初めて作った曲は、怨みだった。
次に作った曲は、処方だった。
”自分を救う芸術” というのがわたしの得意分野なんだけど、わたしはまだまだ全然癒えていなかったことに気付かされる。
わたしは学校にも行きたくなかったし、働きたくもない。
置かれた環境を楽しむことはするよ。退屈は大嫌いだから、今いる環境を楽しむための努力は目一杯する。だけどそれが自分を捻じ曲げていることは変わらない。だからいつかそこからは発たなければならない。
いつかと云わず、近いうちに。
捻じ曲げて、捻じ曲げたことによるストレスをうまく処理して、そういうふうにやっていけるようになることが大人になることなのかもしれないけどさ、そんなの不毛すぎるなってずっと思ってた。
そういうの、「自分の痛みとうまく付き合えてる」じゃなくて、「騙し騙しが上手くなった」としか言わないんだよ。自分にどれだけ不誠実か。
痛みとうまく付き合うって言うのは、痛みを麻痺させたり引きずったりしながら頑張るんじゃなくて、痛みがあっても快適にすごせる環境を自分に作ってあげることでしょ。
わたしが欲しかったのは、
社会に適合する方法でも、
苦しい時の薬でもない。
そんなものかけらも欲しくなかった。
わたしが欲しかったのは、
社会に適合しなくても生きていける方法。
いくらだって辛い気持ちでいさせてくれる環境。
「世の中そんなもん」の、「そんなもん」な世の中を変えられる方法。
それに至る糸口も既に見つけている。
これはわたしの小さな革命だ。
自分を押し込めて働いて、休日に羽を伸ばしてまた働く?
そんな消耗戦があるかよ。不毛すぎる。
これまではそれで良かったのかもしれない、でも失われた〇〇年と言われて久しい現代、我慢したり頑張ったりプロテスタンティズム的努力を重ねたからと言ってそれに見合った対価が得られるとは思えないし(年金制度も崩壊してんのに?)、そもそも我慢した分の対価を得ようって考え方自体が卑しいし、国としてもそれで豊かになるとは思えない。だってもう伸び代がないもの。
頑張ったり我慢したり努力したりするにしても、それら頑張りを向けていく方向がないもの。新しい需要が生まれる余剰がほとんどない。みんな疲れてるもん。だから、ケアに大きな価値を見出して、つまり価値形態を転換させて、成熟した社会にしていかないといけない。
ただここで問題になるのは、我々はケアとは何なのかがよく分かっていないと言うことだ。
それもそのはず、ケアのいらない人材になれるように誰もが頑張る世の中だから。
人材としての市場価値って、競争力って、ケアの要らなさでしょ?
ケアこそ、即ち人間の弱さ、醜さ、汚さ、未熟さ、悲しみ、苦しみ、痛み、どうしようもなさこそが需要なのに、そういう部分を隠して見ないようにして、その上で新しい需要とやらに応えて、あまつさえ新しい需要を生み出そうとして……とか、児戯にも等しくない?
これからの世の中、ケアを知っている人、すなわち自分の弱さを知っている人こそが生き残り、最後に笑うんだと思うな。
とはいえそんな中にも、すごい、ちゃんと循環回そうとしてる!って思えるような仕事をしているところもあってさ、
……でもわたしは、他の誰かの事業に自分の居場所を見出して頑張れるタイプでもなかったみたい。我が強すぎるもんね。知ってた。就活うまくいかなかったのは十中八九それ。あんまり上手くいかそうともしてなかったしな。
恥ずかし。
わたしはわたししか愛せない。
わたしはわたしにしか従えない。
わたしはわたししか信じられない。
そもそも愛は湧き上がるものなんだから、愛そうと思って愛するのはさ、それもやっぱり自分を矯めて頑張っちゃってるよね。愛そうと思って愛するのは自分ぐらいでちょうどいい。
自分のことを大切にできていたら、自然と周囲のことも大切にしたいって思えるものだから。
わたしはわがままだ。その自覚はあるし、それを恥じる気もないし、わがままなんかじゃないよと言って欲しいわけでもない。
「わがままか合理的配慮か」という話は、わたしには関係のない話かなと思う。だって、何をわがままと呼ぶかはその時代の大多数がどういうかによって決まるのに過ぎず、「わがままだろうが叶える」と言っていくことによってこそ価値観の変革は起こって世の中は変わるのだから、何かを「わがまま」から「わがままじゃない」にすることとか、ましてや何かがわがままかそうでないかについて口角泡を飛ばすことにどれぐらい意味があるのだろうかと思うからだ。少なくともわたしはそういう他人の判断に興味はないから、わたしを他人がわがままと言おうが言うまいがどうでもいい。まあ悪罵を浴びせられたら傷つくけどね。そのために「わがままじゃない」を広げていこうって話なんだろうけど、「わがままじゃない」を獲得するまで待っていては遅すぎる。そのうちに一生が終わってしまうんじゃないかと思って恐ろしい。じゃあ、わがままだろうが突っ走るしかない。
頑張ってまともに見せられるようにやってきたけれど、それもなんだか疲れてしまったし、
そもそもそんなことをしていたって、
誰も気づいてなんてくれないし、
誰も見つけてなんてくれないし、
誰も褒めてなんてくれないし、
誰も助けてなんてくれないし、
誰も愛してくれない。
どんなに明るく見せていても、肚の底は恨みと不信で真っ黒だ。
初めて曲を自分で全部作った時もこんな気持ちだった。
自分の内側に巣食うどうしようもない質量の怨みを曲にしてぶつけて焼き尽くしたかった。
そんな気持ちを今思い出している。
きっとそこへ戻って、一から始める時なんだ。
だから『永久機関』はさ、「自分さえ頑張れば」っていう人の頑張りや努力や我慢を搾取することで成り立っている世の中を、「まるで自分が永久機関にされてるみたい、ちっとも永久じゃないのに」って告発するために作った曲なんだ。
だからこの曲をテーマにしたアルバムを作ろうと思う。怨みを昇華するために。
これらの曲も収録して。↓
最果てに焦がれて覚悟完了してしまった人を描いた曲。
疲れてしまって、ニンゲンならば辿り着けるだろう”おわり”に憧れてしまったロボットの哀しみを描いた曲。
なんかもう色々と手遅れな曲。
新作ヘールシュピールとか、新曲も作って、詩の朗読も収録してやるぞ。
わたしたちはとっくにディストピアに生きていて、
不条理演劇の世界に生きていて(カフカの『変身』から100年以上経ったのにわたしたちは未だにグレゴール・ザムザだ)、
それなのにそれに気づいていないんだってことを突きつけてやる。
絶対に許さない。
怨みだけは渾々と湧き出してくる。
誰か特定の人物に対する恨みではなく、集合意識への怨み。
お前らももっとちゃんと怨めよな。