目次
- はじめに-理想の物語を手に入れるために【このブログの目的・射程】
- なぜセカイ系なのか【その対象を選んだ理由】
- セカイ系とは何か【対象の概要・現状の確認】
- 「僕」の鋭い感覚-セカイ系の宝石
- 「僕」には、なぜ「社会」が必要なのか-「僕」および「キミ」と「セカイ」の間にあるもの
- 「社会」「世間」をどう描く?-暖かさだけでなく、閉塞感を
- わたしだけのポストセカイ系小説のために-まとめ【結論】
はじめに-理想の物語を手に入れるために【このブログの目的・射程】
わたしは物書きの端くれである。
厳密に言えば小説家志望である。
クラシックなライトノベルと不条理劇、スリップストリームが大好きだ。
けれども、全然小説を完成させられないし、そもそもどのような物語が自分の理想なのかもまともに掴めていない状態だ。
そこで、自分の理想の物語を模索するべく、色々なジャンルの物語について、自分なりに考察していこうと思う。
既に、東浩紀や大塚英志、宇野常寛などの理論を下地に、沢山のものし手たちにより、ポップカルチャーやアニメ・漫画などへの批評が無数に行われ、分厚く積み重ねられていることは承知の上だ。
わたしがこれからしていくことは、そのシーンに対して新しい視点をもたらすようなことは(こんなふうに言うことすら恐れ多いくらい)ないだろう。
わたしがしたいのは、彼らの研究に敬意を表しつつ、わたし自身がどんな物語を書きたいのかを明らかにしていくことだ。
そんなわたしの実践を見せることにより、読者諸君にも、それぞれが自分自身の理想を掴むための語彙や手がかりを拡散できたらと思っている。
なぜセカイ系なのか【その対象を選んだ理由】
わたしがライトノベルやアニメやゲームが好きだからだ(直球)。
それらの作品に惹かれるわけは、自分が「セカイ」あるいは「社会」「世界」に対してどのように影響力を作用させれば良いのかについて、わたしがずっと考えているからなのだと思う。
「わたしはこう思う」「これじゃダメなんじゃないか」「もっとこうなったらいいんじゃない?」という声を、いかに人々に届けていくか。
それがわたしの、目下取り組み中の人生のテーマだから、惹かれるんだろう。
それに加え、不条理劇は不明瞭で捉えどころのない「世界」の風刺画であるから、後述する「捉えどころのない ”外界” を “セカイ” と言うしかない感覚」にも合致する。
不条理劇の「世界」が不明瞭なのは、世界および社会が高度に複雑化・専門化・官僚制化・監獄化・監視化・緊急事態が日常化etc.したからであり、未熟あるいは極端に内省的であるがゆえに「セカイ」としてしか世界を捉えられないセカイ系の想像力とは同じものではない。
けれども、共通している部分もあるから、セカイ系について考察を深めることで、不条理劇についての考察にも新たな切り口が手に入るのではないだろうか。
さらに、スリップストリームは、大人のためのファンタジー、あるいは寓話だ。
非現実的な描写を使うことによって、自分自身や他者や社会や世界をどのような言葉や思考や詩学で捉えるのかを問う。
これもまた、セカイ系と共通するテーマを持った物語の類型だ。
だから、わたしの想像力やお話を書きたいというワクワクの源泉はセカイ系にある気がしている。
そういうわけで、まずセカイ系について掘り下げたいのだ。
セカイ系とは何か【対象の概要・現状の確認】
セカイ系とは、ある少年(多くの場合少年)の日常風景と、十代の発展途上な自意識で捉えられる、感覚としての「セカイ」を舞台とした物語である。
誰もが知っていそうな例を挙げるならエヴァである。
まず、主人公の日常生活に、少女(多くの場合少女)が突然闖入してくる。
二人は恋に落ちたり惹かれあったりする。
それと同時に、主人公の日常が崩壊していく。
そして、その二人の関係性と「セカイ」の命運が直結するような物語が展開されるのだ。
……この定義だと、かなりのアニメ・漫画・ジュブナイル系ゲーム等々が該当しそうである。
それぐらい普遍的なお話の筋なのだ。
しかし、このような物語には批判も多い。
「僕」と「セカイ」の間の「社会」が全然描かれてないじゃないか、まったく現実的じゃない、地に足がついてない、故に何の実際的な力も持たない、ということである。
