとりの時間が必要だったり、ノリノリで何か作業をしていてもフツーに疲れたりするので、躁鬱人ではない気がするけど、それ以外の部分はすごく共感できたんだよね、この連載。とてもおすすめです。

 今自分がしたいことを自分に聞く。その連続でとりあえず生きていこうと思います。

 坂口さんは、そういう好き勝手やる生き方は躁鬱人の生存戦略だ、的なことを(その通りのことは言ってないかもしれません。わたしの解釈です、念のため)言っているのですが、わたしにとってもそうで。

 生存戦略ってどういうことかっていうと、好き勝手生きられないと、躁鬱人もわたしも死にたくなってしまうらしいんだよねどうも。

 わたしが昔から、「もっとちゃんとしなさい!」と言われては「ちゃんとするってことはわたしがわたしじゃなくなることなんだ、じゃあ死んだ方がマシだ」と泣いて「そういうことじゃない!」ってまた怒られるっていうのを繰り返してきた理由もここにあったんだなーと。

 好き勝手できないなんて生きててもしょうがないじゃん、みたいなやつ。

 それでやってみて、何が自分のところにやってくるのかにとても興味がある、というお話でした。

 しょうがないじゃん、ちゃんと考えて行動しようと思っても、途中で身体が動かなくなったりするんだもん。

 身体の具合がいい時は、普通の人がやる方法で頑張りはじめたりするんだよ。それで計画を立てたりする。でも、結局天気が悪い日とかが途中で来て、身体が動かなくて、ああわたしはやっぱりこうなんだ、って気づいて鬱になる。それをずっと繰り返してたし繰り返してる。どうしてか、普通の方法論を自分にもできるって思っちゃうんだよ。具合がいい時は。

 でもそうじゃない方がいいのかもね。元気な時だって自分の体に従った方がいいんだろうな。「挫折」しないために。

 挫折してたんじゃなくて、もともと立ててた計画が自分の身体に合ってなかったんだと思う。小康状態だからこそできることを毎日やろうとしたって、無理なんだよな。よく考えなくても。

 人が言ってる「やり方」は、大抵わたしの身体には合わないってことを理解しとかないといけないなーと実感している低気圧の時期です。
 君も身体に気をつけて。

きょうの活動。6月11日、2020年

 プロジェクト〈天蓋〉で使うインスト曲を3曲仕上げた。これで30曲ラジオに使えるストックがあることになる。結構たまった気がする。もちろん常時足して行きたいけども。

 また、Rainy Shelter Dwellersの続編にあたる新曲のMVを作った。最低限は完成させられたが、これ以上手を加えるか迷いどころ。
 曲の方は、かなり高クオリティに仕上がったと思う。あと3ヶ月ほどで21になるわたしの今の実力を出せたと思う。
 この曲を作っていた時の思い出を書くと、Rainy Shelter Dwellersの制作データを久々に見にいったら、ギターの音色の作り込み方が結構ちゃんとしてて背筋が伸びた。その時受けた刺激とある種の良いプレッシャーを生かして、今回の新曲もギターの音色にはちょっとこだわりました。
 こだわりポイントの色々ある、お気に入りの一曲がまたできました。

 実は午前中から昼過ぎにかけてずっと悲しい気持ちだった。将来への不安でいっぱいになっていた。
 でも、「『自分の身体の自然に任せればうまくいく』みたいなことを、成功法則とか心の健康法とか語る人みーんな言ってんな」ということに気がついて、「今自分なにやりたいかな」って自分に訊いてみたら作曲で、それでインストが仕上がった。
 この状態がいつまで続くかなんてわからないけど、今日はなんとかなったし、活動を進められてとてもよかった。