物語が終わったら、あー素敵な/面白い/熱い/切ないお話だったな、で終わってしまう。
人を感動させる物語は素敵だけど、欲を言えば感情を揺さぶるだけでなく、「自分も〇〇してみよう!」とか、「久々に▲▲しようかな」とか、「ちょっと頑張ってみるか〜」とか、「これについて深く考えてみようかなあ」みたいな、何か行動を起こしたくなるところまで持っていきたい。
それに、「僕」という自意識と「キミと僕」という閉じた人間関係と「セカイ」というふわふわとした”外界”からなる物語は、ともすれば、内面を変えれば世の中は変わる、自分を変わればセカイは変わる、という陳腐な心理主義、及び心理主義的自己責任論に陥ってしまいかねない。
しかも、どうして「僕」が「セカイ」の命運を握ることになるのか、大抵の人間は世界の命運を握らないにも関わらず……というそもそもの問題もある。
ここの問題を描写や設定で解決できなければ、単に全能感を持った若者のための物語に終始してしまう危険性があるのだ。
「俺TUEEE系」「無双系」と揶揄される、主人公ばかりが作品世界に強い影響を与える作品の問題点もここにある。
他にも、「社会」との関わりではなく、模糊とした「セカイ」と極めて限定的な「キミ」との関係だけを通して自分のアイデンティティを確立する、という視野の狭さへの批判などもあるが、ここでは割愛する。
この記事では、「僕」と「セカイ」の関わり方にフォーカスして考察を深めたいからだ。
要するにセカイ系は、見た目上のスケールの大きさとは裏腹に、極めてスケールの小さい個人的な神話-物語なのだ。
物語の中で模索や解決をされるのは結局、主人公個人の心理や「キミ」との人間関係だけなのである。
確かに、主人公が成長し、「キミ」の手を取れるようになったり、心の傷を乗り越えたり、「セカイ」を救ったりできる物語は素晴らしい。
けれど、それはあくまで主人公の人生だけに閉じた物語だ。
同時代に生きる人々≒「社会」や「世間」の出る幕は、そこにはない。
現実には、「僕」は、沢山の「キミ、君、お前、あなた」や、大人たちや、良くわからん人々や、知らず知らずのうちに自分の内面にまで浸透しているようなざわめきや、とにかく諸々の影響に取り囲まれて生きているのだけれど。
もちろん、このようなセカイ系批判は相当昔からなされているものであるから、ここでわたしが挙げた批判は、現在では何ら新しいものではない。
どころか、今のあらゆる漫画・アニメ・ゲーム的な物語にとってはとっくに、当たり前の前提となっている。
既に沢山の「ポストセカイ系」-「セカイ系」の持つ問題点を克服し、「社会」を描いた物語が生まれているのだ。
わたしが特に好きなのはこの作品だ。↓
「セカイの命運」が何故主人公とヒロインに関わってくるのか、それに対して周囲の社会はどのように動いているのか、どんな人々がどんな思惑で事件に関わっているのかを、とっても丁寧に丁寧に描き出している。そしてもちろんワクワクする。素晴らしい作品だ。何を食べてどんな布団で寝たらこんな作品が書けるんだろう。わたしもこれになりたい。すごすぎる。
けれども、当たり前の前提だからこそ、わたしなりのポストセカイ系な描き方を確立したいのだ。
だから、いきなりポストセカイ系について考察してポストポストセカイ系を目指そうとするより、基礎に忠実に、セカイ系のことを考えたい。
「僕」の鋭い感覚-セカイ系の宝石
上に挙げたセカイ系への批判はもっともだ。
既にこれらの問題点を克服した作品が沢山生まれているのも、とんでもなくハッピーなことだと思っている。
しかしながら、十代に特有な「セカイ」に対する感覚は、未熟ながらも一定の鋭さを持っていると言っても良いとも、私は考えている。
単に厨二病だとか斜に構えているとか若いとか青いとか言って一蹴するべきでないものが、そこには眠っているのだ。
だって十代というのは、子ども時代を経て、ようやく外界に対して違和感や疑いを持てるようになった年頃だ。
その時の、野生の勘とでも言うべき、言葉も表現も追いつかない原始的な衝動にも似た感覚は、他に変え難い唯一性を持っている。
そう考えると、この曲は極めてセカイ系的な感覚を歌にしたものだったのかもしれない。
作った当時ははっきりとは意識していなかったけれど、十代の瑞々しい気持ちを表現しようと、敢えて青春真っ只中なボカロ曲をイメージして作ったし……