 授業で、カルチャー史を学ぶ機会が多く、それも悲しみの原因だったと思う(原因っていうか、それに刺激されて悲しみが膨らんだ)。
 バブル崩壊前はみんな明るい未来を描いていたんだみたいな話を聞くと、未来が明るい時代なんてわたし知らないんですけど、どうしてくれんすか、みたいな、憤りですら既になくて悲しくて絶望的な気持ちになる。
 これは対策しようがない気がする。どーしよー。
 そもそも少子高齢化で若者は数で負けているから、色々動いたり主張したりしていても中々成果が見えない。なのに声を上げたことについて叩かれるのは同じ。そうすると、やっぱ心折れそうになる。わたしは活動の中心にいるんじゃなくて応援する側だけど、そういう強い逆風を見てるとこっちもしんどくなってくる。だから、今中心にいる人たちがしんどくなっても、声を絶やさないようにはし続けないといけないし、わたしもその一員で在れたらいいなって思う。
 みたいな八方塞がりさを昨日母に電話でぶつけてしまったけど、母は「そうだね……今は確かにしんどいかもしれない。でも、上の数の多い世代が退く時がこれから来るから、それまで心折れないように、静かでもいいから細く長く続けていけたらいいね」って、とても素晴らしいことを言ってくれた。嬉しかったしほっとした。ありがとう。

 あと、これもまた昨日の話になってしまうけど自分の曲は自分でしか売りたくないって話もした。それはわたしの内臓だから、人の手から売って欲しくないということ。

 それは将来どうしよう、って話からで、それで押さえ込んでいた不安が開いちゃって今日のはじまりが鬱だったんだ。
 とりあえず、さっきも書いたように「自分の身体の自然に任せる」ということをやってみようと思う。
 参考資料は坂口恭平さんの「躁鬱大学」(noteで連載されていた。無料で読める。この分量と内容が無料で読める。素晴らしすぎる)。わたしは躁鬱人とは少し違うけれど(”自分”がありすぎるくらいあり、自己の一貫性があり、一人で楽しく過ごせるところなどが相違点。逆に言えば他はすごく共感できる)、「窮屈にならない過ごし方」というのはむちゃくちゃ、めちゃめちゃ、死ぬほど素晴らしい。ぜひ読んでほしい。後で「学校がしんどい君へ。」にも書くと思います。
 色んな人の、色んな生き方についての本を読んでいて、結局行き着くところは全部「身体の自然に任せろ」なんじゃね?と思ったので。色んな人が色んな、その人自身の言い方で、「自分の体の自然に任せよ」って言っていた気がしてならない。

 noteの「プロジェクト〈天蓋〉」も更新したかったし、「学校がしんどい君へ。」の続きも書きたかったが、それこそ身体の自然が「眠い」と言っているので今日は此処までにして寝ます。

 おやすみなさい。今日は結構充実してた。しあわせだー。

きょうの断片。6月10日、2020年

 ニュータウンには歴史がない?
 わたしはニュータウン育ちなので、色々考えた。その中で宮崎駿氏の「耳をすませば」ってすごく画期的っていうか、大きな役割を担ったのでは。

 ポピュリズムってネオリベっぽさを感じる。何もかもがブランディングのためのセールスピッチになっていく感じ……
 わたしはビジネス的な考え方自体には否定的ではなくて、美学とか理念とかとうまく噛み合ってればとてもいい効果を発揮できそうって思ってるんだけど、だから肝心なのは美学とか理念とかが口だけじゃないかってことで、ごにょごにょ……

 フロイト→ラカンの精神分析の話を聞くと、面白いんだけど、やっぱり自分は無意識というものに実感が持てないところはある。
 無意識は、ショックすぎて忘れている(忘却)と、そんなのダメだと思っている(抑圧)で、ざっくり言うとこの二つでできている気がするけど、わたし自身はその二つを回復して「無意識」から引き出すことができちゃったパターンなんだろうなって。だから実感が持てないのは無理もない。
 自分で自分を楽にしようとその辺はめっちゃがんばったからな。セルフセラピーしてたから。