「日常」に対する、ふわふわとした掴みどころのない違和感。
今いる場所から遊離し、ここではないどこかを求める感覚。
直感的かつ想像力の産物としか思えないような感傷的な、ヒリヒリするような、迫ってくるナニカ。
何をすべきかわからないけれど何かをしなければと込み上げてくる衝動。
自分を取り巻く形ない”空気”を、色々なものを飛び越して「セカイ」と形容してしまいたくなる・そう形容するしかない “外界” 観。
どれも忘れたりこぼしたりせずに、きっちり拾って観察や検証や言語化を行わなければいけない。
セカイ系とはあくまで、少年少女のための物語である。
大人も楽しめるセカイ系もまた、少年少女の時代に置き去ってきたものを回復するための物語である。
と、このようにセカイ系を捉えてみれば、セカイ系が何を学ぶための物語なのかも見えてくる気がする。
セカイ系とは、自分の存在の産声だ。
やっと少しだけ客観的に捉えられるようになった「セカイ」の中で、「僕」はここにいると叫びたくなる物語だ。
セカイ系とは、目的の定まらない出航だ。
走り出したい衝動に駆られても、対象がなければ踏み切れない。だから、目的地としての「キミ」や「セカイ」を求める。
セカイ系とは、「日常」を飛び出すという宿命だ。
なぜ走り出したい衝動や、このままじゃダメだという危機感に襲われるのだろう?
自分が今いる「当たり前の日常」を(「社会」の中の )「世間」として相対化するためには、その外に出なければならないからだ。
一度あまりにも大きな「セカイ」に飛び出してしまってから、「セカイ」の中の「社会」、さらにその中の「世間」を捉えていく。
「僕」には、なぜ「社会」が必要なのか-「僕」および「キミ」と「セカイ」の間にあるもの
セカイ系的想像力を持ち始めた少年少女が望んでいるのは、自分の力を発揮して「世界」へとつながっていくことだ。
けれども、当然だが、個人はいきなり「世界」に影響力を作用させることはできない。
インターネットの普及により、「世界」と個人の距離は今までのどの時代よりずっと近くなった。
しかしそれでも、「世界」に向けて「僕-個人」の声を発したとしても、他の声にかき消されて容易く埋もれてしまう。
どうあっても、「僕-個人」が「世界」とつながるには間に「社会」が必要なのだ。
さらには、個人が「社会」に触れるためには、もっと身近な人間関係である「世間」の力が不可欠である。
結局、いきなり世界は変わらない。
自分の身の回りから少しずつ、自分の力で動かしていくものだ。
「僕-個人」は、彼/女が属する「世間」でその力を少しずつ成長させていく。
そして、その力を以て、今いる「世間」の外へと手を伸ばす。
すると、別の「社会」の誰かと手を繋ぐことができる。
構成員同士が繋がることで、幾つもの「世間」が少しずつ共鳴し、「社会」が震えていく。
共鳴は次第に大きくなり、そこでようやく「セカイ-世界」に何かが響いていくのだ。
主人公が属している「日常」を丁寧に描けば描くほど、物語は現実的なものになるだろう。
反対に、そこが透明になったり、具体性を欠いたり、生きていて直接触れ合う人間が少なかったりすればするほど、物語は内面的になっていく。
現実的な基盤を持たない物語は、現実的な出来事を描けない。
当然と言えば当然だけれど。
そしてわたしが書きたい物語は、現実的で効力を持つ物語だ。
「自分にだって、現実世界をちょっとずつ変えていけるんじゃないか」という希望を読者に与えたいのだ。
「社会」「世間」をどう描く?-暖かさだけでなく、閉塞感を
わたしが自分の理想の物語を思いつけなかった理由は、間違いなくこれだろう。
わたしは「世間」や「社会」を見ず、「セカイ」を見ていたのだ。
しかし--
それは十代のわたしにとって、「社会」「世間」=「自分を取り巻く当たり前の日常」が、居心地の良い場所ではなかったからなんだけれど。
今の居場所にうまく言えない居心地の悪さを感じている少年少女にとって、「社会」も「世間」もぶち抜いてしまえるセカイ系は、心の救いなのだ。
過去のわたしは、どんな「社会」「世間」の描き方なら、疎外感を持たずに受け入れてくれるだろうか。