 今はなんか、SFのイメージすら古ぼけた感じになったなあって。
 これから「新しいSF」ってでてきたりするのかなあ……

 Flying Lizardsに興味を持ち始めた。あとArt of Noiseを改めてもっと聴いてみようかなと思った。

 昔のテクノポップ、プラスチックやポリプロピレンというワードがキーワードになっていたのかなって思う機会があって、それってPerfumeもそうだった時期あるよなって思い出した。

 バッハのポリフォニー、死ぬほどおしゃべりでしかも話す内容が一言一言面白い人の話を聞いている気持ちになる。待って、今言ってたこと面白かったからちょっと味わう時間ちょうだいよ待って待って、みたいな。

 何かの素材をループして作る音楽とトートロジーには親和性があるから、そういう歌詞って面白いかもと思った。トートロジーな歌詞。あるいはエコーチェンバー現象な歌詞。

きょうの断片。6月9日、2020年

 女性が「やおい(二次創作BL)」を書くことについて、その向こうの心理や社会学について研究してみたいかもしれない、と思った。文学にはどんな哲学があるんだろうか。エクリチュール--書かれたもの--だけでなく、その文章を書くという行為に関する研究や分析の方法論はあるのだろうか。調べてみたい。

 その不便さやコミュニティ的な特徴から、社会運動とも相性が良さそうなZINEというメディアが、最近とても気になる。作ってみたいし配布してみたいけれど、あいにく配布の仕方がわからない……
 このサイトで連載している「学校がしんどい君へ。」の原稿が溜まったらZINEにしてみたい、なんて思いつきはあるが、やはり問題は配布方法だ。
 維持費以外の価格をつけずに通販(郵送)という形でいいんだろうか。

 他者の痛みを感じ取る時、やっぱり身体(性)が重要である、というような言説にも触れた。
 でも、その身体も、現代ではかなりサイボーグ化してきている。
 前に、声もまた人体の延長としての「道具」であり、本質的にサイボーグ的である・サイボーグ化する性質を持った人間が、初めて自分の身体で取り扱う延長装置=サイボーグ的身体の一部だという話を聞いたことがある。
 わたしは大学では、録音された音や声を使って作品を作ろうとしているので、「サイボーグ」は声に関するキーワードとして覚えておきたい。

 また、「見る」ことと「消費する」ことの密接な関係について、同じゼミの人たちの発表を聞いて考えた。
 では、「聞く」ことは、「消費する」ことへの対抗手段にはなるんだろうか。ならないんだろうか。なるとしたら、ならないとしたら、それはどのようにだろうか。

「初音ミク」は史上初の「(少女型)アンドロイドの声」だったので、人形愛のような欲望を人々に抱かせた、という文章を読んだ。
 人間に近づこうとする、けれど人間ではない存在への愛情。
 それが「声」という領域に現れたことは、とてつもなく画期的だったのだなと理解した。

 SNSでの情報発信(とくにタイムラインがあり、フロー型のもの)は、一時的な話題性や拡散には繋がりやすいが、それがその発信者や扱っている問題への長期的な支持につながりやすいとは言えない。
 とすると、やっぱりその人固有のページ(ポートフォリオorギャラリーになってくれるページやブログなど)やその問題専門サイトが必要になってくるんだろうなとふわっと思った。

 あと、「見てほしいという感情」「見られるという快楽」の話もゼミで出たけど、
 わたしは見てほしいわけじゃなくて、わたしがここにいることを知って、共感したら愛してほしい、つまり友が欲しいのだな、と再確認した。

 そう、友が欲しい。
 迷走することもあったけど、根本はそれだった。
 どうやったら友は増やせるんだろう。
「見せる」ことも、友を増やすためには必要だけど、たくさん見せる必要はないしそれでしんどくなるのも違うし、何より「見せる」ことだけじゃ不十分だ。それ以外にも重要なファクターは色々あるはず。
 とりあえず、今プロジェクト〈天蓋〉というものをやっているので、それが第一歩になったらいいな。