「わたしにはそんな心を開けるコミュニティはないし」「わたしの周囲にこんなに良い人はいないし」「良い人もいるのはわかってるんだけど、物足りないんだもん」という寂しさを乗り越えて、どうしたらその心に温かく触れられるだろうか。
居心地の良い、開放感のある場所を求めて踏み出すことにすら怯えていたわたしに、どんな描写なら届けられるだろうか。
今いる「世間」の外に踏み出すのは、賭けだ。
酷い奴に出会うことだって少なくない。良い人だけど、一緒にいて面白くない人だって多い。
悪い出会いに連続して遭ってしまえば、もう誰とも関わりたくないや、となってしまう。実際そうだったし。
そうやって良い出会いがないなんて嘆いていれば、「人のいいところを見つけましょう」とか、「何事も面白がってみましょう」とか、「日常がつまんないのは君が面白さを見つけられないつまんないやつだからだ」とか、「自分から人に心を開かないと云々」とか、雑音も入ってくる。実際そうだったし。
若く純粋な感性は時に脆弱だ。特に、夢や希望や未来を人質に取られたら。
嫌なものは嫌、嫌いな人は嫌い、別のものがいい、とすら言えなくなる。
そんな不自由もしっかり描いていくことが必要だろう。
それが、少年少女だった頃のわたしが必要としていたものだから。
”コミュニティ”という言葉に、わたしは息苦しさを感じてきた。
わたしが見てきたものが偏っているのかもしれないけれど、セカイ系の問題点克服のために描かれる「社会」は、良い人ばかりで、温かいものばかりだった。
セカイ系は、「ここじゃないどこか」志向だ。それを乗り越える手段として、「”ここ”も捨てたもんじゃない」を描くことは理に適っている。
よくよく観察すれば、良い人も多いのは間違いないだろう。
でも、「なぜ “ここじゃないどこか” に行きたいのか」をしっかり描いた物語を、過去のわたしは強く求めている。
表層的ではない、劇的でもない、自己憐憫的でもない、厨二病でもない、
地に足のついた、それなりに客観的な、ささやかな、でも確かな、「日常」への絶望。
それをしっかり拾い上げて、描写しなければ。
異世界に転生しなければ心躍る冒険ができない気がするのだって、この絶望があるからだと思うから。
いや、確かに異世界はめっちゃワクワクするけど。
それはそれとして。
それこそ「現代モノだって捨てたもんじゃない」って言いたいからだ。
わたしだけのポストセカイ系小説のために-まとめ【結論】
わたしは小説が好きなので、内省的・自閉的な物語は大好物だ。
精神世界を旅したり、自分や他者や死者や社会やセカイ-「世界」について一人で延々と考察を続けたり、知らなかった自分に出会ったり。そのどれにもワクワクする。
けれども、そんな表現は、現代の状況では、具体的かつ社会的かつ現実的な正義から人々を後退させることにつながってしまいかねない部分も含んでいるらしい。
本当は、社会的正義のためにも自我を確立すべき、とも言えるのだけれど。近代以降、小説とはそのためのツールだったはずだけれど。
小説の中で、主人公は様々な出来事を通して自分自身を知っていく。「自我」を形作っていく。
けれど、知っていく「自我」の中だけで閉じてはダメなのだ。
「僕」を知ることと「僕以外」に手を伸ばすことは、セットでなければならない。
手を伸ばせないのであれば、せめてそれを拒む「僕」を探して見つけ出すこと。
見つけ出したら、しっかり話を聞いてハグすること。
自分の好きな表現形態が危うさを孕んでいるのなら、しっかりとその危険性を理解し、できるだけ克服しながら作品を作り上げていきたい。それがわたしの作り手としての矜持だ。
……いや、矜持なんて立派なものではない。単に、違和感を整理しないまま進めないだけだ笑
ここまでの考察を経て、こんなふうに考えがまとまった。
わたしが書きたい、書くべき物語は、
- 「僕」と「セカイ」の間にある「世間<社会」を豊かに描写して、
- 「僕」が少しずつ「セカイ」に声を届けていけるようになるような、
- それでいて、「僕」が属する「日常」=「世間<社会」へのささやかな絶望もしっかり拾って描く、
そんな物語だ。
こんな物語は既に沢山ある? それはそうだと思う。
でも、わたしなりのやり方で、これを描いていきたい。
わたしが書ける物語は、わたしにしか書けないから。
諸君が書ける物語が、諸君それぞれにしか書けないのと同じだ。